『世界を救わない勇者、二号室に住む』
春というにはやや雑で、夏というにはまだ遠慮がちな風が、木造アパート『ハイツ夕凪』の廊下を吹き抜けていた。
二号室の住人、梶間ユウは、その風に洗濯物を持っていかれないよう片手で押さえつつ、もう片方の手でカップ焼きそばの湯切りをしていた。
「人生って、だいたいこういう同時進行で失敗するよな」
ぼやいた直後、洗濯物のTシャツが一枚ふわりと空へ逃げ、焼きそばのソース袋は湯気で指に貼りつき、さらに背後のドアが勢いよく開いた。
「ユウくん! 出たぞ!」
飛び出してきたのは一号室の住人、星川ミコト。見た目は十七、八の元気な女の子だが、本人いわく“星間帝国正規第二級航法巫女”らしい。何を言っているのか半分も分からないが、住民票はちゃんとこの町にあるので、たぶん大丈夫なのだろうとユウは思っている。
「何が」
「時空のひずみ!」
「またか」
「またとは何だ! 今回は本物だぞ!」
「前回もそう言って、ただの電子レンジの故障だったろ」
「結果的にはな!」
何一つ安心できない言い回しだった。
ミコトは廊下の先をびしっと指差した。三号室の前に、直径三十センチほどの黒い穴がぽっかり開いている。見た目は穴というより、空間にできた黒いシミだ。縁がわずかに青白く揺れていて、どう見ても電子レンジではない。
「……え、本物っぽいな」
「だから言っただろう!」
ユウはとりあえず湯切り途中の焼きそばを床に置いた。こういうとき、人生経験が教えてくれる。焼きそばは逃げないが、厄介ごとはだいたい放っておくと増える。
三号室のドアが開き、中から大家の坂上さんが顔を出した。七十近いのに背筋のしゃんとした老婦人で、このアパートの秩序そのものみたいな人だ。
「あら、また何か出たの?」
「『また』で通じるんですね」
「春先は多いのよ」
「何がですか」
「いろいろ」
大家の答えはいつも広く、そして雑だった。
その黒いシミが、ぶるりと震えた。
次の瞬間、ぼとり、と何かが落ちてきた。
全員が固まる。
落ちてきたのは、つやつやした黒い球体だった。サイズはメロンほど。表面に金色の線が走っていて、ところどころ小さな目みたいなものが開いている。
球体は床の上で一度跳ねると、ぴたりと静止した。
『……着陸。未知文明圏への強制漂着を確認』
しゃべった。
『問い合わせ。ここはどこだ』
「大阪府南河内郡寄りの、まあだいたいそのへんです」
『雑な回答を確認』
「お互いさまだろ」
ユウが言うと、球体の表面に一瞬だけ「むっ」としたような模様が浮かんだ。どうやら感情表現機能もあるらしい。
ミコトが一歩前に出る。
「名を名乗れ、漂流体!」
『我が正式名称は長い。お前たちの発声器官では途中であきらめる可能性が高い。ゆえに略称を許可する』
「上からだなあ」
『略称は“グ・レーン管理補助端末七号”』
「グレーンでいいか?」
『許可する』
「意外と話が早いな」
グレーンは小さく回転し、周囲を見回した。いや、球体だから“見回した”で合っているのかは分からないが、なんとなくそう見えた。
『状況説明を求む。我は銀河航路上において追撃を受け、緊急転移を実施。その結果、妙に生活感のある通路へ到達した』
「妙に生活感のある通路で悪かったな」
「ユウくん、これは明らかに追っ手が来る流れだぞ」
「知ってる。そういう顔してるもん、お前が」
「私の顔のせいじゃない!」
と、そのときだった。
黒いシミが再び震え、今度は向こう側から金属音のようなものが響いてきた。
『警告。追撃個体接近』
「ほら来た!」
「よし、じゃあ警察――」
「時空のひずみに対応する警察がどこにいる!」
「そう言われると困る!」
穴の向こうから、細長い銀色の腕が一本、ぬるりと突き出してきた。続いてもう一本。明らかにろくでもない何かが、こちら側へ侵入しようとしている。
ユウは数秒考えた。
戦えない。特別な力もない。剣もない。魔法もない。バイトは三つ落ちた。あるのは生活費への不安と、置きっぱなしの焼きそばだけだ。
「ミコト、あれどうにかできるか」
「時間をくれれば!」
「どれくらい」
「五分」
「長い」
「宇宙規模で見れば短い!」
「今この廊下、宇宙規模いらないんだよ!」
銀の腕がさらに伸びる。壁に触れた瞬間、じゅっと煙が上がった。
大家の坂上さんが静かに言った。
「壁紙、張り替えたばっかりなのに」
「怒るところそこですか!?」
「住まいは大事よ」
その一言で、ユウは腹をくくった。
世界は正直どうでもよかった。そんな大きなものを背負えるほど、立派に生きてきてもいない。
でも、家賃三万八千円、風呂トイレ別、駅まで徒歩十五分、大家さんがたまに煮物をくれるこのアパートは、けっこう気に入っていた。
だから守る理由としては、それで十分だった。
「ミコト! 五分稼げばいいんだな!」
「おう!」
「急に頼もしい返事するな!」
ユウは床に置いていたカップ焼きそばをつかみ、銀の腕めがけて投げつけた。
べちゃり。
ソースまみれになった腕が、一瞬ぴたりと止まる。
『……高密度有機物の付着を確認。行動阻害』
「効いた!?」
「何で!?」
『分析。刺激臭、油分、謎の粉末。機械系侵略端末に対し、想定外に不快』
「弱点、まさかのジャンクフード!?」
ユウは叫んだ。
「坂上さん! 一号室の消火器!」
「廊下の角にあるわよ」
「ミコト! 詠唱しながらでいい、洗剤持ってこい!」
「何をする気だ!」
「機械っぽいなら泡まみれにして動き鈍らせる!」
「発想が生活なんだよ!」
だがそれでよかった。ユウには英雄的な発想なんてない。あるのは、日常をやりくりしてきた人間の、せこくてしぶとい知恵だけだ。
ミコトが台所用洗剤を抱えて戻り、ユウは消火器を構える。グレーンがころころ転がって位置を調整しながら言った。
『提案。泡と粉末による関節阻害は有効。原始的だが理にかなう』
「褒めてるのか?」
『半分ほど』
穴から半身を出しかけていた銀色の何かに向かって、ユウは消火器を噴射した。
白い粉が噴き出し、そこへミコトが洗剤をぶちまける。
「ええい、星の理よ、今日はちょっとだけ雑に働け!」
「詠唱まで雑だな!」
「急いでるんだ!」
銀の侵略端末は、粉と泡とソースまみれになって盛大によろめいた。ぎちぎちと嫌な音を立てる。
『駆動部異常。駆動部異常。なんかぬるぬるする』
「敵がちょっと情けない!」
ミコトがその隙に、穴の前へ札のようなものを何枚も放り投げた。青白い光が糸のようにつながり、円陣を作る。
「あと十秒!」
「こういうときの十秒って長いんだよな!」
「分かる!」
銀の侵略端末が最後の力で腕を伸ばしてきた。ユウはとっさに近くの傘立てからビニール傘を抜き、その腕を押し返す。
「お前みたいなのに、うちの敷金礼金ゼロ物件を荒らされてたまるか!」
『意味不明の縄張り意識を確認』
「意味はある!」
ぱん、と軽い破裂音がして、光の円陣が閉じた。
黒いシミはきゅっと縮み、銀の腕ごと向こう側を飲み込み、そのまま何事もなかったように消えた。
廊下に静寂が戻る。
風が吹く。
どこかで犬が吠える。
そして床には、ソースまみれの残骸と、粉だらけの廊下と、使い物にならなくなった焼きそばだけが残った。
ユウはゆっくり息を吐いた。
「……俺、世界救った?」
「救ってない」
「だよな」
「アパートは救ったぞ」
「規模が現実的で助かる」
大家の坂上さんは満足そうにうなずいた。
「立派だったわよ、梶間くん」
「どうも」
「じゃあ廊下の掃除、よろしくね」
「現実への帰還が早い!」
グレーンがころりと近づいてきた。
『礼を述べる。危機回避に感謝する』
「どういたしまして」
『返礼として、貴様に銀河標準の名誉勲章を授与――』
「換金できる?」
『できない』
「じゃあいいや」
『俗物!』
「生活圏が狭いだけだ」
ミコトがけらけら笑う。
「ユウくんは勇者向きじゃないな」
「知ってる。俺は平穏なほうが好きだ」
「でも、いざとなると逃げない」
「住む場所なくなるの嫌だからな」
「理由が小さい!」
「十分だろ」
夕方の光が廊下を赤く染めていく。
世界はたぶん、どこかの誰かが大げさに救っている。剣とか魔法とか巨大戦艦とか、そういう立派なもので。
けれど、どこの世界にも、救わなくていいけど守りたいものはあるのだろう。安い家賃とか、顔なじみの隣人とか、春の風に揺れる洗濯物とか。そういう、なくしたら妙に困るものが。
「ところでユウくん」
「なんだ」
「晩ごはん、焼きそばなくなったな」
「なくなったな」
『提案。この端末は栄養摂取を必要としない』
「自慢か?」
「うち来る? 卵ならあるぞ」
「行く」
「即答だな」
ユウは自室の鍵を閉め、ミコトの部屋へ向かった。後ろでは大家さんがほうきとちりとりを持って待っている。
「掃除してからね」
「はい……」
世界は救わない。
でもたぶん明日も、このアパートは少しだけ騒がしく、ちゃんと平和だ。




