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『世界を救わない勇者、二号室に住む』

作者: ロッコー
掲載日:2026/04/10

 春というにはやや雑で、夏というにはまだ遠慮がちな風が、木造アパート『ハイツ夕凪』の廊下を吹き抜けていた。


 二号室の住人、梶間ユウは、その風に洗濯物を持っていかれないよう片手で押さえつつ、もう片方の手でカップ焼きそばの湯切りをしていた。


「人生って、だいたいこういう同時進行で失敗するよな」


 ぼやいた直後、洗濯物のTシャツが一枚ふわりと空へ逃げ、焼きそばのソース袋は湯気で指に貼りつき、さらに背後のドアが勢いよく開いた。


「ユウくん! 出たぞ!」


 飛び出してきたのは一号室の住人、星川ミコト。見た目は十七、八の元気な女の子だが、本人いわく“星間帝国正規第二級航法巫女”らしい。何を言っているのか半分も分からないが、住民票はちゃんとこの町にあるので、たぶん大丈夫なのだろうとユウは思っている。


「何が」

「時空のひずみ!」

「またか」

「またとは何だ! 今回は本物だぞ!」

「前回もそう言って、ただの電子レンジの故障だったろ」

「結果的にはな!」


 何一つ安心できない言い回しだった。


 ミコトは廊下の先をびしっと指差した。三号室の前に、直径三十センチほどの黒い穴がぽっかり開いている。見た目は穴というより、空間にできた黒いシミだ。縁がわずかに青白く揺れていて、どう見ても電子レンジではない。


「……え、本物っぽいな」

「だから言っただろう!」


 ユウはとりあえず湯切り途中の焼きそばを床に置いた。こういうとき、人生経験が教えてくれる。焼きそばは逃げないが、厄介ごとはだいたい放っておくと増える。


 三号室のドアが開き、中から大家の坂上さんが顔を出した。七十近いのに背筋のしゃんとした老婦人で、このアパートの秩序そのものみたいな人だ。


「あら、また何か出たの?」

「『また』で通じるんですね」

「春先は多いのよ」

「何がですか」

「いろいろ」


 大家の答えはいつも広く、そして雑だった。


 その黒いシミが、ぶるりと震えた。


 次の瞬間、ぼとり、と何かが落ちてきた。


 全員が固まる。


 落ちてきたのは、つやつやした黒い球体だった。サイズはメロンほど。表面に金色の線が走っていて、ところどころ小さな目みたいなものが開いている。


 球体は床の上で一度跳ねると、ぴたりと静止した。


『……着陸。未知文明圏への強制漂着を確認』


 しゃべった。


『問い合わせ。ここはどこだ』

「大阪府南河内郡寄りの、まあだいたいそのへんです」

『雑な回答を確認』

「お互いさまだろ」


 ユウが言うと、球体の表面に一瞬だけ「むっ」としたような模様が浮かんだ。どうやら感情表現機能もあるらしい。


 ミコトが一歩前に出る。


「名を名乗れ、漂流体!」

『我が正式名称は長い。お前たちの発声器官では途中であきらめる可能性が高い。ゆえに略称を許可する』

「上からだなあ」

『略称は“グ・レーン管理補助端末七号”』

「グレーンでいいか?」

『許可する』

「意外と話が早いな」


 グレーンは小さく回転し、周囲を見回した。いや、球体だから“見回した”で合っているのかは分からないが、なんとなくそう見えた。


『状況説明を求む。我は銀河航路上において追撃を受け、緊急転移を実施。その結果、妙に生活感のある通路へ到達した』

「妙に生活感のある通路で悪かったな」

「ユウくん、これは明らかに追っ手が来る流れだぞ」

「知ってる。そういう顔してるもん、お前が」

「私の顔のせいじゃない!」


 と、そのときだった。


 黒いシミが再び震え、今度は向こう側から金属音のようなものが響いてきた。


『警告。追撃個体接近』

「ほら来た!」

「よし、じゃあ警察――」

「時空のひずみに対応する警察がどこにいる!」

「そう言われると困る!」


 穴の向こうから、細長い銀色の腕が一本、ぬるりと突き出してきた。続いてもう一本。明らかにろくでもない何かが、こちら側へ侵入しようとしている。


 ユウは数秒考えた。


 戦えない。特別な力もない。剣もない。魔法もない。バイトは三つ落ちた。あるのは生活費への不安と、置きっぱなしの焼きそばだけだ。


「ミコト、あれどうにかできるか」

「時間をくれれば!」

「どれくらい」

「五分」

「長い」

「宇宙規模で見れば短い!」

「今この廊下、宇宙規模いらないんだよ!」


 銀の腕がさらに伸びる。壁に触れた瞬間、じゅっと煙が上がった。


 大家の坂上さんが静かに言った。


「壁紙、張り替えたばっかりなのに」

「怒るところそこですか!?」

「住まいは大事よ」


 その一言で、ユウは腹をくくった。


 世界は正直どうでもよかった。そんな大きなものを背負えるほど、立派に生きてきてもいない。


 でも、家賃三万八千円、風呂トイレ別、駅まで徒歩十五分、大家さんがたまに煮物をくれるこのアパートは、けっこう気に入っていた。


 だから守る理由としては、それで十分だった。


「ミコト! 五分稼げばいいんだな!」

「おう!」

「急に頼もしい返事するな!」


 ユウは床に置いていたカップ焼きそばをつかみ、銀の腕めがけて投げつけた。


 べちゃり。


 ソースまみれになった腕が、一瞬ぴたりと止まる。


『……高密度有機物の付着を確認。行動阻害』

「効いた!?」

「何で!?」

『分析。刺激臭、油分、謎の粉末。機械系侵略端末に対し、想定外に不快』

「弱点、まさかのジャンクフード!?」


 ユウは叫んだ。


「坂上さん! 一号室の消火器!」

「廊下の角にあるわよ」

「ミコト! 詠唱しながらでいい、洗剤持ってこい!」

「何をする気だ!」

「機械っぽいなら泡まみれにして動き鈍らせる!」

「発想が生活なんだよ!」


 だがそれでよかった。ユウには英雄的な発想なんてない。あるのは、日常をやりくりしてきた人間の、せこくてしぶとい知恵だけだ。


 ミコトが台所用洗剤を抱えて戻り、ユウは消火器を構える。グレーンがころころ転がって位置を調整しながら言った。


『提案。泡と粉末による関節阻害は有効。原始的だが理にかなう』

「褒めてるのか?」

『半分ほど』


 穴から半身を出しかけていた銀色の何かに向かって、ユウは消火器を噴射した。


 白い粉が噴き出し、そこへミコトが洗剤をぶちまける。


「ええい、星の理よ、今日はちょっとだけ雑に働け!」

「詠唱まで雑だな!」

「急いでるんだ!」


 銀の侵略端末は、粉と泡とソースまみれになって盛大によろめいた。ぎちぎちと嫌な音を立てる。


『駆動部異常。駆動部異常。なんかぬるぬるする』

「敵がちょっと情けない!」


 ミコトがその隙に、穴の前へ札のようなものを何枚も放り投げた。青白い光が糸のようにつながり、円陣を作る。


「あと十秒!」

「こういうときの十秒って長いんだよな!」

「分かる!」


 銀の侵略端末が最後の力で腕を伸ばしてきた。ユウはとっさに近くの傘立てからビニール傘を抜き、その腕を押し返す。


「お前みたいなのに、うちの敷金礼金ゼロ物件を荒らされてたまるか!」

『意味不明の縄張り意識を確認』

「意味はある!」


 ぱん、と軽い破裂音がして、光の円陣が閉じた。


 黒いシミはきゅっと縮み、銀の腕ごと向こう側を飲み込み、そのまま何事もなかったように消えた。


 廊下に静寂が戻る。


 風が吹く。


 どこかで犬が吠える。


 そして床には、ソースまみれの残骸と、粉だらけの廊下と、使い物にならなくなった焼きそばだけが残った。


 ユウはゆっくり息を吐いた。


「……俺、世界救った?」

「救ってない」

「だよな」

「アパートは救ったぞ」

「規模が現実的で助かる」


 大家の坂上さんは満足そうにうなずいた。


「立派だったわよ、梶間くん」

「どうも」

「じゃあ廊下の掃除、よろしくね」

「現実への帰還が早い!」


 グレーンがころりと近づいてきた。


『礼を述べる。危機回避に感謝する』

「どういたしまして」

『返礼として、貴様に銀河標準の名誉勲章を授与――』

「換金できる?」

『できない』

「じゃあいいや」

『俗物!』

「生活圏が狭いだけだ」


 ミコトがけらけら笑う。


「ユウくんは勇者向きじゃないな」

「知ってる。俺は平穏なほうが好きだ」

「でも、いざとなると逃げない」

「住む場所なくなるの嫌だからな」

「理由が小さい!」

「十分だろ」


 夕方の光が廊下を赤く染めていく。


 世界はたぶん、どこかの誰かが大げさに救っている。剣とか魔法とか巨大戦艦とか、そういう立派なもので。


 けれど、どこの世界にも、救わなくていいけど守りたいものはあるのだろう。安い家賃とか、顔なじみの隣人とか、春の風に揺れる洗濯物とか。そういう、なくしたら妙に困るものが。


「ところでユウくん」

「なんだ」

「晩ごはん、焼きそばなくなったな」

「なくなったな」

『提案。この端末は栄養摂取を必要としない』

「自慢か?」

「うち来る? 卵ならあるぞ」

「行く」

「即答だな」


 ユウは自室の鍵を閉め、ミコトの部屋へ向かった。後ろでは大家さんがほうきとちりとりを持って待っている。


「掃除してからね」

「はい……」


 世界は救わない。

 でもたぶん明日も、このアパートは少しだけ騒がしく、ちゃんと平和だ。

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