エピローグ〈2〉『闇は人なり。光を知り、それでも選ばれるもの』
その白打掛は、まるで光そのものを織り上げたかのようだった。
ミカド皇国の礼の家 髙橋家の格式と、バベル王国の最高峰デザイナー マダム・バタフライの美意識が正面からぶつかり合い、奇跡的に調和した一着である。
幾重にも重ねられた白は、ただの無垢ではない。
特別消禍隊の白。生き抜いた者だけがまとうことを許される、強さを含んだ白だった。
化粧台の前で、飛梅音は微動だにせず座っている。
顔に筆が触れるたび、息を整え、今日という日を確かに現実として受け止めていた。
その背後、礼服姿のアボット家当主ジョルジュと、タイヨウが並んで立っている。
「やはり、屍人の発生は止まりませんね。蟲禍も上昇傾向です」
ジョルジュは手元のタブレットから視線を上げずに言った。ミカド皇国から輸入された最新ガジェット群を誰よりも愛し、誰よりも使いこなしているのが彼である。
数字は正直だ。
祝祭の日であろうと、容赦はしない。
「そうですか……」
音の声は低く、静かだった。
顔を上げることはできない。
今は、目を閉じ、筆にすべてを委ねている。
闇后アラクネア・レギナの死。
飛梅と魔界核を取り込もうとしたその存在の消滅は、結果としてバベル王国に瘴気の上昇をもたらした。彼女が吸い込み続けていた闇の量は、それほどに膨大だったのだ。
魔力集積装置マハトが、過去最高の闇魔力量を記録するという、ある意味では嬉しい誤算もあった。
だがその裏で、壊滅的と呼ぶには至らぬものの、確かに異変は起きている。
本来、静かに眠るはずだった土葬の遺体が、ごく稀に、しかし確実に蘇る。
「……完全な終わりは、まだ来ていないということですね」
音は、鏡の中の自分を見つめたまま言った。
白打掛に包まれた花嫁の顔は、柔らかくもあり、同時に、逃げない者の顔でもあった。
横からひょいと鏡を覗き込んだタイヨウが朗らかに笑う。
「この間、レイ王子が教えてくれたんだけど、古い文献に“ネクロマンサー”の記載があったんだって!」
タイヨウの声は軽い。
「ねくろまんさー?」
音が鸚鵡返しに言う。
ジョルジュが、静かに頷いた。
「左様。建国記に、屍人使いの者がいたという一文がありました。この国にも、かつて屍病が存在していたという証左でしょう」
タブレットを操作し、古文書の翻刻データを拡大する。
そこにあるのは、バベル建国時の聖戦の描写のわずか一行の記述だ。
英雄の名でも、王の業績でもない。
――死者を従え、生者を護りし者あり。
それだけ。
「護る……?」
音の声が、わずかに揺れる。
「ええ。屍人は必ずしも“災厄”として記されてはいません」
ジョルジュは淡々と続ける。
「境界の時代、瘴気が濃かった頃――死者と生者の線引きが、今ほど明確ではなかったのでしょう」
沈黙が落ちる。
化粧室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。
ネクロマンサー。
屍人使い。
それは、過去の異物ではない。この世界が、かつてそういう在り方を許していたという事実だ。
「……だからさ」
タイヨウが、場を和らげるように言う。
「今起きてる現象も、異常って決めつけるのは早いのかもね」
音は、鏡の中で自分の目を見る。
白打掛の奥で、心臓が静かに脈打っている。
「世界が、元の形に戻ろうとしているだけ……?」
誰に問うでもなく、そう呟いた。
ジョルジュは否定も肯定もしなかった。
「変化とは、往々にしてそのような姿をしています。--その前に、闇ワクチンを開発して下さって、良かったと思います」
その言葉は、飾り気がなかった。
感謝でも、誇りでもない。ただ、事実として口にしているのがわかる。
「えっ? いえ、私は何も……!」
反射的に、音は首を振る。
筆が落ちるのではないかと、化粧師が一瞬ひやりとするほどの動きだった。
ジョルジュは、そこで静かに言葉を挟む。
「ええ。貴方が関わらなくても、いずれ開発されていたかもしれませんね。ですが――」
タブレットをいじる手を止め、感情の読めないアボット家特有の瞳で音を見つめた。
「あなたが性別や年齢を偽り、特別消禍隊に入るという無謀な挑戦をしなければ、このタイミングで闇ワクチンに辿り着くことはありませんでした」
それは歴史を見渡す者の、淡々とした断定だった。
音は、何も言えない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「音ちゃんが頑張ったからだよー」
そこで、タイヨウがふわりと舞い飛ぶ。場の空気を割るように、けれど壊さない、彼女らしい声だ。
「音ちゃん達が来てくれたから、王国騎士団の一部署として、特別消禍隊ミカド局もつくれたわけだし!」
音は、ゆっくりと息を吐く。
「……私、そんな大それたことをしたつもりは……」
「でしょうな」
ジョルジュは、少しだけ口角を上げた。
「歴史を動かす者の多くは、そう言います」
鏡の中で、花嫁の瞳がわずかに揺れる。
「ソルも似たようなところがあるよ。そういう人がいないと、世界って前に進まないんだよね」
音は、答えなかった。
するとそこに、鋭い声が化粧室に響いた。
「もう、音さん! ちっとも口紅が塗れないじゃない! それ、今じゃなきゃいけない話なの!?」
筆を握る手は一切止めない。だが、その動きには明確な苛立ちが乗っている。
音の母――カフネは、ぴしりと背筋を伸ばしたまま、娘の顔を正面から睨んだ。
娘がバベル王国へ籍を移したと聞いたその日、彼女は迷わなかった。
飛梅弓道場は息子に託し、「花嫁の母が不在などあってはならない」とだけ言い残し、自らもバベル王国へ渡ってきたのだ。
住み慣れた家屋は、家財道具もそのままに、天道領に転移で引越した。
四季折々を楽しめる裏山が椰子の木と海という南国の景色に、狸や鹿は魔獣に変わったが、弓を活かすことができれば、そこは飛梅弓道場であった。
「ほんともう!」
カフネは小さく舌打ちをしてから、今度はジョルジュとタイヨウを一瞥する。
「アボット家当主様と天使様が揃って、世界の命運を語るのは結構だけど――」
ぐい、と音の顎を指で持ち上げる。
「この子は今日は花嫁なんですよ。せめて式が終わってからにしてくださいな」
「……ご、ごめんなさい」
音は、思わず縮こまる。
「ほら、また! じっとして!」
口紅が、正確に、容赦なく引かれていく。
タイヨウが、くすっと笑った。
「強いねえ……さすが音ちゃんのお母さんだ」
「当たり前でしょう」
カフネは鼻で笑う。
「この子は昔からそうなのよ。放っておくと、自分のことは後回しで、気づいたら全部抱え込んでるんだから」
一瞬、筆が止まる。
鏡越しに、母と娘の目が合った。
口紅が、引き終わる。
「――はい。完成」
カフネは一歩下がり、満足そうに頷いた。
そこに立っていたのは英雄ではなく、ただ一人の娘であり、これから最愛の人の妻になる飛梅音だった。
「さあ、迎えが来るわよ」
カフネは、扉の方を見る。
飛梅を迎えに来たのは、特別消禍隊ミカド局初代局長となった蓼丸麟五だった。
黒紋付に身を包んだその姿は、凛として隙がなく、――そして、ひどく緊張している。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
「……」
音は、胸が詰まり、言葉を失う。
ここまでの日々を思い出して。
そして、初めて出会った日のことを思い出して。
だが、その感動は――即座に、破壊された。
「お色直しは九度と申したではないか!! 話が違うッッ!!!!」
食い下がっているのは、麟五の背後。眉間に皺を寄せ、資料束を抱えた蓼丸備悟である。
「一度目は白打掛、二度目は色打掛、三度目はウェディングドレス プリンセスライン――」
「兄上、落ち着いてください」
麟五が低い声で制するが、備悟は地団駄を踏んで叫んだ。
「落ち着けるわけなかろう!! 式場に連絡を入れ、勝手に端折るなど!!! 蓼丸の眼は誤魔化せんぞ!」
バッシバシと叩く資料には、怨念のように書き込まれた赤ペンの跡が乱舞している。
「この式は文化の輸出なのだぞ!? ミカド皇国には存在しなかった結婚式文化を、ここバベル王国に正式に持ち込む初事例だ! 3度目のお色直しから生中継を入れ、otoちゃん御成婚特別番組に切り替えるというのに!! 準備したのはクルーだけじゃない! 私は専用の式場を一から建てているんだぞ!? 後世の史料価値を考えろ!!」
「……兄上」
麟五は、深く息を吐いた。
「今日は、音の結婚式です」
「だからだ!!」
備悟は一歩も引かない。
「だからこそ完璧にやる!! 文化とは、最初がすべてだ!!」
ジョルジュが少し離れたところで呆れてため息をつき、タイヨウは楽しそうに笑っている。
音も、思わず口元を押さえた。笑ってしまいそうになるのを、必死でこらえる。
一度言い出したら聞かぬ長兄に、末っ子は最後の手段を出した。
――ごきん。
「きゃうんっ!?」
間の抜けた悲鳴を上げ、蓼丸備悟が前のめりに崩れ落ちる。弟に首根を、容赦なく叩かれたのだ。
「……過剰ですな」
そう言いながらも、ジョルジュは即座に備悟の身体を受け止めた。動きに一切の無駄がない。
「タイヨウ君。彼はもう十分働きました。式場に転移させておきなさい」
「はーい」
タイヨウは慣れた様子で頷き、指を鳴らす。光が一瞬走り、備悟の姿は掻き消えた。
その騒ぎを背に、音は、くるりと振り返る。
「なんか私、リンゴ君に迎えに来てもらってばかりだね!」
楽しそうに、くすっと笑う。
白打掛の裾が、光を弾いてわずかに揺れた。
麟五は、その笑顔を見た瞬間、胸の奥からどうしようもないものが込み上げてくるのを感じた。
喉が詰まる。
口を開いて、言葉を探し、また閉じる。
代わりに、天井を見上げた。
深く息を吸い、吐き、もう一度、彼女を見る。
そして、笑った。
ゆっくりと、確かに、手を差し出す。
「ーーああ、迎えにいく。何度でも」
その言葉に、音は目を細める。
差し出された手を取り、ほんの少し、力を込めた。
世界はまだ、完全には救われていない。
救われる日など、来ないのかもしれない。
――それでも。
この日、この瞬間だけは。
二人は、確かに、祝福の中にいた。
◆◆◆
――後世の歴史家の記すところによれば、蓼丸麟五は、その後バベル王国内におけるゲヘナ開拓に大きく寄与したという。彼の存命中、バベル王国内に存在する小ゲヘナは、史上初となる完全地図が作成されるに至る。
この偉業に深く関わったのが、彼の妻・飛梅音である。彼女は闇属性能力の新たな系譜を切り拓き、初の攻撃系闇属性術式「鬼道 闇の段」を開発した。
それは、闇を忌避すべきものではなく、制御し、導き、用いるものとして位置づけた点において、後世の魔術体系に決定的な影響を与えたとされる。
飛梅音が確立した弓術は、やがて飛梅流と呼ばれ、実戦・儀礼の双方において長く継承されることとなった。
また彼らの子孫には、代を隔てて、全能力が特級に達する稀代の存在が度々誕生している。
人々はそれを吉兆と捉え、彼らを敬意と畏怖をもって「飛梅の麒麟児」と呼んだ。
それが祝福であったのか、あるいは時代が求めた必然であったのかは、今もなお定かではない。
ただ一つ確かなのは――この夫婦の選択が、二つの国と、その先に続く世界の在り方を確かに変えたという事実である。
最後に、今や世界中の魔力を持つ子供達が手にするようになった五元教本のそれぞれの書き出しをここに添えよう。
『水は道なり。行くべき先を拒まぬ』
『火は力なり。意志なき者に宿るべからず』
『風は動なり。鎖を持たぬ』
『土は国なり。人はそこに立ち、そこへ還る』
そこに、闇の段の創始者となった飛梅音は、こう綴っている。
ーー『闇は人なり。光を知り、それでも選ばれるもの』
(終)
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
飛梅と麟五のミカド皇国編は、ここで一区切りとなります。ゾンビが好きで、本当に書きたかった話なので、とても楽しかったです。(『春はゾンビ』と、私の心の枕草子ははじまります)
この物語は、神や力の話でありながら、最後に残るのは「人が立つ場所」の話でした。
彼らが選んだ答えが、少しでもあなたの心に残ってくれたなら、とても嬉しいです。
バベル王国の物語はもうちょっとだけ続きます。続くんじゃよ。ごめんよ。
次回第3部『境界のレンダ(仮題)』では、麟五、飛梅、そしてタイヨウが再び登場します。
舞台は、バベル王国がまだ「国」になる前――
異世界に最初に現れた日本人が、この世界の礎を築いていく時代です。
ブックマーク、評価、感想をくださったすべての方へ。
あなたの反応一つひとつが、この物語を最後まで書き切る力になりました。
本当に、ありがとうございます。
大好きです!
それではまた、バベル王国が始まる場所で!
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