魔界核奪還戦〈5〉
深い、深い眠りの底。
静寂の中で、飛梅は誰かと向き合っていた。
――聞こえるか。
声は、胸の奥から響いてくる。
それは血であり、心臓であり、世界の核だった。
魔界核。皇の心臓。
飛梅は、そこに流れ込む記憶を見る。
禁じられた愛の果てに生まれた子。
手も、足も、目も、鼻も持たず、蛭のようだと――ヒルコと呼ばれた存在。
産み落とされてすぐに忌まれ、親の手で川へと流された。
それでも死なず、異界へと渡り、瘴気を吸い上げ、形を得て。
二千年。
国を守り、人を守り、神として崇められ、ミカドの子らに囲まれて生きた。
――親からは見放されたがな。
――神としては、ずいぶんと愛された。
皇の声には、穏やかな諦観があった。
――まったく。悪くない人生じゃった。
――……しかしな。
その一言で、空気が変わる。
――其方には、申し訳なく思う。
皇の想いが、痛いほどに流れ込んでくる。
――家族がいて。仲間がいて。帰る場所がある其方を。引き離し、人でなくしてしまう。
――そのことだけは、心苦しい。
その瞬間。
飛梅の胸が、きゅっと締めつけられた
気づけば、涙が溢れていた。どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
けれど――飛梅は、泣きながらも、いつものままだった。
特別な言葉も、英雄のような思想も、神を論破する理屈もない。
ただ、圧倒的に“普通”。それが彼女の強さだった。
「……家族と別れるのも、仲間と別れるのも……つらいよ」
声が震える。
頭の中に浮かぶのは、騒がしい声、笑顔、温かい手。
--そして。
金色の瞳。
凛とした背中。
蓼丸麟五。
「……好きな人と、別れるのも」
胸が、痛む。
「すごく、つらい」
飛梅は、そこで目を伏せ、泣き笑いのような顔で続けた。
「でもね、別れるのがつらいって思えるのは、そう思える相手がいたからだよ」
飛梅は、まっすぐに皇を見る。
「あなたが誰かを好きになって、別れるのがつらいって思う相手に出会えなかったことのほうが……聞いてて、つらい」
沈黙。
二千年分の時間が、そこに落ちる。
――……。
皇は、言葉を失っていた。
神でも、皇でもない。ただ一人の存在として。
――其方は、ほんとうに、普通じゃな。
その声には、初めて寂しさが混じっていた。
飛梅は、泣きながら、少しだけ笑う。
「……うん。だから、あなたのことも、ひとりにしたくない」
その言葉は、魔界核の奥深くまで、静かに、確かに届いた。
飛梅は、泣き腫らした目のまま――笑った。
特別な覚悟を決めた者の笑みではない。戦場に立つ英雄のそれでもない。
いつもの飛梅の笑顔だった。
思念の中で、彼女は特別消禍隊の隊服を纏っている。
仲間と並び、同じ釜の飯を食べ、同じ危険に身をさらしてきた、――ただの仕事着。
飛梅は一歩、前に出る。
そして、その拳で、自分の胸を軽く叩いた。
とん、と。
心臓の音が、確かに響く。
「……私なんかでよければ、魔界核、受け取るよ」
皇が、目を見開く。
飛梅は続ける。
「だから、あなたは輪廻の輪に戻って。次はね--……」
少しだけ、照れたように笑って。
「たくさん、愛される子供になるよ」
迷わず、言い切る。
願いでも、祈りでもなく、断言だった。
「だって、こんなに、頑張ったんだもん」
拳を握りしめる。
「絶対。絶対、そうだよ!」
その言葉は、神に向けた説得でも、運命への反逆でもなかった。隣に座る友だちが言う、当たり前の励ましだった。
皇の中で、何かが音もなく、ほどけた。
二千年。
守り続けた国。
背負い続けた役割。
神であること。
皇であること。
――救われる側になるなど。
考えたこともなかった。
魔界核が、静かに脈打つ。
それはもう、奪うための心臓ではない。託すための心臓だった。
――ありがとう。
皇の声は、初めて肩の力が抜けていた。
――次は、わが名を持たぬまま、ただの子として、生まれよう。
飛梅は、にっこりと笑う。
「うん。それでいいよ。それが、いちばんだよ」
その瞬間。
魔界核は、神を解放した。
それは普通の女の子が、世界を肯定し、救った瞬間だった。
◆◆◆
「――……っ!!!」
飛梅は、息を吸った。
重たい。冷たい。背中に、ざらりとした感触がある。
眼を、開く。
視界いっぱいに広がったのは、ひしゃげて歪んだ檻の内側だった。
土と闇が固められたような、閉じた空間。
下を見れば、黒く乾きかけた巨大な蜘蛛の死骸。
――……なに、ここ……?
思考が追いつかない。
そのとき。
影が、覆いかぶさる。
誰かが、すぐ近くで自分を覗き込んでいた。
「……!」
飛梅の目が、大きく見開かれる。
整った顔。金色の瞳。
――蓼丸、麟五。
けれど。
その顔は、血に汚れていた。
頬にも、額にも、乾ききらない赤が飛び散っている。
初めて見る光景に、呼吸がひくりと止まる。
そして麟五の瞳は、かつて飛梅が見たことのないほどに揺れていた。
不安。
焦り。
安堵。
それらが、全部混ざった眼で、ただ飛梅を見つめている。
飛梅は、知らない。
魔界核が摘出されたことも。
玄蕃の心臓を抜き、入れ替えたことも。
タイヨウが玄蕃を抱えて飛び、ミカド皇国で待ち受ける東雲玄斎のもとへ届けたことも。
--蓼丸麟五が、たった十五分で、世界を救ったことも。
飛梅が知っているのは、ただ一つ。
――人類最強の男に、血がついている!
それが、どうしようもなく怖かった。
飛梅は反射的に腕を伸ばすと、両手で麟五の頬を包み込んだ。
「……教官!!」
声が、少し裏返る。
「だ、大丈夫ですか!?」
親指で血を拭おうとして、指先が震える。
「血がこんなに……怪我、してませんか?」
それは、ただ目の前の人間を心配する声だった。
その手。
その温度。
その、あまりにも普通な仕草。
――飛梅だ。
麟五の胸に、堰を切ったように、何かが込み上げた。
喉が詰まり、視界が滲む。
こらえきれず、熱い雫が、頬を伝って落ちる。
「……っ!」
声にならない息を漏らし、麟五はたまらず腕を伸ばした。
強く、逃がさぬように、飛梅を抱きしめる。
「……!?」
突然のことに、飛梅は一瞬驚く。
けれど。
その背中に回された腕が微かに震えていることに気づき――飛梅は何も聞かず、そっと抱き返した。
檻の中。血と死骸の上。
それでも。
そこにあったのは、ふたりが確かに生きている現実だった。
麟五は、何も言わずに抱きしめ続けていた。
強すぎるほどでもなく、離す気配もなく。
その沈黙に飛梅は少し困惑して、けれど拒むこともできず、穏やかに口を開いた。
「……私、夢を見ていたんです」
独り言のように。
「皇は……ヒルコなんて名で呼ばれてましたけど、本当は日子ちゃんっていうんです」
麟五の胸が、わずかに上下する。
「可愛い名前ですよね」
少し考えてから、楽しそうに付け足す。
「でも、今だったら……日子って書いて、“ニコちゃん”とか、いいかもしれませんね」
宥めるように、飛梅はそっと、麟五のうなじに指を伸ばした。
短く整えられた髪。
汗と血の名残。
その中を、指先がゆっくりとなぞる。
「……かわいいでしょう? ニコちゃん」
飛梅は、にこにこと笑う。
状況も、檻も、死骸も。何ひとつ、深刻にしない笑顔。
呆れるほどに――普通。
その普通さこそが、蓼丸麟五が死力を尽くして取り返したものだった。
世界でも、神でも、勝利でもない。この、温かな光。
しばらくして麟五は、ようやく口を開いた。
低く、少し掠れた声で。
「……日の字は、ニとは読まない」
飛梅の肩に預けていた額を、ゆっくりと離す。
「役所は通るかもしれんが……楽と書いて“ララ”と読ませる自分の名が嫌だったんじゃないのか」
そして身を引き、今度は麟五が、飛梅の頬を包み込んだ。
両手で、まるで、確かめるように。
その眼は、ただ――愛おしいという想いで満ちていた。
飛梅の胸が、跳ねる。
「……!?」
思わず、息を呑む。
こんな目で見られる理由が、自分には思い当たらない。
それでも、逃げることはできそうになかった。
「……音」
名を呼ばれた瞬間、空気が変わる。
低く、熱を孕んだ声だった。
先ほどまで、蓼丸麟五に力を貸していた魔界の五元魔素が、ざわりと反応する。
まるで、世界そのものがこの言葉を聞く準備をしているかのように。
麟五は、音の頬を包んだまま、一切、目を逸らさない。覚悟を決めた眼だった。
「ーーお前を失うくらいなら、世界を失う方が、まだましだ」
それは蓼丸の麒麟児が初めて手にした、選択の宣言だった。
魔素が、静かに脈打つ。
音の胸が、どくん、と大きく鳴る。
理解が、追いつかない。
けれど、この眼で見られて、この声で呼ばれて、この距離で言われて――否定できるはずがなかった。
「……教官……」
かすれた声で、それだけを呼ぶ。
麟五の額が、そっと、音の額に触れる。
世界は、まだ続く。
戦いも、責務も、終わっていない。
それでも、この瞬間だけは。
世界より重い選択を、互いに引き受けた二人が、確かにそこにいた。
-ーー-はずであった。
またしても何も知らない飛梅は、首を傾げた。
「え、それって……どういうことですか!?」
飛梅は目を瞬かせたまま、完全に混乱していた。
「え、あの……世界、なくなるんですか? それは困りますし……え? 私、今、なにか……」
両手を胸の前でわたわたと動かし、視線は右往左往している。
――こいつは、もう。最後まで、こうだ。
麟五は、ほんの一瞬だけ、困ったように目を細めた。
そして、彼は何も言わず、飛梅の顎にそっと手を添え――
ちゅ、と短く静かな音がした。
魔素が、ふわりと揺れる。
時間が、止まる。
「………………」
一拍。
二拍。
飛梅の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
耳まで、首筋まで、一気に真っ赤だ。
「えっ……えっ!?」
両手で顔を覆い、半身下がって――
「えーーーーーーー!!!!!?」
檻の中に、素っ頓狂な叫び声が響き渡る。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!! い、今のって……! え!? え!? 教官!?」
麟五は、ほんのわずかに口元を緩めた。
戦場では決して見せない、少年のような表情で。
「……そういうことだ」
飛梅は、まだ真っ赤なまま、固まっている。
「……嫌か?」
低く、けれど逃げ場を残さない声だった。
飛梅は、一瞬きょとんとして――
ぶんぶんぶんぶん!!
首がもげそうな勢いで、横に振られる。
「い、嫌じゃないです!! ぜんっぜん!!」
声が裏返り、胸の奥で何かが、ぱん、と弾けた。
嬉しい。
うれしくて、どうしていいかわからない。
――あ、これ。好きだ。
ようやく、ようやくそこまで辿り着いた、その瞬間。
飛梅は、はたと動きを止めた。
顔から、血の気が引く。
「……?」
麟五が、怪訝そうに眉をひそめる。
「どうした」
声は即座に低くなる。
不安の種があるなら、世界ごとでも壊して取り払う。そんな覚悟の声だった。
飛梅は深刻そうに麟五の顔を見上げ、ゆっくりと口を開く。
「あの……ウチ……」
ごくり、と唾を飲み込み、一拍。
「飛梅家は、飛梅流を残さなくちゃいけなくて……」
麟五は黙って聞いている。
「……婿取りしか、できないんですけど」
恐る恐る、続ける。
「……大丈夫ですか?」
沈黙。
麟五は、完全に固まった。
口が、ぽかん、と開く。
――何を言っているんだ、この鈍感姫は。
「わ、わーーー! ですよね!!」
飛梅が慌てて両手を振る。
「いきなり言われても、ですよね!! でも、だ、大事なことなんで!!」
早口になる。
「好きな人ができたら、最初にお伝えしなきゃだめよって、ママが……!」
そして、とどめ。
「り、リンゴ君!! 苗字が“飛梅”になっても、平気かな!? 蓼丸の麒麟児じゃなくて、飛梅の麒麟児になっちゃうけど!?」
数秒。
完全な沈黙のあと――
「……っ」
麟五は、たまらず、吹き出した。
声を殺すこともなく、耐えることもなく。士族という鎧を脱ぎ捨て、心の底から。
「はは……ははは……!」
飛梅は目を丸くする。
初めて見る、人類最強の男の笑顔。
それは、力を持つ者の顔でも、隊長の顔でもない。当たり前の、十七歳の男の子の顔だった。
「な、なに笑ってるんですか……?」
頬を膨らませる飛梅に、麟五は一歩近づき――
もう一度、今度は少しだけ長く唇を寄せた。
そして、そのまま飛梅を抱き起こし、立たせる。
「……時間はある」
真っ直ぐに言う。
「“飛梅”に合う子供の名も、ゆっくり、考えればいい」
飛梅の胸が、どくん、と大きく鳴った。
世界は救われた。
神は解放された。
そして--飛梅音は、未来をもらった。
その時、ぽん!と空気が、軽く弾けた。
次の瞬間、二人の前に――タイヨウが現れる。
状況を認識するよりも早く、天使は飛梅を見て――
「……わっ!?」
反射的に、両手で目を塞いだ。
「……まだ、呼んでないが」
二人きりの時間を断ち切られ、麟五は空中に浮かぶタイヨウを睨みつける。
視線だけで、斬れそうだった。
「ごめーん!」
タイヨウは軽い調子で謝る。
「カグヤ様がさ、『早く行け』って〜!」
指の隙間から、ちらっと様子を確認しつつ。
「リンゴ君が、おっ始めちゃうといけないからって言ってたよー!」
「……」
「それにさぁ、そのままだと音ちゃん、風邪ひいちゃうよーー!」
その言葉を聞いた瞬間。飛梅の背筋に、ぞわり、と嫌な予感が走る。
――……あれ?
恐る恐る、自分の体を見る。
……。
…………。
………………。
真っ裸だった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!?????」
空気を引き裂く、乙女の絶叫。
「な、なんでええええええ!!!!!!」
慌てて腕で身体を隠し、顔は真っ赤。
完全に、限界だった。
「ち、ちがっ……これは、その……!」
弁解にならない言葉が、空を舞う。
その様子に――
「……っ」
耐えきれず、タイヨウが吹き出した。
「ご、ごめ……ははっ……!」
そして。
「……ふっ」
隣で、蓼丸麟五も、再び笑った。
声を殺すこともなく。
堪えることもなく。
ただ、当たり前のように。
乙女の悲鳴。
天使の笑い声。
人類最強の男の、少し照れた笑顔。
それらが重なり合い――世界に、平和が訪れた。




