魔界核奪還戦〈4〉
落下する視界の中で、麟五はそれをはっきりと見た。
闇后アラクネア・レギナの上半身。
否。
そこにいたのは、飛梅だった。
眼は増え、顔も手も黒い毛に覆われている。異形だ。
否定しようのないほど、変わり果てている。
だが、その身は特別消禍隊の隊服をきちんと身に纏っていた。
そして何より――その手に握られているもの。
見間違えるはずがない。
何度も背中越しに見てきた。
何度も、彼女の矢が闇を貫くのを見てきた。
飛梅の大弓。
――飛梅だ。
理解は、一瞬だった。
あれは蜘蛛ではない。
怪物でもない。
闇后になった存在でもない。
化け物に、囚われている飛梅だ。
恐怖が、消えた。
代わりに、胸の奥で何かが静かに、しかし決定的に音を立てる。
守る。助ける。取り戻す。
考える前に、身体が動いていた。
落下する世界の中で、蓼丸麟五の四象が息を揃える。
恐怖は、もう障害ではない。
それすら抱えたまま、前に出る。
――覚醒。
蓼丸麟五は、怪物を討つ者ではなく、仲間を救う者として、そこに立った。
落下の途中で、麟五は止まった。
宙に縫い留められたかのように、微動だにしない。
四つの属性が、同時に応えた。
火は熱を失い、水は流れを捨て、風は音を止め、土は重さを忘れる。
それらが溶け合い、ただ一つの概念へと練り上げられる。
重力へと。
詠唱はない。
術式もない。
正式な呼び名すら、存在しない。
それは鬼道ではなく、魔術ですらなく、ただ「許された力」の発露だった。
蓼丸の麒麟児。
四元魔素を等価で束ね、世界そのものを落とすことを許された存在。
麟五は、飛梅を見た。
(ー――助けに来た)
その想いだけで、十分だった。
次の瞬間、宙が沈み、大地が軋み、天と地の区別が消える。
四象は振り下ろされる。
神が裁きを下すように。
だが、それは破壊ではない。
救うための、重さだ。
闇后アラクネア・レギナが、初めて悲鳴を上げた。
麟五の心は、奇妙なほど静まっていた。
四象の重圧に軋むレギナの顔。その歪みの奥に、一瞬、飛梅の笑顔が重なる。
屈託がなく、無邪気で、当たり前のように隣にいた、あの表情。
ああ、と麟五は思う。
彼女の明るさは、「蓼丸の麒麟児として生きるしかない」と自分の足首に絡みついていた枷を、いつの間にか外してくれていたのだ。
守るために生きる。
救うために立つ。
それでいい。それだけでいい。
次々に、顔が浮かぶ。
蓼丸家の人々。
不器用な優しさをくれた家族。
能力者として育て上げてくれた、重臣佐々木一家。
拳を交え、背中を預け、共に生き延びてきた特別消禍隊の仲間たち。
麟五の胸に、熱ではなく――感謝が満ちていく。
ありがとう。
ここまで、連れてきてくれて。
そのときだった。
四象が、微かに、鳴った。
水・火・風・土。
四元魔素を吸い上げ、練り上げるはずのその流れに、異質なものが混じり込む。
――闇。
拒絶はない。
反発もない。
闇魔素は引き寄せられるように、静かに、自然に四象へと流れ込んでいく。
麟五は驚かない。
彼の感謝は、人だけに向けられたものではなかった。
敵も、恐怖も、魔力も、闇すらも含めた――万物への感謝。
そして闇は、それに応えた。
このとき四象は、初めて完全な調和に至る。
蓼丸麟五は理解した。
この力は、選ばれたから与えられたのではない。
祈りに、世界が応えただけなのだと。
四象が闇魔素を吸い上げ始めた、その瞬間――レギナが、再び悲鳴を上げた。
魔界核。
闇魔素を溜め込むための器が、引き剥がされていく。
檻の底で、空気が歪む。
足場にしていた羽虫の死骸が、ぐしゃりと、音もなく潰れた。
重力が、容赦なく働いている。
続いて、女王蜘蛛の巨大な下半身が、ゆっくりと縮み始めた。
枝のようだった脚が、細く、短くなる。
闇を吸っていた体毛が、意味を失ったように剥がれ落ちる。
そして――上半身。
飛梅が囚われているそこに、変化が走った。
ギッ……。
不自然な音。
関節が、ありえない方向に動く。
ギッ、ギ……。
動くたびに、何かが剥がれる。
削れる。
在るべきでなかったものが、身体から離れていく。
肩が、震える。
首が、軋む。
ギギッ……。
そのたびに、黒い毛がはらはらと消えた。
増えていた複眼が、ひとつ、またひとつと閉じていく。
最後に残った一対の目が、かすかに、震えた。
――そして。
そこにいたのは、飛梅だった。
特別消禍隊の隊服を身に纏い、大弓を手放さず、必死に耐えていた少女。
四象は、なおも静かに働く。
破壊ではなく、切除でもなく、本来あるべき姿へ戻すために。
麟五は、確信した。
――間に合った。
世界が、ちゃんと応えてくれたのだと。
◆◆◆
場面は少し戻り、観月宮大広間。
朝から灯された燈明の下で、玄蕃とカグヤは待っていた。
タイヨウもいる。
だが彼女は、広間の隅で寝袋にくるまり、規則正しい寝息を立てていた。
いつでも動けるよう、今は寝ておくのだと張り切っていたらしい。健康優良児とは、こういう者を言うのだろう。
「うまくいくかなぁ。……いくといいなぁ」
玄蕃は、独り言のように呟き、また時計を見る。
刻限までは十七時間半。まだ、二時間しか経っていない。
――映画一本分、か。
だが自分のエンディングはまだ見えないな、と内心で苦笑する。
酒瓶を並べ、朝から玄蕃に付き合っていたカグヤは、煙管を咥えてぷかりと紫煙を吐き出した。
その所作は、相変わらず艶やかだった。
「--あの領章はな」
煙管の先が指し示す。紅地に白く染め抜かれた、白狐と葛の葉。
天道領として開領する際、蓼丸備悟が急拵えで用意したものだという。
「あれは、画家となった麟五の生母がデザインしたものでありんす」
花魁だった彼の母――夕霧太夫。
蓼丸家に落籍され、麟五を産み落としたのち、自らの意思で再び吉原へ戻り、画家として大成した女。
産んで数日しか共にいなかった息子。
それでも、その活躍は、きっと耳に届き続けているに違いない。
「夕霧は、わっちの禿でありんした」
カグヤは、どこか懐かしむように続ける。
「禿時代の名は“りん”。--当代も、粋なことをする」
煙が、ふわりと揺れた。
「麟五という名は、十五代目麒麟というだけではありんせん。しっかりと――あの子の息子だと、示していてくれたんえ」
カグヤは、そこで笑った。
「りんの息子は、わっちの息子と変わりんせん。ミカドを離れ、天道領の者になるのであれば、なおのこと」
玄蕃は、何も言わずに聞いている。
「案ずるな」
カン!と景気の良い音を立てて煙管を下ろし、カグヤはきっぱりと言った。
「仕損じる事など、ありんせん。わっちの息子だからな」
そのときだった。
カン、と澄んだ音が、大広間に響く。
カグヤの煙管ではない。
眠っているタイヨウが胸に抱いていた転移陣が、淡い光を放ち、高らかに鳴動したのだ。
玄蕃とカグヤの視線が、同時にそこへ向く。
刻限は、まだ遥かに残っている。
だが、物語は、確かに動き始めていた。
「来たの!? もう!?!?」
玄蕃が思わず声を上げた。
視線は、鳴動を続ける転移陣へ。
――まだ二時間しか経っていない!
刻限までは十七時間半。あまりにも、早すぎる。
その隣で、カグヤが静かに立ち上がった。
衣擦れの音ひとつで、場の空気が引き締まる。
「タイヨウ、時間え。玄蕃殿をお連れしなんし」
その言葉に、観月宮の侍従たちが息を呑む。
次の瞬間、緊張と興奮が一斉に顔に浮かんだ。
――本物だ。
祖国ミカドの瑞獣。
蓼丸の麒麟児。
噂でも、誇張でもない。あれは、間違いなく――本物だった。
侍従たちは、誇らしさに震えながら、転移陣のそばへと駆け寄る。
その中心で、タイヨウがぱちりと目を開けた。
眠りから覚めたばかりだというのに、相変わらず、この世のものとは思えぬ美しさだ。
大きく伸びをして、きょとんとした顔で周囲を見回す。
「え、早いですね!?」
屈託なく、そう言って微笑む。
「さすがリンゴ君だなぁ。メロスも何回もやらされると、早くなるもんですね」
呑気な声音。
まるで、遠足の集合時間に間に合ったかどうかを話しているかのようだ。
――だが。
玄蕃とカグヤは、確かに感じていた。
運命の歯車が、予定より早く回り始めたということを。
そしてそれが、破滅ではなく――希望の兆しであることを。
転移陣の光が、さらに一段、強く脈打つ。
玄蕃が一歩踏み出しかけた、その背に――カグヤの声が、やわらかく掛かった。
「玄蕃殿」
振り返ると、花魁は煙管を指で弾き、静かに笑っている。
「行っておいで。わっちの息子が、呼んでおりんす」
その言葉に、玄蕃は一度だけ深く頷いた。
カン、と澄んだ音が、再び大広間を満たす。
タイヨウがパッと身を起こした。
寝袋を押しのけ、裸足のまま床に降り立つ。眠気は、もうない。紫色の瞳が、はっきりと光を帯びる。
「じゃあ――行きましょうか!」
胸に抱いていた転移陣が、彼女の鼓動と同調する。
羽のない背に、確かに風が生まれた。
空気が、震える。
侍従たちは、思わず跪いた。
それは、ただ在るだけで、世界を正すもの。
――天使、起動。
タイヨウはいつもの調子で微笑んだ。
「大丈夫です。リンゴ君、約束は守る人ですから」
転移陣が、光に満ちる。
観月宮の大広間が、白に溶けていく――。




