出陣前ブリーフィング
プロジェクターの通信が切れると同時に、南海がスッと医務室の隅に置かれていたホワイトボードを引き寄せた。
彼の表情は、先ほどまでの緊張を引きずりつつも、特別消禍隊百目ーー戦場の参謀そのものだった。
カツ、カツ、とペンを走らせ、南海は状況を瞬時に整理する。
「まず現状の確認です」
ペンの先が残時間の文字を指す。
「残された猶予は、十八時間弱。バベル側からエリア3までの転移符は貸与されます」
ホワイトボードに地図が描かれる。
エリア3からエリア4へ向かうルートが、赤線で示された。
「エリア3からエリア4までは、この突入メンバーの脚なら2時間以内に到達可能」
ここまでは良い。
しかし南海は、表情を険しくしてから続けた。
「――ですが。問題は、ここからです」
そこで南海の言葉を引き継ぐように、カグヤが口を開いた。いつの間にか咥えていた煙管を紅唇から離し、ぷかり、と煙を吐く。
「エリア1に、ヴォルフガング領製の魔力集積装置マハトという施設がある。前にミカドへ送られた闇魔石もそこでつくられた」
室内の空気が緊張した。
「魔界の魔素を吸い上げ、魔石として蓄え、国内のインフラを支える――最重要拠点じゃ」
そこでカグヤは、煙管をカツンと卓に置く。
(ここ、病室ですよね……⭐︎?)という言葉を玄蕃は飲み込んだ。
カグヤの動作はあまりに静かだが、しかし感じたことのないほどの圧を孕んでいる。
「そこに三時間前から、異常が出ておる。闇魔素の量が――わずかではあるが、確かに減ってきているそうえ」
麟五の背筋に冷たいものが走った。
「原因の一つとして、トビの吸引量が増している可能性が考えられます。それで闇魔素が魔界で減っている」
南海が、ホワイトボードのグラフに急激な下降線を引いた。
「このまま闇魔素が減れば、バベル国内のエネルギーインフラが崩壊し、さらに――」
カグヤが言葉を引き継ぐ。
「バベル王国に屍病が発生する恐れすらある。ミカドの闇ワクチンの製造も打ち止めじゃ。皇の代替もまだおらぬ段階で、闇魔素が枯れるのは両国にとって致命的でありんす」
医務室に重苦しい沈黙が落ちた。
南海が深く息を吸い、はっきり言った。
「この状況を見ると――飛梅が、どこまで強大になっているのか、計り知れません」
飛梅は自我を失い、魔界核と闇魔素の吸引体質が相乗して暴走している。
彼女はもう、ただの闇属性特級能力者ではない。
魔力環境そのものを変動させる存在になっている可能性があった。
これが問題点第一。
南海はホワイトボードの地図を大きく描き直し、エリア4をぐるりと囲むように赤い円を描いた。
「次に――問題点第二です」
ペン先がエリア4にトン、と置かれる。
「魔界の広大さです。エリア4だけで、江戸の半分の面積がある」
神保兄弟は思わず顔を見合わせた。江戸から出たことのない彼らにとっては、世界の半分だ。
「バベル側の調査によれば、エリア4は地形変動が激しく、魔素の濃淡で視界も索敵も乱れる。そこにトビの魔力吸引の暴走が加われば、闇属性者の索敵能力は全くあてになりません」
南海はバベル王国から提示された捜索ポイントを複数書き込むが、それらはあまりに散らばっていて現実的ではなかった。
「――問題は、その広大な魔界に置いて、我々が転移の法を持たないことです」
玄蕃が眉を寄せた。
「つまり……?」
「つまり、です。」
南海は地図の中央に大きく“徒歩”と書いた。
「徒歩のみで、この広大な魔界領域に突入し、暴走したトビを発見しなくてはならないのです」
テッサが息を呑む。
神保兄弟は揃って俯いた。
「加えて――」
南海は続ける。
「トビは現在、魔力を吸い上げれば吸い上げるほど強大化する可能性がある。スピードも上がっていくかもしれない」
つまり時間が経つほど、捜索の難易度も危険度も、指数関数的に上がるということだ。
見つけられない可能性は、極めて高い。
そして、見つけたとしても、捕らえられるかは分からない。
それが――問題点第二。
南海はその下の欄に「③」と記し、短い言葉を書いた。
《時間の猶予なし》
「……問題点第三は、これです」
室内がさらに重く沈む。
南海はホワイトボードの発見の文字に×印をつけた。
「仮に――トビを見つけられたとしても、終わりではありません」
南海がペンを握る手に力を込めた。
「次に必要なのは、玄蕃殿をその場まで運ぶこと」
玄蕃が静かに頷いた。
「心臓の入れ替えは、現地で行うしかありません。飛梅さんが過剰吸入を続けている状態では、彼女を移動させることは不可能です」
南海は玄蕃の名を記し、その横に移植と書きそえる。
カグヤが説明する。
「バベル王国は、彼の地に転移ができるソルとタイヨウの同行に難色を示しておる。理由は単純――」
カグヤの赤い瞳がわずかに鋭くなった。
「闇魔素が減少しておる今、彼らのような特級魔力保持者は非常に危険なのじゃ」
南海が説明を継ぐ。
「魔素が一段階減るだけで、彼らの魔力消費は倍になる。そこへ吸入体となった飛梅さんが近づけば――」
南海は黙った。
言葉にするまでもない。
瞬時に吸い尽くされるだろう。
魔力だけでなく、命すらも。
ホワイトボードに新しい項目が書き加えられた。
《玄蕃殿:現地転移 1回のみ》
「タイヨウ様が、玄蕃殿を一度だけ、エリア4へ直接送り込んでくれるそうです」
カグヤは袂から一枚の木札を出し、麟五に渡した。
中央に輝くのは『陽』の文字。
「失くすなよ。これに電票を起動する要領で気を流せば、タイヨウが門を開ける手筈じゃ」
そこで玄蕃を見ると、ニッと笑った。
「タイヨウは1時間後にここへ来るえ。主は奴と待機じゃ。魔界から連絡が来るまで喰うなり寝るなり好きにすりゃ。うちの飯はうまいぞ」
下手すりゃ死ぬかもってときにーーと思わないでもなかったが、カグヤの言葉で何やら気が楽になったのはありがたい。
玄蕃は頷くと、静かに両腕を組んだ。
「つまり、僕の出番は一回きりってわけだね」
南海は頷いた。
「そして、玄蕃殿のエリア4での活動限界は一時間。これを過ぎると、魔界格を移植する前に自我が失われます」
麟五の心臓が痛む。
「だから――」
南海はホワイトボードの中央に大きく書いた。
《飛梅を発見し、留め置く方法を確立せよ》
「玄蕃殿を運ぶ前に、トビを見つけ、暴走を止め、 その場に固定する術が必要です」
ペンを猛然と走らせながら、南海はホワイトボードを睨みつけた。
「まとめますーー……!」
【目標8時間以内】
広大な魔界で飛梅を見つける
自我を失った飛梅を止める※殺さない!
玄蕃殿を呼び寄せるための場所を確保
一時間以内に心臓移植を完了する
失敗は――飛梅の喪失、玄蕃の死、ミカドとバベル両国の破滅を意味する。
ペンを下ろす手は震えていた。
バベル王国をもってして禁足地に指定せざるを得なかったレベル4で、魔力吸入を続けてどれほどの魔獣と化しているかもわからぬ飛梅を確保し、前代未聞の移植術を行う。
立案はしたものの、南海は麟五の顔を見ることができなかった。
「……これが、今回の作戦の内容です」
南海の声はかすかに震えていた。
「――承知した」
それは、あまりに静かで、あまりに余裕のある声音だった。
絶望的な状況説明を終えた直後だというのに、麟五は肩の力を抜いてそう言った。
その姿に、テッサは眉をひそめた。
「……頭がおかしくなってしまわれたのかしら? 珍しく状況を理解されていないみたいだわ」
小声で失礼極まりないつぶやきを落とす。
神保兄弟はさらにひどい。
「まじっすか。リンゴ君も殴れば正気戻るタイプじゃねえすか?」
「殴りやすか? ゴリラ系はだいたい……」
「お前ら黙れ」
南海の低い声が飛ぶ。
麟五はベッドから静かに降りた。
見れば、自分は患者衣のままだった。
しかし、何を纏えばいいのかわからなかった。
よく考えれば――今の自分は、ミカド皇国の人間でもなく、まだ天道領の人間でもない。
どこにも所属しない、真の意味での自由な戦士だ。
その新鮮さに、胸がわずかに揺れた。
するとテッサが、そっと白い隊服を差し出した。
「着てください、隊長。外国で迷子になった新米を無事に取り戻すこと――それがあなたの最後の任務です」
麟五は短く礼を言い、受け取った。
周囲が瞬きを終える前に着替えると、麟五は軽く息を整えた。
そして次の瞬間。
迷いなく――自身の左眼に指を入れた。
ぐっと力を入れ、肉の裂ける感触と共に眼球を引き抜く。
テッサが短い悲鳴を上げ、神保兄弟が口を揃えて「おいおいおいおい!」と叫び、南海ですら一歩たじろいだ。
だが麟五は眉ひとつ動かさない。
抉り出した左眼を手のひらに乗せ、己の魔力で瞬時に水球を作る。
透明な球体に包まれた眼球が、ふわりと浮かんで南海の前へ移動した。
「飛梅は、」
麟五は冷静に言った。
「俺の魔力だけで作った御霊石を持っているはずだ。南海、この眼と同じ気を追え」
南海がハッと息を呑む。
「この眼の護芒星を調べれば、皇の残影もあるだろう。俺の気と皇の残影、この二つが重なる存在など――飛梅以外にない」
ビーコンとして、飛梅への唯一無二の手がかりになる。
(……天才すぎるだろ)
全員がそう思った。
麟五は片眼を閉じたまま、そこから溢れる血を気にする様子もなく立っていた。
カグヤが呆れたように扇を鳴らし、「それは重畳。して、主はそのままでどうするつもりえ?」と問う。
魔石義眼のストックを脳裏で確認し始めたカグヤを横目に、麟五は俯き、ふるりと頭を振る。
そして顔を上げた。
ーーその瞬間。
左眼には美しい金色の瞳が、完全に再生していた。
誰も言葉が出ない。
四元特級能力者、蓼丸麟五の本当の怪物性がそこにあった。
自ら損壊した器官を魔力だけで完全再生するなど、人類史における奇跡としか言いようがない。
全員が悟った。
この男が立つ限り、この戦いは無謀ではなくなるのだと。
「――行くぞ」
静かで、揺るぎない声だった。
南海が胸を張り、誇らしげに続く。
「了解です、隊長」
この男が先頭に立つなら、奇跡は現実となる。
十五代蓼丸の麒麟児ーー蓼丸麟五の最後の戦いは、そうして始まった。




