玄蕃の決意
南海が何度も張り上げた声が、麟五の暴発寸前の魔圧をどうにか押しとどめた、その瞬間。
――コツ、コツ。
白い医務室の床に、まるで花の蕾が落ちるような軽やかな足音が響いた。
「……そのあたりにしておきんす、蓼丸の」
入ってきたのは、天道領領主カグヤだ。
黒地の男物の浴衣を羽織っていても尚、むせかえるような色香に神保兄弟が顎を落とした。
白髪、赤い瞳。
歳という概念を嘲笑うような絶世の美貌。
花魁として伝説を築き、異国の王妃となり、いまやバベルの大領主として君臨する女。
その気配ひとつで、室内の空気が一段階、いや二段階、澄み渡ったようだった。
彼女が纏う香の匂いが流れ込んだ瞬間、麟五の荒ぶる気配に重石が静かに置かれた。
そしてもう一人。
背後から歩み出たのは、自身のメゾンのセットアップに身を包んだ玄蕃だ。
いつも黒が多い彼には珍しく、白い衣装なのが新鮮だった。
だが、色以外も、いつもとは違う。
いつもなら目が合うなり「やあやあ! 推しは元気ー!?」と絡んでくる、あの柔らかい笑みと軽快さがない。
茶化す気配もなく、ぶれるもののないひとつの決意だけを湛えていた。
眼差しは凜として澄み、その瞳の奥には、静かだが強烈な覚悟の灯が宿っている。
カグヤが医務室を見回し、その美貌に似合わぬ鋭さで短く言い放つ。
「話はすべて聞いておりんす。トビの件も、皇の件もーー主が耐えられるかどうかも、な」
玄蕃は一歩進み、麟五に真正面から目を合わせた。
「……リンゴ君。君が壊れなくていいように、話すべきことがあるんだ」
そこで玄蕃は瞳に、いつもの悪戯めいた光を宿した。
そして、あまりに突拍子もない言葉を放つ。
「僕が、新世界の神になるよ」
医務室の空気が一瞬止まる。
冗談めかして聞こえるその響きに、しかし笑えた者はいなかった。
玄蕃は続けた。
「だから僕の心臓を、トビちゃんにあげてよ」
その言葉に、麟五の胸の奥で何かが崩れる音がした。
だが玄蕃は、涼しい顔で続ける。
「時間がないから手短に説明するね。僕はね、ミカドより闇魔素の少ない日本にいたときから、もう闇属性能力を使えてた。模倣――なんでも真似できる才能だ」
ピアノ、絵画、演技、フィギュアスケート……。
触れれば、見れば、できた。
「親はさ、どれを育てれば一番儲かるかって、そればっかりで。……だから離れたんだ。BL作家になったのは、僕の人生で初めての自分の選択」
軽く笑うが、そこにある傷跡は深い。
「で、トビちゃんの話を聞いた時に思ったんだよね。――吸入も浄化も、僕ならできるんじゃないかって。東雲先生に言ってみたら、ビンゴだった。やっぱり僕も、皇の魔界核を受け入れられる体質だったんだよ」
玄蕃は肩をすくめる。
「でもね、僕にはトビちゃんみたいに魔力を溜め込む体質はない。一級相当だ。だから逆に、皇としては僕の方が向いている」
冗談ではない。
軽口でもない。
ただの事実として言っていた。
それが、かえって重く、誰一人笑えなかった。
「……本当に……」
いいのか?
麟五は問おうとした。
だが声が崩れ、続く言葉が出てこなかった。
(こんな選択、そんな簡単に言っていいわけがない……人じゃなくなるんだぞ……)
玄蕃はその沈黙を受け取り、穏やかに微笑んだ。
「いいんだよ。僕はこれでいい。これが、いいんだ」
ふわりと浮くと、空中に椅子があるかのように足を組み、指を折る。
「夜眠らなくなることも、二千年生きることも、人でなくなり、子を成せなくなることも――」
玄蕃は胸に手を当てて言う。
「全部、心から願った通りなんだよ」
その笑顔は、静かで、凜として、どこまでも美しかった。
「幸いソル君がさ、年一くらいで日本に行って最新のコンテンツを持ってきてくれるらしいし。彼が死ぬまでに、僕もなんとかして日本に行けるようにすればいいかなって。だから僕、今すぐ皇になりたいくらいなんだよね!」
玄蕃は明るく笑った。
その笑みの奥に、もはや人間としての帰り道はなかった。
ミカド皇国の人々は、その瞬間悟った。
神は、こうして生まれるのだと。
新たなる時代が、今ここに始まるのだと。
「……本当に、いいんだな?」
麟五はようやくその言葉を口にした。
しかし心臓は、焼かれるように痛んだ。
誰に言われなくても理解していた。
魔界の瘴気の中で心臓を入れ替えるという途方もない術式など、蓼丸麟五ただ一人にしかできない。
つまり玄蕃は、自らの命も未来も、そのすべてを麟五に託したのだ。
玄蕃はにっこり笑った。
「失敗しないでよね? 僕、ワンピースの連載が終わるまで絶対死ねないと思ってたから」
その軽さで、逆に泣きたくなるほどの重さが際立った。




