50. ミカド書紀と20万年後の子供達
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天地未だ分かたれず
混つ気、国土にたなびき
生くるとも死するとも知らざる世に
一つの御子、海の泡より現れたり
その形、手足備わらず
声なく、影なきものなりき
人、これを畏れて近づかず
土地、これを忌みて抱かず
しかれども御子
国を覆う瘴を吸い
毒を以て身を育み
いよいよ白妙の姿となりぬ
やがて御子、光を帯びて立ち
大気のまがつ気を浄め
地を鎮め、水を澄まし
民の命を繋ぎ給ふ
人、これを畏れ敬い
皇と称へ奉る
ここに、国の礎定まりぬ
(ミカド書記 第一段より)
◆◆◆
麟五は読み上げられた『ミカド書紀』の一節を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい刃を差し込まれたように感じた。
幼いころから何度も唱えた神話。
養母の膝の上で聞かされ、入隊試験の前夜ですら口ずさんだ物語。
あれが、史実だったというのか。
いや、史実どころではない。
自分たちが守ってきた国そのものが、屍病の根と同じ場所から始まっていたということか。
彼の中で、誇りと信仰と理性がせめぎ合う。
自身の左眼に護芒星の楔を打った少女の顔を思い浮かべる。
(皇は、国を救ったお方ではなかったのか?救いと呪いが、最初から一つだったのか……?)
ならば、屍人を討ち続けた蓼丸の麒麟児とはなんなのか。己が、そして過去の麒麟児たちが“人を殺してはならぬ”と穿たれた左眼の掟は、誰を殺さぬように命じるものなのか。
心臓が、嫌なほど大きく脈打った。
蓼丸麟五は合理の男だ。
感情よりまず事実を見つめる。
だが――今ばかりは、その事実があまりにも重く、あまりにも残酷だった。
飛梅の横顔が視界に入り、彼女が自分を見上げていることに気づいた。
その目に、怯えと決意と、微かな救いが同時に宿っていて――
蓼丸はしばし目を閉じ、静かに息を吐いた。
(……大丈夫だ。俺が迷えば、誰が守る。俺が揺らぐな。飛梅を、皆を、国を守るのは俺だ)
しかし胸の奥では、神を斬る覚悟と国の根源が崩れる恐怖が絡み合い、まるで魔界の瘴気のように渦巻いていた。
人類最強の男のその様子を、玄蕃と東雲は同じ温度で見つめていた。
玄蕃が静かに口を開く。
「ミカド皇国は、かつて大魔界の外縁部だったんだと思う。ここエリア4みたいな」
国の中心部に小さな魔界を抱くバベル王国民の眼に理解が広がる。
魔界に誰よりも詳しい教授職に就くレイ王子は息を呑んだ。皇が成したことを理解したのだ。
玄蕃は続けた。
「昔のミカドは、今のように人が住める環境じゃなかった。生まれた子の多くは育たず……大地も空気も、水ですら毒素に満ちていた」
南海が辺りを見回し、かすかに喘いだ。
脳より先に、身体が理解していた。瘴気にまみれたこの地でも、幼い頃から自分は生きられた可能性があることを。
ここは闇の気が濃いが、水の気も桁外れに多い。水の気は血に通ずる。長くは生きられぬとしても、高能力者の器があれば、適応できる可能性はある。
(だから、ミカドは能力者が多いのかーー……)
六級と呼ばれる、能力を扱える市民たちがいるのはミカド皇国だけだとハンナが言っていた。
南海の故郷の海の民も、テッサが生まれ育った砂の民も、そのような者が多い。
恐らく、単一能力を尖らせるバベル王国の能力者とは異なり、四元魔力を分散して伸ばすという思想も、過酷な土地に適合した名残りなのだろう。
「しかし、そこへ――異国から一人の少女が転移してきた。手足も未発達で、まともに動くことすらできなかった存在。日本の神話で言う“ヒルコ”の姿に近かったのかもしれないね」
飛梅の顔が強張る。
『ふふ……主もヒルコかえ』
海鎮ノ儀、連行される彼女の耳に囁かれた少女の声。
波の音の聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。
あれは皇の声。
そして、あの甘やかで芳しい香りは、確かに闇の気配だった。
玄蕃は目を伏せる。
「彼女は、その強毒化した魔素を吸える体質だった。毒素を吸い、魔石のように身体を作り替え……やがてミカドの魔素を浄化し、人が住める世界へと変えたんだ」
「…………っ!!」
ミカド皇国の者たちは固まったまま動けない。
玄蕃は淡々と告げる。
「彼女こそが皇。ミカドを作り、人を救い、そして今もなお、魔界の毒を吸い続けている存在なのだと思う」
沈黙の中、レイだけが微かに息を吐いた。
「それが、神と呼ばれる理由か」
名もなく、号だけ呼ばれ続けた少女の、二千年の孤独は想像だにできない。
「ええ。正確には救世主であり……魔界の核を宿したまま進化し続ける存在でもあります。ーー屍人が発生したのは千年ほど前だといいます。吸い上げ続けて枯渇した闇魔素を散布する存在として、彼女が生存本能として発生させたのかもしれません」
「ーーそれは恐らく違う」
東雲玄斎は重々しく口を開いた。
「ミカド皇国は土葬だ。最初は死骸に闇魔素が溜まり、それが闇毒素に転じて蘇ったのだろう。電票に設置された呪符はあくまでも、闇魔素を効率的に収集する装置だった。皇第一の髙橋家と言えど、国に禍いを齎すとわかっていることはせぬよ」
麟五と南海の表情が、少しだけ和らいだ。
しかし飛梅の背筋には、恐怖にも似た冷気が奔っていた。
(ーーなぜ、私を“ヒルコ”と呼んだの……?)
その揺らぎに気付かぬレイ王子は、ソルに「城の地下へ転移させてくれないか?」と頼んだ。
バベル王国産の屍人を前に、東雲に尋ねたいことがあるのだという。
音もなく冷たい地下牢の前に転移した一同は、牢の中で蠢く屍人が「グ……ガァァァッ………!!」と雄叫びをあげて鉄格子にしがみつき、こちらに手を伸ばすのを見た。
バベル王国人は怯んだが、ミカド皇国人は瞬時に冷静さを取り戻した。
死せる犯罪者の姿も、動きも、匂いも。
全て彼らには見慣れた景色だった。
麟五に守られながら索敵を行った南海が「通常屍人、5体です」と宣言すると、飛梅はいつでも打てるように矢を番えた。
呆気に取られていたレイ王子は、セバスに目配せすると東雲に向き合った。
「ドクター東雲。この犯罪者たちが屍人として蘇ったのは、一度ミカドに行き、スメラギのいない魔界にこうして連れてこられたからなのでしょうか?」
レイ王子のその一言に、屍人を見聞していた玄斎がぴたりと止まる。
バベル王国へ送致された重罪人。
生前に屍人との接触はなく、単体水系の特級能力者。
二十年以上バベル王国で暮らし、闇属性ではない。
それが半年を経て屍人化した――
確かにバベル王国の医師たちが条件だけを聞けば、屍病と結びつく要素は見当たらないと思うだろう。
「ミカド皇国からの情報では、屍病は闇毒素による感染が原因とされている。しかし、我が国の魔法医は全員闇属性で……。接触して良いのかすら判断がつかず、蘇り遺体はこうして魔界に放置されたままなのです。我が国の闇属性高能力者ーーアボット家は基本的に王族の護衛に就くため、やはり接触を避けています。比較的自由に動ける私が、貴方に急ぎ確認しに動いたという次第です」
そう告げる王子の声は、屍人のプロフェッショナルを前に恥と自責の色に満ちていた。
(その無茶な動きのおかげで、皇の謎が解けたのだ。礼を言わねばならぬのは我が国のほうだろう)
玄斎は眉をわずかにひそめて、周囲の気を探った。
魔界は一級以上の能力者しか入れぬ深層領域。四元魔素が濃く、なかでも闇の含有量は異常なほどだ。
そこに数日、屍人化した遺体が置かれたままとは――。
「二つ、疑問があります」
レイは手を強く握りしめた。
「このまま屍人を放置してよいのか。そして……なぜ半年も経ってから蘇ったのか?」
玄斎はゆっくりと頷き、正面からレイを見つめた。
「まず、前提から正しておきましょう」
静かだが、空気を切り裂くような声だった。
「屍病には感染型と、もう一つ――環境発症型があるのです」
「……環境、発症?」
レイが言葉を返すより速く、玄斎は頷いた。
「左様。先ほど私が申し上げた、始祖の屍人がそうです。ここ魔界は魔素が濃すぎる。特に闇魔素は、一定以上の密度になると変質する性質を持つ。本来ただの闇の魔素が、ここでは毒素化するのでしょう。我が国でも今夏、それが原因で蘇りが多発しました」
レイの肩がびくりと震えた。
「つまり……闇毒素を浴びたのではなく?」
「違いますな」
玄斎の眼が鋭く光る。
「魔界の環境そのものが、死体の内部で闇毒素を生成したのでしょう。感染ではありません。もっと原始的で、単純で、もっと厄介だ」
「……!」
「これだけの高濃度だ。おそらく魔界は腐敗を遅らせる。死と生の境界が曖昧になり、遺体の魔力回路が長く残存する。そこへ闇魔素が流れ込み、ねじれが起きる。闇毒素へと変質し、屍人化の回路を勝手に組み上げる――」
玄斎は指で屍人を示した。
「彼らが発症するまでの半年という空白は、その変質が臨界に達するまでの時間。死後の器に闇が溜まり、溢れ、起動する。……それだけのことです。処理は通常の屍人と変わらぬ。幸い、ここには特別消禍隊がおります。今すぐ処しますか? 少々特殊な方法故に、任せていただいた方がよろしいかと存じます。貴国にも軍人がいることは把握しておりますが、うまくやらねば何度でも蘇りますので」
それを聞いた特別消禍隊の3人はしっかりと頷いた。
いつでも動けるように魔圧を静かに高めている彼らを見て、レイは息を呑んだまま、しばらく声を失っていた。
玄斎は淡々と結論を告げる。
「闇毒素に触れていないから安全という理屈は、魔界では通用しません。今後もここに死骸をおいてはなりません。屍人は生者の気を求めて動く。やがて国の障りとなるでしょう。ーーこれで答えになっておりますかな?」
静寂が落ちた。
レイ王子は、その言葉の重みを噛みしめるように目を閉じた。
「ーーこの犯罪者達は王族に連なる者でした。我が国の騎士団によって処すのが相応しいでしょう。王に進言させて頂きます。一両日中に、騎士団の者を研修に貴国へと出向かわせるのか、特別消禍隊の方を御指導のためお招きするのかご連絡させて頂きます。恐らくお招きする形になると思いますが……天道領が拓いたのは心強いですね。観月宮の者達も喜ぶでしょう」
話が終わったことで、ソルが皆を再び場外へと転移させた。
ソルがタイヨウと別れの抱擁をしている横で、特別消禍隊の3人がレイ王子に頭を下げている。
その背後ではシノと玄蕃を防御繭の呪符の上へハンナが招いた。
見守るセバスは、やや焦りの表情で時計を気にしている。
今夜の瘴気はとりわけ濃い。
活動限界が差し迫っていた。
すると東雲玄斎は、複数の思考を同時に巡らせている時の、独特の表情で口を開いた。
視線は宙を彷徨い、しかし一点に線を結ぶような研ぎ澄まされた声で。誰にともなく。
「……玄蕃殿の申されたように、ミカド皇国はかつて、このエリア4のような瘴気に満ちた土地だったのだろう」
ぽつりと落とされた言葉は、場の空気を重く変えた。
玄斎は苦悩を浮かべながら続ける。
「彼の方は闇魔素を多く吸い上げておられた。ミカドには久しく存在しないとされてきた闇属性を、誰よりも深く取り込んで……国を護ってこられた」
誰も言葉を挟めない。その瞬間、屍人さえ動きを止めていた。
「闇魔素が毒化すると闇毒素となり、屍病を引き起こす。ーー皇が吸いきれなくなった瘴気が増え始めたからこそ、屍病が激増したのだとしたら」
そこまで言って、東雲玄斎は、はっきりと言葉を止めた。
重い沈黙の中で、彼はミカド皇国の者たちへ向き直る。
国へ戻る前に。若者達へと。
「――皇は敵ではない」
低く、深く、誰よりも敬意をこめて。
「二千年ものあいだ、ミカドを護ってくださった神であらせられる。誰にも代わることなどできぬ。その御業に綻びが出たとして……」
玄斎の声が静かに沈む。
「誰が責められよう。我らは、どうすればよい。人の身で、何ができるというのだ」
そして最後に、そこにいた全員の胸を刺すような問いを投げかけた。
「――神を、お救いする術はあるのか」
東雲玄斎が、深い無力の底から絞り出すように呟いた。
そして、その言葉が夜気に溶けきる前に、世界の色が変わった。
風が止み、闇が震え、ひと筋の光が闇夜の中でふわりと揺れる。
十二単を纏っているとは思えぬ軽さで、その少女は闇の中に浮かぶように現れた。
その微笑みは、人を赦し、抱きしめ、慈しむ本物の神のものだった。
「……ミカドの子は、やさしいね」
やわらかな声。
この世のどんな温度とも違う、永劫のやさしさがそこにあった。
「私を救う術とは……私はこれでいい。まったく、後悔などないよ」
その瞬間だった。
空気が揺らいだ。
次いで、見えない圧そのものが地を叩きつけるように襲う。
ハンナが崩れ落ち、ソルが膝をつき、タイヨウが息を奪われ、レイが苦悶の声を漏らし、セバスが呻き、玄蕃までもが目を見開いたまま倒れた。
皇が闇魔力を吸い上げたのだ。
逃げる暇など一切与えられない。
転移すら、皇の前では無意味だった。
ただ一人――
闇属性であるはずの彼女だけが、その場に立ち続けていた。
どうして。
なぜ飛梅だけが。
それを理解する前に、麟五の反応は一瞬遅れた。
皇は飛梅を見つめ、母が子を見るような眼差しで優しく微笑んだ。
「救う術は、あるとも」
世界が凍りつく。
「そのヒルコを、次の神にすればよい。可愛い吾子よ……民を守れ」
止まった世界に、神の厳かな命令が響いた。
「――あ……あぁぁ……」
南海が、肺から絞り出すように喘いだ。
その顔は絶望に染まっていた。
彼が見たもの――それが、すべてを物語っていた。
皇の右手には、未だ脈打つ、血に濡れた心臓があった。
小さな掌に収まりながら、生き物のように震え、鼓動し続けている。
それは甘美で美しいほどに残酷で、神の微笑みとの対比があまりにも異様だった。
世界が粛然とひれ伏すような、圧倒的な神威がそこにあった。
光が弾けたのか、闇が襲ったのか。
色も、声も、何もかもが遠のいていく。
最後に麟五の視界に焼き付いたのは――慈愛の笑みを湛えながら、心臓を掲げる皇の姿。
ゆっくりと倒れていく、飛梅の背中。
そして、完全な闇だった。




