46. 神保ガンズの目覚め
白く静まり返った小石川療養所特別室には、凍てつくような緊張が張りつめていた。
壁際の魔力遮断灯が低く唸り、空気は乾ききっている。
その中心、隔離ベッドに横たわるのは――かつて特別消禍隊第七局を率いた男、神保ガンズ。
屍病を防ぐために凍結の眠りに沈んで十五年。彼には闇魔素を吸収する「毒闇感受体」は、一切なかった。
だからこそ危険なのだ。
彼の体は、ワクチンの受け皿を持っていない。
そんな病室に、臨戦態勢の二つの影が立っていた。
蓼丸麟五と飛梅音だ。
何が起きても即応するために、彼らは静かに真圧を体内で高めていた。
ベッド脇の東雲玄斎は、静かにワクチンの瓶を掲げていた。純闇魔力と闇毒素中和液を混ぜ合わせた第一号ワクチンを。
東雲は瓶を指で弾きながら、ぽつりと語った。
「……日本橋ノアという少年がいた。上野事変で飛梅楽と同じように昏睡して運ばれてきた子だ」
音が小さく頷く。彼女も兄と共に面会したことがある。
「ノア君は飛梅兄妹より毒闇感受体が少なくてね。闇毒素に対する受容窓が狭いせいで毒素が行き場を失い、黒斑症状が皮膚に浮かんでいた」
あの痛々しい黒い斑点。音は思わず胸を押さえた。
「だが――ソルの純闇魔力で毒素を洗い流し、そこに闇ワクチンを重ねたところ見事に回復した。黒斑がみるみる引く様は……あれは私の研究の中でも、最も美しい成功例だよ」
東雲の声は誇らしげでもあり、どこか震えてもいた。
「ただし」と、そこで表情が引き締まる。
「ノア君ですら感受体が少ない程度。だがガンズ隊長には……毒闇感受体がまったく無い」
音も麟五も、息を飲む。
ノアの奇跡は、ガンズにはそのまま適用できないということだ。
麟五が、抑えた声音で問う。
「……そんな危険があるものを、ガンズ隊長に投与していいのですか?」
東雲は、振り返らない。
しかしその声は、長い年月の重みを伴っていた。
「――蓼丸殿。この男は……」
ゆっくりと、ワクチンの瓶を光に透かした。
「もしこれを別の誰かで試したと聞いたら、怒り狂ってこの病院を焼き尽くすだろうよ」
音が僅かに息を呑む。
東雲は優しいため息を落とす。
「そういう人なんだ、ガンズ隊長は。自分より弱い者が危険に晒されることを絶対に許さない。……だから私は、この十五年を研究に費やすことができた」
その声には、確かな敬意と師を信じる弟子のような温度があった。
麟五は拳を握りしめ、音は唇を押さえる。
二人は互いに頷き合い、ベッドの左右に立った。
「東雲先生。――いつでもどうぞ」
「任せます」
東雲玄斎は深く頷き、注射器に闇ワクチンを吸い上げた。
闇魔素がわずかに揺れて、黒い光が瞬く。
その瞬間――
特別室の空気は、張りつめた弦のように震えた。
時計の秒針の音まで聞こえそうな静寂。
「……投与する」
その言葉と同時に、黒い光を帯びた闇ワクチンが、神保ガンズの血管へと静かに流れ込んでいった。
音は背に回した指を弓の柄へ添え、魔力を指先に集中させる。
いつでも引き抜き、矢を放てるように。
暴走の瞬間を、絶対に見逃さないために。
麟五もまた、呼吸を静かに整えながら魔圧を高めていく。
その場に満ちる、見えない圧力。
床の木目がわずかに震え、光の届かぬ隅には微かな風が渦を巻く。
東雲は時計を見て、硬い声で告げた。
「……五分。五分変化がなければ再凍結させる」
一度屍人化した肉体は、凍結によってのみ暴走を止められる。
十五年前も、そうやって彼を守ったのだ。
病室に、秒針だけが響く。
一分。
ガンズは微動だにしない。魔力波形も変化なし。
音の背中を汗がつうっと流れた。弓を握る指が白くなる。
二分。
麟五の魔圧がさらに増す。
空気がきゅっと締まり、蛍光灯が一度だけ瞬く。
東雲はワクチン残留の魔層を観察しているが変化はなかった。
三分。
音の胸が痛むほど脈打つ。
屍人化。それが現実味を帯び始める。
「……ガンズ隊長……お願いですから……」
音が思わずこぼした祈りが唇で震えた。
四分。
麟五が、東雲へ低く問う。
「兆候は?」
東雲は歯を噛みしめた。
「……ゼロだ」
四分三十秒。
あと三十秒で凍結措置――つまり、終わりだ。
東雲が凍結術式のパネルに手を置くのを見た音の視界がじわりと滲む。
四分四十五秒。
カウントダウンが心臓を締め上げる。
「間に……合わないの――?」
子供の悲鳴のような音の呟きは、男達の気持ちを代弁していた。
東雲が凍結を決断しかけた、その瞬間。
ガンズの指が、がくりと震えた。
「ッ……!」
音が叫びそうになるのを麟五が肩で制した。
東雲が駆け寄り、モニターを確認する。
魔力波形が微細に、しかし確かに動き始めている。
「……反応している! 闇魔素に身体が応答を始めた!」
音の目から涙が零れた。
背に伸ばしていた手が力なく落ちる。
麟五はゆっくり魔圧を解いた。
だが視線は一瞬たりともガンズから外していない。
ガンズの胸が、浅く、しかし確かに上下している。
十五年動かなかった胸が。
東雲が震える声で呟いた。
「……生きようとしている……ガンズ隊長は……まだ戦える……!」
音が両手で口を押さえ、涙をこぼした。
麟五も目を細め、ほんの一瞬だけ、安堵の色を宿す。
やがて反応を示したガンズの身体が、ゆっくりと熱を帯び始めた。
まるで長い冬が、ほんの少しずつ溶けるように。
「体温、上昇。魔力波形、安定……いや、上がっている……!」
東雲玄斎の声が震える。
音は涙を拭いながら、ベッドから身を引いた。軍人の必要はもうない。
麟五もわずかに身構えたまま、視線をそのままに後退る。
ガンズの瞼が、ぴくりと動いた。
東雲が息を呑んだ。
「……ガンズ隊長……? 聞こえますか……?」
次の瞬間、ガンズの眉間が深く寄り、喉の奥から低い唸り声が漏れた。
かつて江戸最強の部隊を率いた猛獣の声が。
「…………ぐ……っ……あ……」
手が動く。
握りしめるように。
誰かを掴もうとするように。
瞼が震え、やがて勢いよく目が開いた。
焦点の合わない、しかし異常な熱を帯びた眼光。
血走った瞳孔は、十五年前の戦場を映していた。
彼の意識は、いまだ深川の地獄を彷徨っていた。
屍人達が荒れ狂うの中、炎と悲鳴が交錯したあの夜――ガンズ隊長は、そこで時間を止められたままだ。
がばりと上体を起こし、全身の筋肉が暴れ馬のように隆起する。
そして喉を裂き、魂を焼きながら叫んだ。
「西門ォッ!! 避難は済んだかァァ!!」
東雲の心臓が跳ね上がり、音が耳を塞ぐほどの声量。麟五が一歩踏み込んで制圧体勢に入る。
だがガンズは止まらない。
「第三分隊はッ!? 返答しろォ!! 永代橋を落とせェェッ!!」
神保ガンズの咆哮は、まるで病室の壁を突き破って外の世界へぶつかっていくようだった。
その声は、十五年前と同じだった。
戦場を割る雷鳴のようで、仲間の生命線を呼ぶ声だった。
隣室で待機していた者たちが、一斉に動く。慌てて戸が開かれる音が続いた。
そして最も早く駆け込んできた影が二つ。
足をもつれさせながら、転びそうな勢いで。
深川殲滅戦の生き残り、西門と雪平だった。
西門は右目に黒い眼帯をつけていた。
あの夜、屍人の血を浴びたことで、片目を腐食させられた。
しかしその歩みは迷わない。
眼帯の下の空洞ごと、芯を研ぎ澄ませている。
彼の横には、雪平。
剣士にも関わらず、雪平は両目を失った。伝令に走る西門を護る最中、屍人になった味方に抉られたのだ。光を失ったその代わりに、今は魔石義眼が青白い光を灯している。
その光は、深川の闇夜に散った仲間の代わりに、彼が見続けようとする意思そのものだ。
二人とも、十五年を背負った体で、病室へ飛び込んできた。
ガンズはまだ、当時の地獄に取り残されたまま叫び続けている。
「雪平ァッ! 西門はどうしたッ! 返答しろォ!!」
その叫びを聞いた瞬間、西門の呼吸が止まった。
普段は表情を動かすことさえ滅多にない男が、胸を押さえ、崩れ落ちそうになった。
「あ……ぁ……」
十五年。
部下として、百目として、隊長を救えなかった夜が、彼の心臓に針として刺さり続けてきた。
そしていま、その隊長が、十五年前のあの呼び声をそのままに叫んでいる。
西門の喉が震えた。
声が出ない。
ついに膝をつき、顔を上げ、片目の奥から絞り出した。
「……避難……」
音が、東雲が、麟五でさえ息を呑む。
それは、十五年待ち続けた返答だった。
声は掠れ、ひび割れて、涙にまみれて、それでもはっきりと届いた。
「……避難、完了してます。……隊長」
ガンズはまだ誰も見ていない。
深川の火の粉と、屍濁の影を見ている。
だが、その声だけは、確かに聞こえたようだった。
喉を震わせ、苦しげに息を吸う。
そして握りしめていた拳が、すこしだけ緩んだ。
答えた西門の横で、雪平は立っていた。
いや――立っているだけで、もう精一杯だった。
ガンズの叫び声を聞いた瞬間、雪平の全身がびり、と震えた。
記憶が脳の奥で弾け、十五年前の夜が蘇る。
灼け落ちる家屋。
飛び散る屍濁。
千切れた悲鳴。
鐘の音、炎の匂い。
そして、彼を庇って倒れた仲間たちの温度。
ガンズ隊長の背中。
それが、十五年間、雪平を生かしてきた。
生かしてしまった。
目の前で隊長が息を吹き返した今――雪平は、何も言えなかった。
喉が塞がり、胸が裂けるように熱い。
言葉にした瞬間、すべてが零れてしまう。
魔石義眼が震え、涙が溢れた。
「……っ……」
声にならない。
隊長の名を呼びたかった。
十五年間の夜を終わらせたかった。
生きていた理由を、届けたかった。
言葉の代わりに、彼は、ただ隊長に向かって一歩踏み出した。
震えた膝で、必死に立って。
そして深々と頭を下げた。
それだけで、言葉より重い十五年の叫びになった。
西門と雪平の声なき震えが病室を満たす中、柔らかな色合いの影がそっと動いた。
着物の袖を握りしめ、静かに立っていたのは神保の妻、シノだった。
「ガンさん……?」
その震える声に、ガンズの荒れ狂っていた瞳が、ぴたりと止まった。
炎も、血も、屍濁も、戦場の叫びも。
その声に、一瞬で掻き消された。
「……シノ……さん……?」
視線を動かしたガンズの喉が震え、肩が落ちる。
そして、握り締めていた拳から力が抜けた。
「今日もきれいだなぁ……」
シノは泣き顔のまま、つい笑ってしまった。
「もぉ……急に何言うの」
その陽だまりのような笑顔に、ガンズはようやく今へ引き戻された。
正気を取り戻したガンズは、ようやく西門と雪平を見た。
そして――。
「……お前ら……なんか老けてねえか?」
病室にいた全員が固まる。
西門は表情一つ動かさないが、肩がぴくりと揺れた。雪平は魔石義眼の光をわずかに明滅させた。
シノが袖で涙を拭いながら言う。
「私もよ。十五年経ったの」
「いや、シノさんは変わらん。きれいだ」
恋は盲目だった。
そこへ東雲玄斎が歩み出る。
「私からご説明させてください」
東雲の声は、震えを必死に押し殺していた。
「深川殲滅戦――今ではそう呼ばれています。あの夜から……十五年が経ちました」
ガンズの眉がぴくりと動く。
「被害は甚大でした。ですが、隊長が最後まで踏みとどまり、屍人の波を押し返したおかげで……ミカド皇国最大の人口密集地帯にも関わらず、被害は過去の大火より少なかったのです」
西門が拳を握り締め、雪平が唇を嚙んだ。
「隊長は、私を逃がすために屍人に襲われ……屍病の暴走を防ぐため、最終手段として魔力凍結を行いました」
ガンズの瞳が、じわりと揺れ始めた。
「……ゲン坊か?」
目の前の老医師に、新人癒師東雲玄斎の面影を見たガンズの声は、震え、かすれていた。
東雲の肩が、耐えられず揺れた。
シノがそっと夫の腕に触れる。
「あなたの凍結で、東雲君は魔力を使い果たしたの。そのせいで老化してしまったのよ」
ガンズの顔が強張る。
「老化……? 治せるのか、それは」
「ええ。今の医療なら、魔力枯渇の老化は治せるわ」
その言葉を聞いた瞬間、ガンズの体が弾けるように動いた。
まるで十五年前のままの力で、東雲玄斎の肩を掴んだ。
「ゲン坊!! すまなかった!! 今すぐ治療を――!」
ガンズの熱量が、十五年ぶりに部屋を支配した。
東雲の視界が滲んだ。
掴まれた肩が痛む。
だが、その痛みが嬉しかった。
十五年追い続けた目的に、今、掴まれている。
東雲玄斎は泣いていた。
15年前、19歳の青年だった頃のように。
「このままでいいです……隊長」
声が震える。
「もう……置いていかれるのは嫌なので」
十五年間、彼を守れなかった悔いも、研究に捧げた人生も、老いた身体も、全ては――この一言のためだった。
「隊長。あの日、自分を守ってくださって……ありがとうございました」
病室にいた全員が、涙を堪えられなかった。
部屋の端で見守っていた飛梅が、こらえきれず嗚咽した。
「……っ……ひぐ……」
麟五が無言でそっと彼女の肩を抱き寄せる。ただ、支えるように。
その温かさに音はさらに涙を零した。
そして、ガンズとシノ、西門と雪平、東雲玄斎。
十五年の時間と痛みが、ひとつの部屋でほどけていった。




