44.5.2【幕間】二千年後の闇
皇が静かに目を開くと、宮の奥は凪いだ湖のように静まり返っていた。
新年はいつもそうだ。
儀礼が続くため、皇天宮の者達が駆り出される。何かと手を出されるより、よほどいい。どうせなら百年ほど放っておいて欲しいものだ。
しかし、その年は違った。
廊下の向こうから人のざわめきが近づいてくる。
「陛下――! どうかお言葉を……!」
「このままでは……髙橋家は……っ!」
ふと視線を向ければ、髙橋家の神官たちが駆け込んでくるのが見えた。
顔は蒼白。
大新年祭から直行したらしい豪奢な衣装の袖は乱れ、礼儀も忘れ、必死に何かを訴えようとしている。
皇はまばたきひとつせず、御簾越しに彼らが口々に紡ぐ焦燥を聞いていた。
「渡辺家の三女がバベル王国との婚姻を……! 本日初めて会うて結婚だと!? あり得ぬ! あやつらはそのような奸計を企てぬと思うておりました!」
「蓼丸も外交で功績を……! 天道領の開領が決定したそうで、蓼丸の息のかかった者達だけでなく、渡辺も彼の国へ動くでしょう。御三家の序列が変わってしまいます!」
「バベル王国には日本人の御方がいらっしゃるとか……それなのに皇天宮の我等を差し置くとは! 愚弄するにも程がある!」
「この上、闇ワクチンなど……! 皇に祈ることこそ、皇国民の守りだというのに! そんなものが民に流通すれば、祈りは廃れ、神事は不要になります!」
「さすれば陛下の御威光も……!」
声が震えていた。
恐怖にも、嫉妬にも、焦りにも聞こえた。
皇はただ、静かに彼らを見つめていた。
彼らは気づかない。
自分たちがどれほど醜く、どれほど神にすがっているかを。
ついに髙橋家宗家が膝をつき、か細い声で訴えはじめた。
「陛下……どうか……祈りの国を、御守りください……!」
そのとき、皇はほんのわずかに、口角を吊り上げた。
慈愛にも見える微笑みだった。
「……人は、祈りを失っては生きられぬ」
その声は、柔らかく。
だがどこまでも遠く、誰にも届かない場所から響いていた。
「二千年前も、今も。変わらぬことだ」
ほっとしたように息を吐く髙橋家の者たちは、その意味を理解できていなかった。
理解できるはずがない。
当時から生きているのは、彼女だけ。
彼女だけが知っているのだ。
人間たちの祈りが、どれほど脆く儚く、そして容易く裏切られるものであるかを。
ーーこの世界に来た遠い日に思いを馳せる。
流された瞬間から、骨すら灼けるような痛みに包まれた。
あれほど長い時間、痛みだけが私の世界だったことは後にも先にもない。
痛みというものは、不思議だ。
三日三晩のたうたせたあの苦痛でさえ、二千年を経ればただの記憶の影になる。
あの時、痛みが強くなるたび、私は変わった。
手も足もなかった私に、形が芽生えた。
鼻孔がひらき、空気が胸の奥を焼いた。
まぶたというものを得て初めて、光という獣がこの世にあると知った。
私はこの地で生まれたのだ。
ヒルコと厭われ、一度、川に捨てられたはずの私が。
ミカドという国が、私を人にしたのだ。
形を得るという代償として、私はミカド皇国の瘴気を吸い、闇の素を取り込んだ。
苦痛から解放された原住民は、私のことを神と崇めた。
それからも、私は常に求め続けてきた。
同じエネルギーを。
身体を維持するために。
神官の捧げる魔石では間に合わぬ。
国内を移動し続けるしかなかった。
遷宮は街を栄えさせると、神官達が喜ぶのが厭わしかった。
しかし千年過ぎ、吸いすぎて枯渇する地が現れ始めた。
だからこそ——700年前、神官一族であった髙橋家に仕組みを作らせた。
国民全員が身につける電票。
決済端末や識別票、そして護符としての体裁を保ちながら、闇魔素を皇へと還流させる回路を仕込んだ。
地に闇魔素が溢れれば、耐性を持たぬ皇国民は死ぬ。吸うてやらねば国は滅ぶ。
人が神へ祈る。
神は安寧をもたらす。
それと同じだ。
皇は静かに目を伏せた。
その穏やかな顔には、狂気の兆しなど一切なかった。
そのとき、奥の間の端で駆け込んだのは、髙橋家の若い神官の1人が立ち上がった。
「陛下……申し上げたいことがございます!」
まだ青い顔つきだが、瞳だけは強い覚悟で燃えている。周りの老人達の制止を振り切り、若者は皇の御簾の前に平伏した。
「新型電票の調査を進めたところ……闇毒素と呼ぶべき異常な残滓が蓄積しているのを発見しました」
皇は視線をわずかに向ける。
「このままでは、民が……屍人化が、さらに広がってしまいます! これは——」
若き神官は跪いたまま、一歩踏み出す。
震える膝を押さえつけるように。
「これは……15年前に陛下の御負担を軽減するために作られた回路が原因なのでは……!民を守るためにも、急ぎ真実の——」
皇が軽く片手を上げた。
それだけで、空気が変わった。
音も、光も、温度も。
世界が皇の掌に吸い込まれたように、しんと静まる。
「調べなくてよいと言ったのに」
少女の声は感情を持たず、怒りを感じさせなかった。
神官はそのことに一抹の希望を見出したのか、唾を飛ばして主張した。
「ご安心なされませ! 修復は可能です! 回路さえ修復できれば、屍人の発生率も以前のように下がり、闇ワクチンなど要らぬのです! どうか……真実を……!」
「今さら真実など、誰が望むの?」
御簾を上げた皇はにっこりと笑った。
その笑顔は美しく、優しげで、だがどこか空洞のようだった。
呆然と見上げていた神官は、肩に違和感を覚えて視線を下げ、絶句した。
「ひ……っ……!? う、腕が……!?」
神官の袖口から腕だけがふっと消えていた。
皇は慈愛に満ちた笑みで神官を見下ろした。
彼女は腕だけではなく、苦痛も転移させていた。
苦痛の喘ぎは見ることすら厭わしい。
ーー神は優しくなくてはならぬものだしな。
次の瞬間、神官の脚の感覚が抜け落ちる。
視界が揺れ、彼は胴から床に臥した。
皇は歩み寄りながら、穏やかな声で語った。
「私はね、二千年の間……民の祈りと、土地の闇を糧に生きてきた」
若き神官を目の前に見つめる宗家は、音が出ないのが不思議なほど震えていた。
「だからこそ、この国は続いた。あなたたちが、祈りを捧げたから」
「……っ……ひ……公表……すべき……で……す……陛……」
虫のように四肢をもがれた神官は呼吸を荒げ、必死に言葉を絞り出す。
彼は己の職務と信念のため、最後の瞬間まで抗った。
「……ああ、立派だこと。でもね——」
皇が指をひとつ鳴らすと、神官の声が途切れた。
存在そのものが、音もなく消え、ただ衣だけが静かに床に落ちた。
その静寂の中、皇はふわりと座へ戻った。
髙橋家の宗家――白髪を結い上げた老神官は、膝を震わせながら、深く深く頭を垂れた。
「……陛下……我らは、いかに……」
「今まで通りでいい。祈りを捧げ、国を導く。それだけだよ」
皇の声は、優しい。
優しいのに、その深淵は触れてはならぬ闇そのものだった。
宗家は悟った。
この存在は、もはや人ではない。
神でもなく、ただ闇に成ったもの。
だが――
(それでも、我らは皇にすがるしかない……)
髙橋家の立場は、既に危機に瀕していた。
御三家の「祈り」を司る髙橋家だけが、時代の流れに取り残されつつあった。最も古く、最も気高いはずの一族が。
そんな中で、皇の存在だけが最後の切り札だったのだ。
(皇の御威光すら失えば……我らは滅ぶ)
たとえ皇が狂いつつあると分かっても、彼らは皇を切り捨てることができない。
皇を支え、皇に従い、皇と共に墜ちるしかない。
その絶望が、宗家の背をさらに丸くした。




