36. 約束
パッと腕の中の飛梅が消えたのを見て、きつく眼を閉じると麟五は紅い護芒星を光らせて兄に手を振り、空中へと浮かせた。
首元をおさえて備悟が苦痛に顔を歪める。
「グッ……麟、何を……」
「飛梅の母親まで確保したとは何の話だ? 俺をここに行かせたのは飛梅から眼を離させるためか。言え、他に誰が、何を知っている」
「……」
「言え」
「……ッ! 漏らすものか……其方の隊の者の不祥事は蓼丸の名に傷がつく……!」
「それは重畳。ならば幕府には予測通り隊員の1人が闇属性であったことのみを報告しろ。屍病に罹らなかった理由がわかってよかったな。それだけで褒められるだろう?」
「け、……被験体」
「ああっ!?」
浮かんでいた身体を今度は地面に叩きつけられ、備悟は潰されたカエルのように声にならない悲鳴を上げた。
「飛梅は特別消禍隊から出さん。俺が2度と目を離すと思うな。タイヨウのためにもハンナも隊預かりとする。研究開発をしたいなら隊内でやれ」
「……」
「返事は?」
「わかった……」
潰れている備悟の上で、ハンナが軽く手を挙げながら麟五に話しかける。
「リンゴ様、留学生として日勤はいたしますが預かりまでは結構ですよ。私と後続のツレはヨシワラに宿をお借りする予定なので」
そこへセミマルが「ねー!」と言いながら、揉み手で近付いてニコニコとハンナに笑いかけた。
「そうですよぉ。ハンナ先生様はウチに来るんだから。あ、そういえばハンナ先生。白濁☆駅先生が早く会いたいって言ってたってヨォ。出版の方に確認したらハンナ先生の“帆南堂”ってペンネームは被りなかったからそのまま使えるって」
「あら、では早速コラボなど……?」
「わかってるねぇ! ハンナ先生〜! 毎日銀座の寿司でも美男子の舟盛りでも何でも出すよ〜!! 出版のサルマルっての弟だから話通しとくし〜!」
「なるほど。昂ってまいりました」
「全然顔に出ないね〜!」
キャッキャと話す2人に少し顔を和らげた麟五だったが、両眼を鑑定印で光らせて備悟を見ていたメイの言葉で再び夜叉となった。
「今、備悟の頭の中を覗いてるんですけど……髪が短い……裸体のカグヤ様の書籍? 表紙の文字が私には読めないんですが…… その中にある上着で乳首だけ隠した若いカグヤ様が……あ、この服は先程トビウメ一士が着ていた服に似てますね。先程のポロリを見て、この軍服乳首隠しカグヤ様を連想したんですね。トビウメ一士のことは妾に召し上げれば何とかなる、って考えてますよこの人。ショートカット巨乳がド性癖みたいですね」
王妃を巻き込んだあまりの内容に、フォルクスとヴォルフガング翁はギシリと身体を固めてカグヤ妃から視線を逸らした。
当のカグヤ妃は愉快そうにセミマルと顔を見合わせている。
「『楽園』かえ?」
「『楽園』だな。懐かしいなぁ。コスプレページは髪が短いカットもあったな確かに」
ハンナが軽く目を見開いてセミマルに尋ねる。
「本当にあるんですか? そんな破廉恥本が?」
「あったのよぉ。15歳のカグヤちゃんが出したヌード本。花魁の店出し前のヌードグラビアは当時でも初めてで大騒ぎになったけどね。すぐに高尾太夫も小紫太夫も出したし、今じゃ普通だけど」
「わっちは芸術的に美しかったからの。破廉恥などではないわ。後世に残すべき文化遺産ぞ」
「それを何かの拍子に見た遊行中のバベル王がカグヤちゃんを口説きにきたからねぇ。国取物語の始まりになったヌードグラビアよ。まあ搾り取った精液で発電できれば……って江戸で言われてたからエロっちゃエロだけど」
肩をすくめたカグヤ妃が息子の乳兄弟のヒューを見る。
「わっちにとっては恥でもなんでもないが。ヒュー、カザンには……」
「あ、言わないっす。言えないっす。むしろ記憶消して欲しいっす」
ヒューを筆頭に、話が聞こえていたバベル王国人男性は気まずそうに視線を彷徨わせた。
「……妾、と言ったのか?」
麟五の思考が、一拍止まる。
思考は読めても、空気や感情は一切読まないメイは平坦な声で応えた。
「言った、というか考えた、ですね。『鏡盾』、読心ですよ。私当主代行なんで」
――妾。
その一語が、脊髄の奥に突き刺さる。
麟五の眼が静かに暗転した。
怒声もなく、咆哮もなく。
ただ、表情が消えた。
だが、周囲の空気が一段、重く沈んだ。
どこかふざけているように聞こえるメイの口調に、真意を探るように金色の眼で見られたハンナが頷く。
「――『読心』で見たならそうなんでしょうね。ミカドに王と滞在した現当主ならともかく、バベル王国から出たこともなければ、つい先日まで観月宮にも出入りしていなかった母が王妃の裸体本の存在を知ることは不可能です」
さすがに観月宮には置いてねえよ、というセミマルの言葉は尻切れに窄む。
跳ね上がった麟五の魔圧に耐えるように即座にカグヤ妃の前にヒューとセミマルが、ヴォルフガング陣営の前にメイとハンナが大きな防御壁を展開させた。
慌てて起き上がろうとした備悟は自分の左腕が根本から切断されていることに気づき、絶叫した。
ルイを除いて戦事に馴染まないヴォルフガング陣営にとっては永遠にも思えた5秒で、ゆっくりと備悟に近付いた麟五は左手で印を結び、2本の指で腕の上をなぞるような動きをした。
激痛が消失した事で、腕が何事もなかったかのように再びつけられたことを知った備悟は無表情で見下ろす弟に激怒した。
「リン、貴様何を……!」
だが起こそうとした身体は再び絶叫と共に血に沈んだ。再び5秒後に根本から切られた右脚が繋がれていく。脂汗と涙と泥で汚れた顔で、備悟は息を上げながら弟の顔を見た。
「飛梅に手を出すな。今後は目を合わせることも禁ずる。わかったら印を捺せ」
ガクガクと音が鳴りそうな勢いで備悟が頷いた。
下がった魔圧を察して防御陣が消され、精も魂も尽きた顔で備悟がノロノロと立ち上がった所で、タイヨウとトレーニングウェア姿の飛梅が少し離れた上空に転移してから集団の元に降り立った。
「戻りました〜! って、どうしたんですか!? お兄さん、洋服破れてますよ! あとその地面、血ですか!? 何事ですか!?」
斎服の左腕部分は肘にぶら下がり、右脚部分は手で押さえていたが根本から切れているのを見てタイヨウがオロオロと備悟に近づいていく。
「怪我ですか? 大丈夫ですか?」
麟五が一片の曇りもない爽やかな笑顔でタイヨウに微笑んだ。
「もう何も心配いらない。兄上が間違えて転んでしまわれてな。怪我は俺が治せたんだが、服はどうにもならなかったんだ」
ねぇ、兄上?と笑顔で首を傾げる麟五に備悟が呆然と頷いたのを見て、全てを見ていた者たちもぎこちない笑顔で一斉に頷いた。
「はー、リンゴ君、水系メインだもんね。そんなこともできるんだ」
すごいね、さすがだね!とクルクルと周囲を飛ぶタイヨウを見て、思わず飛梅が小さく吹き出した。
「飛梅」
自分を男だと思っていたはずの上司から、何を問われるでもなくただ優しく呼ばれ、飛梅は不思議そうに麟五の目を見た。
「ご配慮いただいたカグヤ様に礼を。バベル王国の王妃で、近いうちにミカドの後援のもと立ち上がる天道領の領主となられる方だ。タイヨウの義母様でもあられる」
土下座しようとした飛梅の額に器用に魔圧を丸めた空気弾を飛ばして、ニッとカグヤ妃は笑った。
「いらんえ。ここはバベルじゃ」
花が綻ぶように笑った飛梅は、たわわな胸元が再び抑えられていても、もう誰の目にも少年には見えなかった。
「ありがとうございました! 洋服だけじゃなくて、ホタルさんが色々お土産持たせてくださって……今度きちんとお礼しに伺わせてください!」
パンパンになった唐草模様の風呂敷を抱きしめて頬を染める飛梅にカグヤ妃は母の顔で微笑んだ。
「ああ……領が拓いたら、また来なんし」
やりとりをニコニコと見ていたタイヨウが太陽を背に中空に浮かび上がるなり「リンゴ君、トビちゃん、見て!」と呼びかけた。
素早く手印が結ばれていくとバチバチと音を立てるほどの勢いで魔法陣が浮かび上がった。
「すげぇ魔圧だな……」と手庇のフォルクスが言うのと「『逆転する運命の輪〈リバースエッジ〉』!」とタイヨウが叫ぶのは同時だった。
紫の光で出来た魔法陣が備悟の頭から足まで通過すると、チェックしたタイヨウがヨシ!と頷く。
「見て! メガネと洋服直ったよ! 闇属性もすごいでしょう」
備悟が驚愕して自分の衣服をパンパンと叩いて確認する。ほわぁ、と頬を染めて顔を輝かせた飛梅に目を細め、麟五がタイヨウに拍手した。
タイヨウは少しはにかんだ顔をした後、麟五とちょうど目の合う位置に飛んでいく。
そして、声に微かな魔圧をのせて、麟五に語りかけた。
「――すごいでしょう? でもね、僕を鍛えたハンナさんは、僕よりもっとすごい。もっといろんなことができる。僕の大切な人なんだよ」
「ああ」
「僕はハンナさんが傷つけられたら、いつだって、どこにいたって、わかるよ」
「ああ、聞いた。国宝級の防犯ブザーを持たせていると」
クッと喉を鳴らした麟五に少し口元を緩めたが、真剣な目でタイヨウは続けた。
「僕はリンゴ君とも戦いたくないし、トビちゃんも傷つけたくない。だから、ハンナさんを守って」
「ああ、約束する」
麟五はしっかりと頷いた。
その顔は自信に満ち溢れ、決意に満ちた眼差しをしていた。それは、その存在が常に周囲の者たちに力と希望を与えるであろうことが容易に伺えるものであった。
横で見ていた飛梅は、胸の奥に、ふ、と灯ったように感じた。
目の前の蓼丸教官は、怒りも、苦さも、迷いもすべて飲み込んだうえで立っている。誰かの代わりではなく、誰の影にも怯えず、ただ自分の意思で。
だから、彼は強いのだ。
(……こんな人が、隣にいてくれるんだ)
そう思った瞬間、涙ではなく、息が詰まりそうになった。
孤独も、不安も、恐れも、ずっと抱えていた。
兄に成り替わり、その命を取り返すという無謀な道のりのどこにも「隣に立てる誰か」なんていなかった。
けれど、今は違う。
蓼丸教官は、横に立っていた。
飛梅が前を向けば、同じ方向を見ている人がいた。
(……なら、どこへだって行ける)
今はもう、薄暗い地下牢の石壁も、孤独で軋む夜も、すべて遠くに感じられる。
麟五の横顔を見つめる視線は、知らぬ間に、やわらかくほどけていた。




