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大江戸オブ・ザ・デッド〜魔法全盛の江戸で、弓しか取り柄がない私ですが兄を探してます〜  作者: 森戸ハッカ
第三章:風の段『風は動なり。鎖を持たぬ』

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32. 波のゆくさき


 ヴォルフガング翁が「それにしても、魔獣とは斯様にクサイものじゃったのか……」と唸った。


 麟五はその声に軽く目をやった。


 全身を呪符に覆われた老人の嗅覚がそこまで働くことに、少なからず驚く。


 たしかに、臭気は凄まじい。腐敗した肉と汗の煮詰まったような、獣の生臭さに煤の焦げた匂いが混じる。ミカド皇国の屍人よりもなお荒々しい、“生”の臭いだ。


 絶世の美少女であるタイヨウが「道端に咲いていた可愛いお花を摘んできました」というかのような軽やかさで、淡く頬を染めて連れ戻ったのは、巨大な灰色の竜だった。


 ワイバーン。


 高い耐火性と厚い革を持ち、一頭仕留めれば一財産だという。


 荒野の王にふさわしい巨影が、気を失ったまま大きな翼を震わせた。それだけで空を裂く音に、麟五の胸が高鳴る。


 ――竜か!


 ミカドでは、もはや伝説の存在だ。


 母国でも海には大きな魔獣が出るが、陸でこのサイズはない。これほどならば、自分で狩りに行きたかった。


 思わず、唇の端が上がった。


 それを見たタイヨウが胸を張る。


「ゴーンおじ様が火をボールにして急所に当てて気絶させたんですよう!」


 その無邪気な顔に、蓼丸は思わず目を見張る。戦場を遊び場と捉えられること。それは、恐怖を知らぬ強さでもあり、束縛のない育ちゆえの無垢でもある。


 特別消化隊では、いや、ミカドでは決して見られぬ顔だ。


(……こういう国も、あるのか)


 清々しい風が胸のうちに吹き込んでくるようだった。


 応じよう、と腹が決まった。


 四元魔力を自在に操る姿を見たいという異国人に応えるのであれば、蓼丸の麒麟児と呼ばれる自分以外いない。


 麟五は生まれて初めて、義務や責任からではなく、純粋な誠意から魔力を跳ね上げた。


 タイヨウの近くに侍るメイドのハンナが、こちらを見て驚愕しているのがわかった。


 その理由を、麟五自身がよく知っていた。


 彼の体内で、四つの巨大な魔力が同時に動いていたのだ。


 それは、蓼丸の麒麟児のみに許された至高の領域。


 水・火・風・土。


 それぞれの系統が呼吸のようにうねり、互いを干渉しながら均衡を保つ。


 己の肉体の奥で、まるで別々の魂が囁き合うような感覚。


 慣れていなければ、気が狂う。

 だが彼は、その渦を楽しんでいた。


 鑑定するハンナの怯えた気配を悟り、麟五はメイ・アボットを視界の端に探した。


 メイの顔を窺えば、涎を垂らしそうなほど恍惚とした表情。発情した犬のような有様に、蓼丸は思わず視線を逸らした。


 タイヨウが口を開く。


「ーーやろうか、リンゴ君」


 麟五は答えなかった。


 だが、ふわりと風が吹き、紺の髪が舞い上がる。


 左手を上げると、ワイバーンの獣臭がたちまち霧散した。


 荒野の空気が雪がれたのを確認し、右手の指先を観月宮無量庵へ繋ぐ門に向ける。


 “音”があった。


 誰にも聞こえぬほど細いが、確かに「風の音」がした。


 クロモジの香りを孕んだ清浄な風が、バベルの荒野を抜ける。


「……風、1万」ハンナが呟いた。


 蓼丸は手を合わせ、親指を絡めて開く。


 瞬間、蒼火がワイバーンを包み、荒野を青白く照らした。一分後、そこにあったのは黒炭の山のみ。


「火、カルマ相当、6万」


 メイが涎を拭いながら口角を上げた。


 まだ炎は残っていた。


 蓼丸が右手を下ろすと、天から水球がゆっくりと降りて火を飲み込む。


 次いで、地響き。赤土の巨腕が水球を包み、砂に還した。


 残ったのは、荒野の赤と風の音だけだった。何事も起きなかったかのような平静が、そこに慄然と存在していた。


「……水、1万。次いで土、カルマ相当、3万」


 鑑定を終えたハンナが母との連携を解く気配がした。


 メイは頬を紅潮させ、なお息を荒くしている。バベル王国の鑑定士にはたまらないショーだったようだ。


 そのだらしなさを見て、麟五はたちまち冷静さを取り戻す。


 魔界の荒野の沈黙を破ったのは、若い男の嗚咽だった。


 ルイだ。


 2メートル以上の巨体を震わせ、青年は涙と鼻水を堪えきれずにいた。


 憧れ。羨望。賛美。


 その薄い茶色の目に宿るものを、蓼丸は懐かしさに似た感情で見つめた。


 かつて自分も、師の背に同じ目を向けたことがある。蓼丸の麒麟児と言えど、生まれながらに魔力を扱えたわけではない。蓼丸家御用人一族佐々木家に預けられていたとき、彼等に手解きを仕込まれた。


 あの頃は、ただ一心に自身の成長を目指していた。能力に恵まれたことを喜び、満足に扱えぬ悔しさに地団駄を踏んでいた幼少期。


 当時を思い起こさせるルイの姿は、正直に言えばとても好ましかった。

 

「おいおい、使いやがったぞ全属性」ゴーンが笑う。

「……ああ、やりやがったな」とフォルクスが応じた。


 二人の笑いの裏にあったのは、戦士としての純粋な敬意だ。


 カザンもヒューも口を閉ざしていたが、眼差しは同じ。


 皆、わかっている。


 常識の外にいる男を前に、言葉は無力だ。


 その空気を破ったのは、ルイだった。

 土煙を上げて近寄り、麟五の足元に縋りついた。


「それは、俺もできますか……っ?」


 片眉を上げ、静かに見下ろす。膝を折って土下座する金髪の若者の姿に、ひととき言葉を失った。


「リンゴ君! お願いします! 俺にも教えてください!!」


 麟五は戸惑った。


 四元魔力をいずれも特級で使いこなせるのは己のみだとわかってはいるが、ルイの周囲にもミカド皇国でも見かけないレベルの能力者が集まっている。


「タイヨウの父……フォルクスと言ったか? そいつに聞けばいいじゃないか。使い手としては相当だろう」


 当のフォルクスは、魔法少女に指名されたかのように飛び上がった。


「俺!? バベル人だけど!?」


 そんな父を見上げてタイヨウがちょこんと袖を引っ張る。


「僕もバベル人ですが、最近“模倣”が出来ることがわかったんです。他の属性の力が使える技で……水属性の方しか扱えない楽器が使えたんですよ〜」

「そんなこと、ママが言ってたなあ。だがそれはタイヨウちゃんが天才なビューティフル天使だからだろう?」

「いいえ、違います〜」

「なっ!?」


 溺愛しているらしい愛娘の否定にフォルクスがのけぞる。くだらない親子のやり取りを、麟五は微笑ましく見ていた。


 家の序列や階級の秩序とは無縁の、温かなやり取りだ。


 タイヨウはアメジスト色の瞳をきらめかせながら言った。


「リンゴ君……父様の身体強化は水。魔力を瞬時に沸騰させるように引き上げるのは火の力なんじゃない? つまり……ここにいるバベル特級メンバーは既に他属性を使えている。ーーそうだね?」


 麟五は静かに頷いた。


 先程、フォルクスには猫の子のように首根を掴まれた。


 瞬間的に麟五の水属性身体強化を上回ったということだ。特別消禍隊の人間では指一本かけられぬ、蓼丸麟五の能力を。


 久方ない事態を起こしたバベル人達が、ようやく自分たちの能力に気づいたということに安堵する。


 メイが拍手をしながら頷いた。


「エクセレント!!! タイヨウお嬢様、鑑定眼なく、よくぞそこまで!」

「えへへ、大筋合ってますかね?」

「ええ、おそらくは。検証が必要ですわね。ということで、ボス。今年度聖誕祭が終わったら私、騎士団やめます」


 あまりに突然な言葉に、周囲は一瞬で凍りついた。


「はぁっ!?」カザンが目を剥き、ヒューが叫ぶ。「本気!?」


「本気に決まってるでしょう。こんな面白……重要な発見。闇属性で鑑定スキルの高い人間による検証が必要ですもの。シュリ姫が即位されるまで5年、大学で研究したいのです」


 メイの声は冗談の色も、恐れもなかった。


 “研究したい”――その一言に、蓼丸は無意識に心を揺らした。


 ミカドでは、研究とは“任”だ。己の意思よりも、上の命が先にある。


 だがこの女は、己の意思を最上に据えた。


「はぁ!? 大学!? 今更!? あんたいくつよ!?」


 ハンナがメイとよく似た顔を歪め、声を荒げる。氷のように無表情であった彼女の眉が上がっていた。その顔には焦燥と嫉妬がかすかに浮かんでいた。


 メイは、ふっと微笑んだ。


「45歳よ。だから何?」


 凛と背筋を伸ばす姿に、場の空気が一変する。


「母よ、軍の諜報部トップよ、アボット家よ。だから何? この国において、私が最も研究を進められるということに、何の影響があるの?」


 強く、静かで、美しい声。

 それは、命令でもなく、祈りでもなかった。


 ただ自分の人生をまっすぐに見据える者の声だった。


「何歳だろうと、どんな立場だろうと、やれるならやるのよ。やりたいならやるの。それが未開の地を切り拓いてきたバベル人でしょう」


 その瞬間、蓼丸は息を呑んだ。


 自分に言われている。

 そう感じた。


 この言葉の前では、ミカド皇国のあらゆる階級も、礼法も、意味をなさない。


 彼女は“生きること”を、自分で決めている。そう生きよ、と母のように教えてくれている。


 フォルクス、ゴーン、カザン、ヒュー。

 歴戦の男たちまでもが、打たれたように背を正した。


 メイは娘を見つめ、静かに続けた。


「常に考えなさい、ハンナ。自分をどうしたら幸福にできるのかを。家とか、領とか、女とか、母だとか。そんな言葉で止めてくる人間は、誰も私の幸福に責任を持ってくれないのよ。あなたも自分の幸福は自分で掴みたいから家を出たのでしょう?」


 その言葉に、タイヨウも目を細めていた。 


 誰かのためではなく、自分のために生きる。それが、ここでの教えだった。


(……やりたいなら、やる)


 メイの言葉が、麟五の胸に残響のように刺さる。


 ミカドの常識で育った彼には、あまりに荒々しく、あまりに眩しい思想だった。


「皆様も、文句があるなら私を倒してからお願いします。アボット家は王の盾。殺傷能力こそ低いですが、殺すのはなかなか厄介だと思いますよ?」


 メイが両手を上げる。亀の甲羅のような紫光の結界が生まれ、澄んだ金属音が響く。


 感知できない魔圧に麟五の身体が反応し、魔力が昂ぶった。


 その重圧を打ち払うように、ゴーンが笑いながら尋ねてきた。神保ガンズが目覚めたら、さぞ気が合いそうなゴリラ系だ。


「ーーなあ、タデマル。俺も、飛べるようになるか?」


「飛ぶ?」


 麟五は筋肉の塊を見上げた。


 紅の瞳を輝かせたゴーン・ビートニクは、少年のように笑っている。


「俺は火系だ。強えし気に入ってはいるが、飛べねぇ。だが、周りの強え奴らはみんな飛べた。それが……だから……俺は、空飛びてぇ!」


 44歳の戦士は胸を張った。


「わかるだろ?」と同じ火属性のカザンを見たが、彼は軽く肩をすくめた。


「他属性を使うということは、恐らくチカラを分散させるんだろう? それならば俺は興味がないな。飛ぶならヒューがいる」


 それに応えたのは、十指の爪に火を灯したカグヤ妃だった。


「火は、単体の能力だけでなく魔力を底上げすることに長けている。薪をくべるように……火は強い能力じゃ。だが分化は難しいと言われているな。わっちは飛べん」


「そうか……」ミカド皇国出身者の言葉にゴーンは項垂れた。


(ーーそれは違う)


 武道の鍛錬を受けていない吉原の人間では無理もないが、優れた軍人であるゴーンが落ち込む必要などないと即座に麟五は考えた。


「安心しろ。この女狐は……」

「リンゴ君!!!」


 言いかけた麟五を口の前にバツを作ったタイヨウが咎める。


 吉原の平民を下に見るのは、自身の悪い癖になっていたようだ。潔く謝ってから麟五は続けた。


「ああ、すまねぇ。カグヤ殿が飛べねぇのは若さの維持に振り切ってるからだろ」

「若さ……身体強化の一種なのか? つまり水?」


 機嫌がいいゴリラのような見た目とは裏腹に、研究肌な一面を持つゴーンが思案の海に潜っていく。


「そうだな。水は従属性を操る全ての基本になる。飛ぶということに焦点を当てるのであれば、其方の主属性が火ならば、ミカドではまず水を扱う感覚を身につける。その次に……」

「風か!」


 感心したように頷くゴーンに「わっちの主属性は火じゃが、そもそも従属性は水までしか育ててないからの」と、カグヤ妃がきゃらきゃらと笑う。


「おそらく……仮に媒体という言い方をしますが、両国は他属性を操るための媒体が異なるかと思います」 


 ギラギラと眼鏡を光らせたメイが言うと、タイヨウも頷いた。


 麟五も軽く頷く。

 魔力は川であり、水系が基本であるとするミカド皇国の考え方とも合致する。


「たぶんですけど、ミカドは“水”の魔力が多い土地なんじゃないですか? バベルは“闇”の魔力が強い。ここでは闇を媒体にしていて……だから闇系の僕が……」


 できる、できる、と強く意識して、タイヨウは右手をひろげた。


「ーーこうして、他属性を使えるのだと思います」


 闇属性能力者であるはずの彼女の掌の上に小さな水球ができたのを見て、バベル一同が微かにどよめいた。


 イメージの力に左右される魔力操作は、“一属性しか使えない”という思い込みに弱く、バベル人はその後しばらく苦しめられることになる。


 一方、フォルクスとゴーンというコンビの強火担で、彼らのヤンキー漫画風血風譚をこよなく愛読し、他属性の能力に馴染みのあったルイはこの後に飛躍的な成長を遂げることになった。この時点では主属性の扱いすらままならなかったにも関わらず、だ。


 後にハンナは、バベル陣営でタイヨウが他属性を誰よりも早く使いこなし、ルイが成長したのもミカド皇国の漫画文化の影響によるものと分析した。


 特に少年漫画の影響が好ましい影響を与える、と自論を唱え、後年になって母の研究を引き継いだ彼女の理論はミカドの人気漫画誌“少年飛翔”になぞらえて『ジャンプエフェクト』と名付けられることになる。


 そんな未来は露知らず、ハンナは目を眇めた。


「タイヨウ様のおっしゃる通り、水系魔力の奥に、闇系がありますね」


 おお、と今度はバベル人だけでなく、ミカド人も驚きの声を上げた。そこへウォッホン!と芝居がかった咳で割り込んだのはヴォルフガング翁だ。


「盛り上がっているところすまんが、ワシはそろそろ帰らせて頂くぞ。この呪符が痒くて敵わんしな」


 そこで「タデマル殿」と、声音だけはやさしく話しかけてきた。


「先ほどお伝えしたように、約定の5億バベリウムのうち1億は明日のお帰りの時刻までにお渡ししよう。残価に関しては明日までに考えさせてくだされ」

「承知しました」


 麟五は凛とした金色の瞳で静かに頷いた。


「この件に関しては儂からビンゴ・タデマル殿に交渉させていただいてよろしいか?」

「かたじけない。御老公にそうしてもらえると正直助かります。私も戻れば本業がありますので」


 ホッとした麟五が態度を和らげると、ふわりと空気までそれに応じたようだった。


 そこへ出立まで稽古を組み込んだスケジューリングを調整しようと脳筋組のゴーンとルイが足を踏み出した瞬間、爆弾を投入したのは鉄仮面フェイスのハンナだった。


「ーーヴォルフガング様、担保として私を5年間ミカド皇国に留学させるのはいかがでございましょう」


 よほどの衝撃だったのか、タイヨウが血の気の失った顔で目を見開く。


「私は半年後に特級の確定診断を受けるべく調整している身。すでに闇属性特級相当の能力は保持しております。そして現時点では未成年であり、ミカド皇国のご要望に粗方合っているかと思います」


 ハンナは申告通り、闇属性特級能力者なのだろうか?


 どうなんだ、というようにメイを麟五が伺った。


 するとメイは静かな声で応えた。


「ーー闇属性一万五千。当国規定では特級に値します。日に出力1万というご要望は難しいですが、成長過程であることを考えれば誤差の範囲かと。また娘は19歳であり、同じく当国規定では未成年です」


 ふむ、と興味を惹かれたように麟五はハンナの前に音もなく移動し、自身より少しだけ背の高い亜麻色の瞳を捉えた。


「5年、というのは?」


 ミカド皇国の要求は50年であったはずだ。


 即金として1億もの闇系エネルギーを持ち帰ることができるため多少の変更は問題ないかと思うが、1/10の期間減少の根拠はあるのかと不思議に思った。


 生涯脇役と骨の髄まで刻まれたメイドのハンナは、ここまで注目を集めたことがなく、かつてないほどに緊張していたが、瞳は曇っていなかった。


「近々、魔力値100万相当の闇属性未成年者をミカドにお連れします。私とその者の献身をもって時間の短縮を交渉させてくださいませ」


 周囲がざわめく。


 100万――その数字に、麟五は目を細めた。


 それは自らの限界値と同等。


 それほどの存在を連れてくるという。

 

 虚言ではないと示すように、ハンナの瞳には、覚悟があった。


「100万って、貴方それ、絶好調のボスと同等よ? そんな魔力を見逃すわけ……」


 メイが呆れ半分に言いかけて、ふと口を閉ざした。タイヨウと娘の顔を見比べて、何かを悟ったらしい。


 静寂の中で、蓼丸は奇妙な感覚に包まれていた。


 この国の人間は、随分と容易く未来を賭けるようだ。


 身分も、血統も、恐れも捨てて、ただ自分の意志を差し出す。それが彼らの交渉らしい。


「そう、本当にいるってわけね。で、今、それはどこにいるの?」


 メイの質問に、麟五の瞳を見つめながらハンナは断言した。


「ーー日本、という場所におりますよ」


 その言葉に、麟五の全身が微かに強張った。


 カグヤ妃も、セミマルも同時に反応している。


 ーー日本。


 ミカド皇国の神、日本人の住まう国。

 バベル王国にいるのは何やら事情はあるようだが、タイヨウの生まれた場所である。


 その名が異国の娘の口から放たれたことに、カグヤ妃達も明らかに動揺していた。


 胸の奥で、何かが疼いた。


「ーーそれが誠なら通らぬ訳などないが、証左はあるか?」


 自分でも驚くほど、声が静かだった。


 ハンナは「そうですねぇ」と顎に指を当て、思案の仕草。


 そして、懐から一冊の本を取り出す。やたらとピンクと肌色が多い表紙だった。


「私、彼を通じて、3年ほど前からニッポンでBL作家としてデビューしておりまして。こちら半年前に上梓した拙著『ばかになっちゃう!〜エルフ王子の秘蜜レッスン〜』でございますが……」


「「「なんて?」」」


 麟五は、初めて戦場以外で言葉を失った。


 しかし、彼女が通行証のように掲げる書籍には、確かにミカド皇国語ーー日本語でタイトルが記されているようだ。


 頬を染める半裸の男の姿に目が行き、またやたらと文字が装飾されているため読みにくいことこの上ないが。


 ミカド皇国内のメディアを牛耳るヨシワラグループの血が騒いだのか、恐ろしいスピードで白手袋をつけたセミマルが本を受け取り、裏表紙と奥付を確認し、叫んだ。


「カグヤちゃん、これホンモノだ。『書籍JANコード』と『奥付』がガチだ!」


 その瞬間、カグヤ妃が紅唇を吊り上げる。


「蓼丸の、そして猿。タイヨウが侍女、ハンナの口上はバベル王国第二妃カグヤの名において保証しよう。ミカド皇国では吉原にて最賓客として5年間お迎えするから案ずるな」

「は? 勝手にそんな……」


 麟五は止めようとしたが、カグヤ妃は聞く耳を持たない。ミカド皇国では許されぬ奔放なふるまいだが、この国では、言葉より速く行動が決まるらしい。


 事態が飲み込めていないのはタイヨウも同じだったようで、その顔はハンナが書いたBL本のページより白くなっていた。


 唖然とする麟五の前では、すりすりとBL本を撫でるセミマルが、ハンナに恵比寿顔で最重要国家機密を漏洩していた。


「ウチの里で出版社持っててさあ。この手のレーベルもあるってわけよ。吉原書房、薔薇文庫! 3年前に御降臨された神絵師もウチにいるんだよ。知ってるかい? 白濁⭐︎駅先生」

「え。『おげれつ⭐︎サークル〜新歓コンパは汁だくで〜』通称おげサーの?」

「おっ! 話が早いねえ、おげサー新刊ウチから出てるよぉ」


 ふざけたペンネームは、玄蕃白のことだろう。おげサーの珠玉のプレイシーンの話で盛り上がりはじめるハンナの腕を、涙ぐんだタイヨウが揺さぶった。


「ちょ、ハンナさん!? 勝手にそんな約束して! “あの人”に確認もしないでいいんですか!?」


 その言葉に瞑目し、すぅぅぅぅぅっと息を吸い込んだ後、ハンナは主人に対して聖女のように微笑んだ。


「タイヨウ様。勝手をお許しください」


 タイヨウは、呆然と呟いた。


「ーーおげサーの新刊、読みたいんですね……」


 2人の間に荒野の風が吹いた。


 ミカドの宮廷ではあり得ぬ軽やかさに、麟五は眩暈すら覚えた。


 ここでは誰も、誰かの許可を待っていない。


 兄に言われて異国に出向いた自分が、何も出来ない子供のように感じられた。


 そんな空気を読まず「じいちゃん!! じいちゃんからも頼んでよ!! リンゴ君の特訓!」と駄々をこねる末孫ルイの熱望を受け、麟五の帰還は翌朝ではなく翌日の正午にずらされた。


 予定を変えることなど、皇国では有り得ない。


 だがもはや、今はなぜかそれが心地よかった。


 さらに特訓の過程で大鉱山の採掘をおこなえないか?とヴォルフガング翁がすまなそうに尋ねた。


 どうやら深刻な悩みがあるらしい。


 カグヤ妃が富籤を祭の催事で行うように、タイヨウの家でも何やら手がけるらしいが、それに土系特級能力が必要なのだという。


 土系が主属性のルイは破格の魔力量を持つものの、満足に扱えないそうだ。本番まで時間がなく、相当困っているとヴォルフガング翁はため息をついた。


(手伝うのは別にいいんだがーー……)


 彼らが臨む聖誕祭というイベントは、盆暮正月が一気に押し寄せるようなバベル王国最大の祭りだというが、些か計画性の無さすぎるのではないだろうか?


 学生の文化祭でも、もう少しまともな進行をすると思う。


 この日何度目かの驚愕が、麟五を襲った。これが自由というものなのか。


「簡単に言えば、でかくて硬い岩山を掘って運ぶんじゃが……ワシには能力のことはわからん。ルイの土系では穿孔・発破・積込・運搬のどこまで出来るんじゃ?」と誰にともなくヴォルフガング翁が尋ねると、麟五が腕を組んでルイを見上げる。


「全部できるだろ。土を動かしゃいいんだ」

「できないっす!」

「は? その魔力量で?」

「砂も動かないっす!」


 唖然とする麟五が答えを探すように周囲を見た。やれやれ、と紫煙を吐きながらカグヤ妃が辛辣に答える。


「そこな小童はカルマ……“鬼道”が使えぬ。山を崩すことはできても、狙いを定められん。操作できない巨大な力なぞ災害じゃ」


 屈辱に唇を噛むルイの肩を、麟五は拳で軽く叩いた。


 そんな経験はないが、志のある友が

不当に傷つけられているという思いがなぜか湧く。


「ルイ、てめぇ幾つだ」

「はい! 17っす!」


 2メートル超の長身を包む立派な隊服と金髪リーゼントでわかりにくかったが、やはり若かった。しかも自分と同い年とは。


 縁めいたものを感じて、麟五は少しだけ口角を上げた。


「ガキが出来ねぇのはあたりめぇだ。ガキ1人育てられねぇ周りが災害だろ。気にすんな」


 口調は荒いが、その眼差しは柔らかかった。  


 ミカドでは決して許されぬ情の言葉だったが、ルイが眼をたちまち赤くする。


 それに目を細めた麟五は、ヴォルフガング翁に向き直った。


 「ーー御老公、穿孔と発破というのは、要するに岩を切り出して砕けば事足りますか」

「要するに、そういうことじゃな。5万トン分な」

「量はそちらで測っていただけますか?」

「もちろんじゃ。岩山に空いとる穴に落としてくれればベルトコンベアに乗って麓の工場まで降ろせるからの。当然カウントもできよう」


 ヴォルフガング翁が呪布の奥で微笑みながら返事をする。積込・運搬過程も組み込み、さらに必要量を大分上乗せするあたりは御愛嬌だ。


「承知しました。兄との商談はお任せします。待機しているかと思いますので」


 きっちり30度の礼をして、蓼丸がルイの肩を叩く。


「行くぞ、ルイ」

「へ? 行くってどこへ」


 顎で示す先には、観月宮無量庵に繋がる扉。


「特訓だ」


 ニヤリと笑って歩き出した麟五の裾を、涼やかな風が揺らした。


 ルイが慌てて追いかけ、何やら楽しそうにカグヤ妃とセミマルもついていく。


 赤茶けた荒野に、砂塵が舞った。


 ヴォルフガング翁の小さな声が、風に紛れて聞こえた。


「誰か、ワシの車椅子を押してくれんか……? 家に帰りたいんじゃが……」


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