30. 馬と鹿
「五億バベリウム……!?」
ヴォルフガング翁の息が鋭く詰まる音が、空気を裂いた。
老練の商人があからさまに動揺を見せたことに、麟五は眉を僅かに動かす。
その反応を見て、カグヤ妃がすぐに口を開いた。
「猿、どうえ? 五億ゴールド分の対価、とミカドには伝えてある。添わねば蹴るがよい」
彼女の声音には焦りがあった。
王妃となり数字に鈍くとも、稀代の花魁は人の心の揺れには敏感だった。
妃の囁きに、翁の胸が痛んでいるのが見て取れた。
「カグヤ様、しかしそれでは……」
声を震わせる翁を、麟五は静かに見つめた。彼の脳裏に先ほどの観月宮の従者ーーセミマルの慟哭がよぎっているのがわかる。
この場にいる者たちは皆、今のやり取りが単なる商取引ではないと理解していた。
翁が算盤を弾く仕草を見せる。
その指の速さと沈黙の長さから、麟五は彼がいま、金ではないものを秤にかけていることを悟った。
バベルジャンボ富籤がなければ観月宮の独立も危ういのだろう。
セミマルが青ざめた顔で震えながら天道領と記された幕を握り締め、ヴォルフガング翁を見つめていた。
単に領地の取り合いではなく、これは観月宮の人々の救済を左右する取引のようだった。
しばらく経ち、カグヤ妃が紅唇を微かに歪め、静かに息を吐いた。
「……よい。束の間夢を見せてくれただけでも儲け物よ」
その諦観の響きに、麟五の胸の奥がわずかに疼いた。
彼女は敗北を知る女の目をしていた。
カグヤ妃の敗北宣言に凍りついた場を和ませようとするように、セミマルが鼻を啜って掠れ声を上げた。
「カグヤちゃん、このマークと天道の名だけ、もらって帰っていいかなあ? 記念によぉ……ホタルに見せてやりてぇんだ」
ホタルとは家族の名だろうか。
観月宮の者達は、第一妃との政変に敗れ、城から出られぬ長い年月を過ごしてきたという兄の言葉が脳裏をよぎる。
仄白く血の抜けるほど強い力で幕を握る姿を、麟五は横目に捉えていた。
その視線を、ヴォルフガング翁は見逃さなかった。
そして、次の瞬間、翁がカッと目を見開いた。
「――原価としてはハマらないわけではない。だが問題は量だ。即座の用意はできん。せめて三ヵ年の分割支払いができれば……」
「否。御老公には申し訳ないが、分割は承れない」
意識をヴォルフガング翁に戻した麟五の声は冷たくも揺らぎがなかった。
迷いを見せぬその即答に、翁が怪訝な表情を見せる。
彼が察した通り――即金でなければならぬ理由が、ミカドにはあった。
国内で急速に増大する屍人ーー闇の病。
長年の苦しみに楔を打つ、闇属性能力者の抗体。
国を救うためには、引くわけにはいかない。
だがそれを、この場で語るつもりはない。
麟五の思考の先を読むように、ヴォルフガング翁は表情の読めぬ瞳のまま、ただ告げた。
「今はお譲りできて他国への譲渡上限の一億バベリウム。それ以上は国内のインフラに響く量じゃ」
その瞬間、タイヨウが素っ頓狂な声を上げる。
「インフラに闇属性の力を使ってるんですか!?」
彼女の父であるフォルクスがその問いにぼそりと呟き、ヒューやゴーンが応じていた。
冗談めかしたやり取りに、一瞬場の緊張が緩む。
だが麟五はその隙を逃さず口を開いた。隅で震えるセミマルを視界に入れぬようにしながら。
「ならば、闇系特級能力者を派遣なされませ」
声は穏やかだが、命令のように響く。
若き使者はヴォルフガング翁に視線を向け、続けた。
「貴国の能力者区分は我が国と同じ。日の出力一万以上の技術者の協力を求む。待遇は保証する。士分として遇するつもりだ」
だがその要望に、騎士団副長であるというヒューが即座に反発した。
「いや、そっちの条件もダメでしょ。そもそもウチでは特級は国外に移動できないんだけど?」
自分と対等に向き合うアイスブルーの瞳に、麟五は素直に好感を持った。
蓼丸の麒麟児として生まれ、下々からの直視も許さぬ立場で育った彼にとって、ただ優秀な同年輩の能力者として扱われて敬語も使われないというのは新鮮な体験だった。
「ああ、それは観月宮から聞いている。こやつらがミカドに行けるように特級認定を受けぬようにしているとな」
静かな口調のまま、麟五はわずかに笑った。相手の怒気を正面から受け止めつつも、退かない。
「……だが、それは成人に限るのだろう?」
空気が凍った。
麟五の瞳を見返す彼らの中で、怒気が跳ね上がるのを肌で感じる。
言葉にせずとも、全員が理解していた。
ミカド皇国からの使者の言葉が誰を指しているのかを。
特級能力者が数人かけて開く国交門を、単独で開いてみせた未成年の闇属性能力者のタイヨウが目を瞬かせた。
「あ……え? もしかして僕です?」
タイヨウが自分を指差した瞬間、怒声が飛んだ。
カザンとフォルクスが同時に立ち上がる。
「50年だと? 馬鹿馬鹿しい。許すわけがないだろう?」とカザンが言えば、「ウチの娘は我が家の宝、5日と言われても手放す気はないぞ」とフォルクスが青筋を立てる。
彼らからの激しい魔圧に晒されながらも、麟五は表情を崩さなかった。
「ならば御破産だ」
指を鳴らすと、富籤の塔が五つ、光に包まれて空間に開いた転移穴に吸い込まれていく。
セミマルの顔が幼子のように歪むのを見て、麟五の胸に微かな痛みが走った。
それでも引けなかった。
飛梅だけのためであれば、彼は迷わず左眼の護芒星をくり抜き、このような交渉はせずに1人で彼女を助けただろう。
そうしない理由が、特別消禍隊に属する者として、魂の奥に刻まれていた。
麟五は正しく理解をしていた。
飛梅という人質は、自分を動かすための駒でしかないこと。
兄は元より御三家の嫡男であり、権力も金もミカド皇国の頂点に立つ男だ。功名など然程求めてはいない。
その真意は異なる。
――これは、ミカドの民を救うための取引だ。
その理屈が、高能力者が集う異国の地で折衝を行う彼の心を支えていた。
セミマルという異国に流れ着いた自国民の慚愧の涙を、必死に見ぬようにした。
だが、ヴォルフガング翁は老練だった。
魔力は低いながらも、その才気で貴族の頂点にのし上がった天才ビジネスマンの彼が、麟五の一瞬の逡巡を逃すはずがなかった。
翁の瞳が細まり、微笑が浮かぶ。
そして次の言葉が放たれた。
「……ああ、創薬ですかな?」
麟五は息を呑んだ。
屍人も、屍病も、他国に知らせてはいない。最近の屍病の激化も、観月宮の者達にすら知らされていないはずなのに。
いつの間にか首の根を抑えられたような初めての恐怖に、心の奥にまで冷たいものが走る。
「闇エネルギーを利用した薬が必要でいらっしゃるのかな。民草のために」
――見抜かれた。
麟五の沈黙を、翁は笑みで肯定に変えた。以降の展開は、もはや翁の掌の上だった。
「リンゴ君、なんだ!? 何言われた?」
騒ぎ出した穴の向こう側の者たちに被せるようにヴォルフガング翁が「ふぅむ、なるほど。国難の危機となるほどの魔障、ということですかのぉ?」と小声で重ねる。
麟五は二の腕が粟立つのを止められなかった。
勘働きに優れ商機を掴み続けて貴族の頂点に立った翁がこの隙を逃すはずがなかった。
ヴォルフガング翁は、名家蓼丸家の中で歴代最も魔力が豊富な麒麟児、麟五の噂は聞いていた。
だが武人としては超一流だとしても、ビジネスにおいては赤子に等しい。単身なら落とせると確信したヴォルフガング翁が好好爺然とした口調で語りかける。
「フォッフォッ。のう、アボットの娘。そろそろ15分経つのではないか? タイヨウ殿がお疲れのようじゃ」
タイヨウの背後に控えたメイドがその言葉にわざとらしく懐中時計を取り出して頷く。
「タイヨウ様、穴を閉じる時間です」「えっ? まだ平気ですけど……?」
右手をムニムニと動かすタイヨウに「ン゛ン゛ッ!!」っとハンナが怒気を孕んだ咳払いをぶつける。
そこから気を逸らすように、唄うような心地の良いリズムでヴォルフガング翁が蓼丸に畳み掛けた。
「タデマル殿。闇系1億バベリウムは即座に渡しましょう。残りの請求も一年後には必ずお届けしよう。貴方は明日まで帰れぬ身。お話しする時間はたんとある。ともに落とし所を見つけようじゃありませんか」
ヴォルフガング翁はそこで言葉を切り、はらはらと涙を流した。
「ビジネスに情など要らぬというのは二流の考え……」
麟五が目を丸くした。
そこは、まさにヴォルフガング劇場のクライマックスであった。
「爺は、爺は、ミカド皇国をお助けしたいだけですのじゃ……!」
イヨォッ!!と、セミマルが威勢のいい合いの手を入れ、チョンチョンと拍子木を打った。荒涼たる大地の砂埃が、もはや桜吹雪にしか見えなかった。
バベル王国人の言葉がわからぬはずの穴の向こうの面布衆も息を呑んでいた。
老商人の芝居がかった涙と嘆願、そして巧みな譲歩。
麟五はそれを理解しながらも、拒む術を持たなかった。
創薬のことなどわからぬが、今ゼロだったものが1億手に入れば落とし所としては良いのではないか。先程、翁は1億は他国への輸出上限と言っていた。ミカド皇国だけが軽んじられているわけでもないと頭の硬い幕府連中も呑むだろう。
「……さっきの富籤を」
麟五は金色の瞳を穴に向ける。
面布をつけたまま、物言いたげな気配を漏らしながら南海が差し出すと、再び富籤の束はバベル王国に舞い戻った。
「この穴はもう閉じる。お前たちも持ち場に戻れ」
『リンゴ君!?』
神保兄弟が大きな声をあげる。
「俺は明日まで帰れねぇらしい。元々明日五の刻まで非番だ。何かあれば非番時の対応で凌げ」
テッサと南海が頭を下げる横で、その言葉に憤ったのは他局の隊長であった。
『なっ……アンタに何かあったらどうするんだ! 言わんこっちゃねぇ。こんなことなら最初からリンゴ君じゃなくてトビを……』
屍病を克服する鍵を見つけた飛梅だが、屍人接触による感染疑いとして隔離されていることは隊員には周知されている。
屍人に慣れた特別消禍隊の人間達からすれば、接触から1時間経っても屍人化しないのであれば解放が常のところ、24時間以上が経過しても飛梅が戻らないことに疑問が湧き出るのも無理はない。
疑惑のある無名の新人よりも、ミカド皇国の宝である蓼丸麟五を守ろうとするのも必然だ。
だが、そのミカド皇国の常識が、無性に勘に触った。
「うるせぇ! 黙ってろ!」
発された激しい虹色の魔圧に、シン、と両国の者たちが静まり返る。
「必ず帰る」
麟五が穴を覗き込むように頷くと、振り返ってタイヨウに微笑んだ。
「姫様、ご無理を言って申し訳ございませんでした。穴をお閉じ召されよ」
タイヨウは周りの顔を見回してから、開門札を手中に転移させて門を消した。
風すら遠慮しているような、静寂があたりには残された。木札をセミマルに渡しながら、少女は案ずるような瞳で蓼丸を見上げる。
「一晩寝れば大丈夫なんで、明日の朝には必ずまた門開けますからね。遠いところに残されて不安だと思いますけど……ほらミカドと“携帯”はつながるみたいなんで、あ、“携帯”で通じます!?」
会ったばかりで得体の知れないはずの自分を心底気遣う黒天使の優しさに毒気を抜かれた麟五がハハハと快笑した。
その笑顔は存外に幼く、タイヨウは目を瞬かせた。
(1人で派遣されたってことは、ものすごく優秀なんだろうけど、蓼丸さんって意外と若い?)
麟五は笑みを消さずにタイヨウに答える。
「失礼。携帯、で通じますよ」
「よかったです! あ、それと僕全然偉くないんで! 普通に喋っていいですよ」
「いや、それはさすがに……」
蓼丸は言葉を探した。
礼節を捨てることは彼にとって剣を落とすのと同義だ。
だが目の前の天使のような少女は、それを軽やかに破ってくる。
半年前にバベル王国人によって日本から転生という名の拉致をされたばかりのタイヨウは、同じように異世界に残された麟五に先輩心がくすぐられたらしい。
タイヨウが鼻息荒く胸を叩く。
「大丈夫です、だよ! リンゴ……君!」
「姫!?」
「タイヨウ、でいいで……いいよ!」
慣れぬタメ口につっかえる様子に、蓼丸がフッと口元を緩めた。
ふよふよと飛んで近づいてきたタイヨウが小首を傾げる。
「ミカドが大変なんでしょう? さっきヴォル……御老公が言ってたことが本当だったら……そんな時に、国を離れて心配だよね」
その純粋な心配に、麟五の胸がきゅ、と縮んだ。
彼はふと視線を逸らし、言葉を探した。
「……ああ。そもそも俺が来るはずじゃなかった」
「えっ! リンゴ君が強いからって理由だけじゃなかったんだ?」
タイヨウがアメジスト色の瞳を丸くする。
その表情の純真さ、幼さに、ますます麟五の肩から力が抜ける。
それを見ていたハンナの目には茜差す教室で語り込む高校生2人にしか見えなかった。
「……タイヨウならわかるんじゃないか?『走れメロス』だ」
「わかる! わかるよ、メロス!! つまり、うちに来たってことはメロスがリンゴ君?」
「24時間以内にブツを持って戻らなくてはいけないという点においては、そうだな」
「そんなことを命令した邪智暴虐の王がいるの!? ひどいなぁ〜! じゃあ人質になってる大事なお友達がさっきお面さんが言ってた“トビ”君?」
その幼い瞳にさ、どこまでも真っすぐな信頼が宿っている。
麟五は一瞬、言葉を失った。
「とも……部下、だ」
若き麒麟児は、視線を逸らした。
その生温い沈黙を、周囲は逃さない。
カグヤ妃が目を細め、メイとハンナは目配せを交わし、ヴォルフガング翁までもが嬉々として頷く。
「なあ、愛しのタイヨウちゃんがタデマルに随分近づいてるけど、あれは心配じゃないわけ? 特級の男だよ?」
ヒューがふてぶてしくカザンの頭を肘掛けにして言うと、カザンが鼻で笑った。
「ああ? 見てわからんのか?」
「何が?」
「お前でもわからんことがあるんだな」
ヒューがむっと頬を膨らませる。
「蓼丸の目は一度もタイヨウを下衆な目で見ていないじゃないか。神の使いだと感銘は受けていたようだが、美しさに感嘆するそぶりすらなかった。アレは既に心に決めた者がいる者の目だ」
カザンが肩をすくめる。
そして、その台詞の意味をようやく飲み込んだ蓼丸が、顔を真っ赤に染めた。
「リンゴ君、そうなの!? もしかしてトビ君じゃなくて、トビちゃんなの!? あっ、ごめん! 性別なんてどっちでもいいよね!」
「……」
「大切なセリヌンティウスを残してきてたら不安だよね! 心配だよね! 僕、なるべく早く魔力戻せるようにするから! サクッとお話しちゃおう!」「……ッ!」
麟五は呻いて頭を抱えた。
その姿に、バベルの面々が一斉に笑い出す。
その笑い声に、タイヨウがきょとんと首を傾げた。
麟五は気づいてしまった。
タイヨウの無邪気な瞳が、「トビちゃん」と口にした瞬間、心臓が小さく跳ねたことを。
まるで、他人に触れられたくない祈りの名を守るように。
この胸のざわめきも焦燥も、全部、あの夜に残してきた飛梅ひとりのためのものであることを。
思考が追いつくより早く、胸が熱くなる。
彼は慌てて顔を上げた。
気づけば周囲はまだ笑っている。
麟五は引きつるように笑い返しながら、そっと天を仰ぎ、小さく息をこぼした。




