27. バベル王国 エリア3
扉の向こうに広がったのは、光だった。
夜の闇から一歩踏み出した瞬間、視界が焼けるほどに白く染まる。
ミカド皇国は深夜。だが、ここバベル王国はすでに朝。時差の狂いが、空気そのものを裂いていた。
指定された場所はバベル王国が擁するゲヘナと呼ばれる魔界。通称エリア3というらしい。人が踏み入れられぬ故、地名をつける必要もない土地。
足を踏み入れた瞬間、世界の法則が変わったのがわかった。
見渡す限りの赤土、千の太陽に焼かれた大地が、どこまでも続いている。
地平線の向こうから隆起する岩山は、巨神の背骨のように空を裂き、その切り立つ断崖の一つひとつが、時の流れそのものを刻んでいた。
熱い風は乾き、砂は血の粉のように舞う。ただ立っているだけで、身体の輪郭が世界に溶けていくようだった。
蓼丸麟五はゆっくりと息を吸い込んだ。
赤の荒野、岩の壁、空の果て。
そのすべてが、ひとつの巨大な呼吸として動いている。
――ここが、バベル王国。
瘴気は濃い。
人が五分と生きられぬほどの毒。
だが、蓼丸麟五にとって、それはむしろ生の奔流だった。
呼吸のたびに、体内の魔力が震える。
膝の裏から腰へ、腰から背骨へ。
筋肉のひとつひとつが、戦を待つ獣のように反応する。
瘴気に含まれる魔素の密度は、ミカド皇国の何倍にも達している。
風ひとつ吸うだけで、指先がしびれた。
理性が警鐘を鳴らす。ここは危険だと。
だが、その声をかき消すほどに、体は歓喜していた。
脳が焼けつくような多幸感。闇の深みに手を突っ込みながら、そこに確かな力を感じてしまう。
魔力とは本来、制御すべきものだ。だが今は、制御の向こう側にある原始の脈動が彼を呼んでいた。
麟五は、わずかに口角を上げた。
なんという心地よさだ。
ここでは、すべての束縛が剥がれていく。
――ドゥン、ドゥン
EDMの規則的で奇妙な律動が背から聴こえ、魔界の風に恍惚としていた麟五は冷静さを取り戻す。
ミカド皇国側から、マイクを通した声が響いた。
癖のある巻き舌、無駄に張り上げたテンション。
声音は変えているが、玄蕃白のようだ。
「いやいや、バベルの皆様お立ち合い! 火事と喧嘩は江戸の華 いずれの華もこの男にかかっては水の泡! 本日ご挨拶に参りますのは人類最強の男 特別消禍隊“華の第七”隊長 蓼丸ゥゥゥ麟五ォォォォ!!!」
孝悌苑からは爆発的な歓声が聞こえる。
やりすぎの演出に、麟五は苦笑いした。
そのまま一歩、二歩と進んでいく。
彼が纏った訓練服は黒の作務衣に白いライン。左眼の奥では赤い星がわずかに明滅する。
十人の従者たちは、白衣に銀糸の刺繍を施した制服をまとい、舞のように整列し膝をつく。
蓼丸は身体共感を操り、遠く、目の先にいる者達に目を細めた。
明らかに軍人だとわかる男が5人。
火系と風系が2人ずつ。土系が1人。いずれも破格の魔力だ。
横を歩く南海達が緊張しているのがわかる。
常軌を逸した美貌を持つ白髪の女はミカド皇国から嫁いだ輝夜太夫だろう。彼女の横で暗器の音を服の下から漂わせる隙のない男は、吉原から付き添ってきた忍に違いない。
その他、民間人のようにしか見えぬ者達が4名。しかし、ただの平民であればこの地に立てるはずがない。
(魔力が見えねえ。闇属性能力者かーー)
その思考を破ったのは、見知らぬ国の男の声だった。
バベル王国語だった。
怒号、警戒、疑念。
どれも感情は理解できた。だが、意味はわからない。
やがて、バベル陣営のざわめきの中で誰かが叫んだ。麟五にもわかるミカド皇国語だった。
「……今日来る者の紹介じゃ!」
「人類最強の男、って言ってました!……」
その言葉に、蓼丸は笑わなかった。
己の名が伝わったことを確認するだけで十分だった。
さらに近づく。気配を読む。
軍人らしき男達の戦闘訓練は相当。だが、殺気が浅い。警戒止まりだ。
――甘い。
その軍人の中の1人。
バベル人達の集団の最奥にいた、台車のようなものを押す金髪の男の口元が嘲りに歪むのが見えた。
次の瞬間、風が走る。
麟五が台車を押していた大柄な男の腹部を蹴り抜くと、鈍い音と共に巨体が宙を舞った。
息を吐く間もなく、四方から剣が閃く。
剣は正確に麟五の首を捉えていた。
彼らの名は知らずとも、その動きで力の格は見て取れる。
「あな、あなた! いきなりなんなんですか! ルイさん、大丈夫ですか!?」
声が響いた。
倒れた男を気遣う、柔らかく、透き通る声。麟五の意識が、反射的にそちらへ向く。
――ミカド皇国語。何者だ?
そこにあったのは、赤茶けた荒野に、ひときわ鮮やかな色彩。
黒曜石のように揺蕩う黒髪。
白い肌は光を透かし、瞳はアメジスト。
黒のアーミーウェアを身に纏っていても、神も「正直やりすぎた」と恥じらうほどの美貌は隠せていない。
美しい、と思ってしまった自分に、わずかに舌打ちする。
気を取り直し、見下ろすように言った。
「――毛唐の言葉はわからんが、いま、そいつ俺のこと馬鹿にしただろう?」
天使のような少女ではなく、赤髪の長身の男がそれに応じた。
剣を鳴らし、冷ややかな声音で。
「特使として来たなら、まず名を名乗れ。内容もわからぬ言葉を聞いて異国の民を蹴り飛ばすのがミカドの礼儀か?」
上に立つことに慣れた者の物言いだった。そして淀みないミカド皇国語。これが輝夜太夫の息子、第3王子カザンに違いない。
麟五は鼻で笑った。
――礼儀、だと?
聞けば、彼らが今回求めてきたのは祭を盛り上げるための機材だという。それも、天燈祭や海鎮ノ儀といった鎮魂の祭りではなく、バベル王の誕生会だそうだ。
(飛梅の命の対価が祭の余興とはなーー)
反吐が出る。
この国に逃げ、祖国の苦しみを知らぬ連中にそれを説かれる筋合いはない。
「てめぇこそ誰だ。口元見てると翻訳呪文じゃねえな? ああ……売女の息子か。学もないのは仕方ない。“蓼丸”には頭を下げろよ」
怒気が走る。
周囲の空気が変わった。暗器が一斉に構えられる。
「やめりゃ、蓼丸の! 主は戦争でもする気か! 主らもやめ!」
甲高い声が場を割った。
豊満な胸を揺らし、妖姫のような女が腕を振る。
輝夜太夫、いや、第二妃カグヤ・ミカド・バベル。
蓼丸はその名を心に刻みつけ、黙って彼女を見た。無骨な軍服から、燃えるような赤い瞳が睨み返してきた。
華やかな、艶やかな声音が吠える。
「蓼丸の、勘違いするなよ。わっちはここでは江戸の廓の女ではない。バベル王国第二妃、カグヤ・ミカド・バベルぞ。この地においては蓼丸といえど頭は下げぬ。わっちの息子もじゃ。その道理がわからぬなら話などできぬ。疾く去ね!」
彼女のいまだに抜けぬ廓言葉が勘に触った。
「はっ! チンケな田舎大名に落籍されただけの女が随分デカい口……」
次の瞬間、麟五の声が掻き消えた。
空間がねじれるような感覚。
音だけが、抜き取られた。声を奪われた。
蓼丸は言葉を失い、喘いだ。
「女性に向かって、なんてこというんですか! こんのバカちんが!!!!! 僕怒りましたよ!! いい子で喋れるまで声は返しません!」
――何だ、こいつは。
先ほどの黒髪の美少女が、黒天使が怒りに震えている。
虹色の瞳、漂う魔素の渦。だが、圧は感じても質を捉えることができない。
完全に異質。
(闇属性特級能力者ーー!!)
次の瞬間。
どん、と耳には聴こえぬ音がした。
麟五の背側に控えていた部下たちがスモークと共に吹き飛ばされる。
彼らを飲み込み、ミカド皇国と繋がっていた門が勢いよく閉じて消えた。
視界が急速に静寂を取り戻す中、少女が叫んだ。
「反省するまで、お家にも帰しませんからね! 大体、なんなんですかあの“EDM”! うるさすぎるんですよ! ここは“六本木”の“クラブ”じゃな……」
「ばっ……!」
慌てたカグヤ妃が少女の口を押さえた。
その単語に、脳裏のどこかが点滅する。
EDM、六本木、クラブ。
知っている言葉。だがそれは、江戸ではなく、先ほど玄蕃が語った記憶。
EDMは昨夜玄蕃が持ち込んだ文化だ。二十年前にバベル王国に渡ったカグヤ妃達が知るはずもない。
まさか、と思った。
だが、それを確認せずにはいられなかった。
「まさか……貴女は“日本人”なのか……?」
麟五の口から漏れた言葉は、驚愕そのものだった。
光に満ちた朝の荒野で、蓼丸麟五は、かつての世界の残響と向き合っていた。
ここからの数話は前作『転生DKの帰還』と重複します。バベル王国視点は前作をお楽しみください。




