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大江戸オブ・ザ・デッド〜魔法全盛の江戸で、弓しか取り柄がない私ですが兄を探してます〜  作者: 森戸ハッカ
第三章:風の段『風は動なり。鎖を持たぬ』

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22. 孝悌館地下牢

 ゴウン……と、地下への扉が閉まる音が響いた。


 その音が合図だったかのように、飛梅の周囲の空気が一気に張り詰める。


 彼女の両手には、黒鉄の手錠が嵌められていた。重罪人の能力者を拘束するために開発された封印具により体内の魔素は循環を断たれ、指先から体温が抜け落ちていく。


 送還任務にあたる小石川療養所の職員たちは、皆、全身を覆う白の感染防護衣を着ていた。


 頭部はフードで覆われ、面頬には透明の魔硝面。彼らの息遣いだけが、マスク越しに乾いた音を立てている。


 飛梅はただ歩かされるままだった。


 身体を押す手はなく、長い刺股の先端が肩を小突く。


 屍人の搬送と同じ扱い。まるで、すでに人ではないかのように。


 孝悌館の門番も、彼女が通るたびに一歩、二歩と距離を取った。


「感染源、搬入します!」

 

 護衛の一人が叫ぶ声が、石壁に反響する。


 飛梅は俯いたまま、唇を噛んだ。


 ――感染源。


 今日まで同じ志で屍人と戦っていた仲間たちが、いまはその言葉で自分を呼んでいる。


 封印具が軋むたび、鎖の音が鳴る。その音がまるで、葬送の鐘のように響いていた。


「牢に入れ」


 低く命じる声。


 刺股が押し込むように前へ向けられる。飛梅は抵抗もできず、ただ足を運んだ。


 扉の向こうは、濃い闇だった。

 湿った石壁、土とカビの混じった匂い、そして冷たい空気。足元の石畳が、かすかにぬめっている。


 背後で扉が閉まる。錠が降ろされる音が、やけに重く響く。


(ここが終わりだ……)


 そう思うには、十分すぎる静けさだった。油皿の火が細く揺れ、残るのは、呼吸の音と心臓の鼓動だけ。


 ひざが崩れた。


 ――何を、間違えたのだろう。


 屍人を討っただけなのに。

 誰よりも仲間を護りたかっただけなのに。

 もう少しで兄の気配にも届きそうだったのに。

 

 喉の奥が焼けるように熱い。

 それなのに、声は出なかった。

 涙も出ない。泣くことさえ、赦されていないようで。


 闇の底で、飛梅は初めて、自分が人ではないものとして扱われたことを理解した。


 心のどこかで何かが静かに折れた。


 その瞬間、再び扉が軋んだ。


 鉄の音が闇を切り裂く。飛梅は反射的に顔を上げた。


 入ってきたのは、同じ白でも違う。

 防疫の白ではない。

 清潔で、どこか静謐な――医師の白衣。


 防御服のフードも面頬もなく、露わになった白髪が淡い灯に光る。目元には疲労の影があったが、その瞳は静かで揺らがない。


 小石川療養所の東雲だった。


 彼は一歩、また一歩と足を進めた。防護壁も結界も介さず、まるでそこにいるのが当然というように。


「やはり、屍人化していないな」


 その声が、あまりに落ち着いていた。

 恐怖も緊張もない。

 それは、確信を持つ者の声だった。


 飛梅は、信じられない思いで見上げた。  

 さっきまで誰も近寄ろうとしなかった距離を、彼だけが何のためらいもなく踏み越えてくる。


「……東雲、所長」


 かすれた声が、ようやく漏れた。


 東雲は返事をせず、灯りを彼女の方へ寄せた。橙の光が、鉄の鎖と彼女の顔を同時に照らす。


「腕を出しなさい」


 短い命令。診察の声だった。


 飛梅は躊躇いながら、拘束された手を差し出した。東雲の指がその手首に触れる。冷たくも、温かくもない。ただ、確かに人の手の温度だった。


 東雲は飛梅の鎖を軽く持ち上げ、腕を視た。指先で脈を測り、皮膚の色を確かめ、爪の下、眼球の反応、呼吸の深さを見る。医師らしい、冷静で的確な動きだった。


「感染反応もない。傷跡の腐蝕も進行していない」


 淡々と記録を取るような声。だがその瞳の奥には、確信めいた光が宿っていた。


「ーーお前も、闇属性だな」


「……今、なんと?」


 飛梅が衝撃で顔を上げる。


「お前も? やはり兄は、あなたの元にいるんですね!?」


 鎖の音が鋭く響いた。


 東雲はわずかに息をつき、静かに告げる。


「飛梅音は確保している。未だ意識は戻っていないが、命はある」


 飛梅の瞳が見開かれた。


「……本当に……?」

「我々の管理下にある。安心しろ」


 その言葉に、飛梅の胸が熱を帯びる。だが同時に、胸の奥に黒い影が浮かんだ。


 どこから仕組まれていたことなのか?


「――兄が巻き込まれた上野事変の直前、小石川療養所の近くで屍人を見たという通報がありました。担当管区は五局。その通報で出動が遅れたせいで、被害が大きくなった可能性があります。しかも通報した者たちは、皆あの夜に死亡した……。まさか、それも……あなたが仕組んだのではないんですか! 兄のように、実験する人間が欲しくて!」


 鎖が鳴り、声が牢の奥まで響く。東雲は一瞬だけ目を閉じ、静かに首を振った。


「……あれは、偶然の連鎖だ。蘇り屍人があまりにも古く、目撃された後に組成を維持できずに消えたらしい。そのため通報を受けた巡回組が足止めされ、現着が遅れた。通報者が上野に揃っていたのは偶然だ。もっともあのあたりの住人で、始発で動く人間が上野を目指す確率は低くない。誰の手でも、止めようがなかった。非業な運命が重なっただけだ」

「……運命、ですか」

「そうだ。そして、その運命に抗った者がいる。お前の兄だ」


 飛梅が息を呑む。


「お前も、だな。兄の電票で隊に入るとは……闇属性能力者は他人の電票でも使用できるなど、想定すらしていなかった」


 東雲は灯りを手に、飛梅のそばにしゃがむ。


「……少し、昔話をしよう」


 唐突な言葉に、飛梅は顔を上げた。


 東雲は視線を灯りに向けたまま、ゆっくりと口を開く。


「十五年前のことだ。深川殲滅戦。あの戦で、私は四十六人の仲間を失った」


 静かな声だった。語るというより、記憶を掘り返すような響き。


「そのうちの二人は、屍人に身体を喰われて死んでいた」


 飛梅は戸惑った。


「……それは、普通では……? 屍人に喰われたら――」


 言いかけて、はっとする。


 屍人に噛まれたら、屍人になる。

 死ぬことはあっても、人のまま死ぬことなどない。


 東雲は小さく頷いた。


「そうだ。だが、あの二人は屍人にならなかった。喰われ、血を吸われ、肉を裂かれたというのに、ただ死んだ。変異反応は一切なかった」


 火の粉のように、灯りがひとつ、揺れた。


「共通点があった」

「共通点……?」

「七局に配属されるほど優秀な能力者であること。そして入隊前、二人とも地元の消防団に所属しており、そして、抜きん出て屍人討伐の経験が多かった」


 兄と同じだ。そして自分とも。飛梅の目が見開かれる。

 

 東雲は淡々と続ける。


「屍人の発生機序はいまだ不明だ。だが、屍人を動かす何らかの力が存在する。それを、屍人を屠ることで体内に取り込む。それが抗体となる。そんな体質の人間が、ごく稀にいるのではないかと考えた」


 言葉は穏やかだが、その奥には熱があった。


「その力が何なのか、誰も観測できなかった。ミカド皇国には闇エネルギーの測定装置がない。闇属性は、バベル王国にしか存在しないとされてきたからだ」


 東雲は灯りを見つめ、短く息を吐いた。


「屍人をいくら剖検してもわからぬ。だが、私は見た。屍人化しない人間――闇を宿した者を。今回、初めて生きた状態で見ることができた」


 飛梅の胸の奥で、何かが鳴った。


「……兄、ですか」

「そうだ。お前の兄は噛まれた跡がある。それでも昏睡しているだけだ。屍人にはならなかった」


 沈黙。

 灯りの炎がゆらゆらと揺れる。


「調べても、他の能力者との差異はなかった。だからこそ、確信した。我が国に存在しないと言われていた闇属性の素質を彼は持つ。そして――」


 東雲はゆっくりと、飛梅を見た。


「お前も、だ」


 飛梅の喉が震えた。

 

 言葉は出ない。


 東雲は入ってきた時のように無言で出ていき、重い扉に押されて風が動いた。


 その瞬間、微かに――クチナシの甘い香りの幻想が香った。


 屍人と相対するたびに感じた、あの匂い。 

 焦げた鉄でも、血でもない。

 甘いクチナシの香り。ーー闇の匂い。


 放った矢が自在に戻るのも、屍人を感じ取れる理由も、兄の居場所がわかる理由も。


 すべて、同じ“闇”に属していたからだ。


 闇は血に宿り、香として現れ、人を導く。


 飛梅は悟る。

 自分は、この国を蝕む闇そのものの系譜にいるのだと。


 頭では理解できた。

 でも――心が追いつかない。


 これまで信じてきた世界が、音もなく崩れていく。


「……どうして……」


 掠れた声が零れた瞬間、頬を伝った涙が、鎖の上に落ちた。


 冷たい鉄が、かすかに鳴った。


 自分の目の前が闇に囚われ、逃げる場所も見えなかった。


 それから、どれほど時間が経ったのか、わからない。


 油皿の火はとうに尽き、闇だけが残っていた。


 喉は裂けるほど乾き、指先の感覚は遠のいていく。


 それでも死ねない。


 魔吸拘束環が絶えず魔素を吸い上げ、身体は凍るように冷えていくのに、高い基礎魔力がそれを上回り、命を維持させられているからだ。


 ――まるで、生かされるために殺されているようだ。


 息を吸うたび、胸の奥で空洞が鳴る。


 誰も来ない。音もない。

 ただ、血の中で闇だけが、微かに蠢いていた。


 そのとき――

 遠くで錠の音がした。

 再び、牢の扉が開いた。


 今度の足音は二つ。


 増えた足音は東雲ではない。魔力の気配もない。だが、空気が重い。支配されるような圧。


 灯りが差し込み、暗闇が後ずさる。

 

 暗い室内に、東雲が能力で灯りをつけた。


 東雲と共に現れたのは、深藍の官服に金糸の縁取りを施した男だった。


 眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷たい。


 ――妙だ。


 高官らしき男が、随行も伴わず、わざわざ地下牢に足を運ぶなどあり得ない。


 何かを隠すような、静かな訪問。


 男は一瞥しただけで鼻を鳴らす。まるで、そこに人がいることすら不快であるかのように。


「――図が高い」


 吐き捨てるような声に、反射的に飛梅の肩が揺れた。


「平伏せ」


 その声は低く、よく通る。

 命令というより、世界の秩序そのもののようだった。


 飛梅は膝をつき、視線を落とす。

 士族――いや、それ以上の身分だ。


 だが、誰なのかまではわからない。


「……お名前を、伺っても……?」


 掠れる声で問うと、男は唇を歪めた。


「問う資格があると思うか」


 そして一拍ののち、嘲るように微笑む


「よい。名を伏せるほど卑しくはない」


 金糸の袖を整え、ゆるやかに言葉を落とした。


「――蓼丸備悟。幕府評定衆にして、御三家蓼丸家の嫡男だ」


 飛梅の胸が強く脈打つ。


 蓼丸――。

 人類最強の教官、蓼丸麟五の兄。

 必ず守ると言った金の瞳が闇に浮かんだ。


 しかし、同じ名を持ちながら、纏う気配はまるで異なる。弟が戦場の風なら、この男は宮中の氷だった。


「闇の血……穢れと呼ぶべきか」


 備悟は眼鏡の奥の目を細めた。


「我らが国の安寧のために、役立ってもらう」


 その声には、一片の情もなかった。


 鎖の冷たさが、肌の奥まで沁みていく。


 飛梅はただ、息をすることさえ忘れていた。


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