21. 墜ちる
甲板の一角、皇の駕籠が突風に包まれた。
風が渦を巻き、御簾を内側から支えるように光を帯びている。面布をつけた近習たちが術式を重ね、駕籠は静かに宙へと浮かび上がった。
海風に乗り、艦上の混乱から数丈もの高さへ。
蓼丸は冴え冴えとした瞳でその光景を一瞥した。
――あの高さなら、屍人も手出しできまい。
皇の護りは想定どおり完璧だった。
艦上では悲鳴が連鎖し、交錯した。「屍人だ!」という叫びが混乱をかき乱す。
船員が柱の松明を掴み、振り回した。火の粉が舞い、油の染みた帆布に落ちる。
瞬く間に火が広がり、炎が夜空を染めた。
「火を使うなッ!」
麟五の凛とした怒声が響く。
彼は片手で印を結ぶと、手を翳した。
風が逆巻き、炎は一瞬にして静まった。
焦げた布が灰となって舞い、赤い光の残滓だけが漂う。
その速さと正確さに、見ていた者は言葉を失った。
鎮火の直後、甲板の影から屍人が次々に躍り出る。
次の瞬間、弓弦の音が空を裂いた。
飛梅の矢が疾風のごとく放たれ、屍人のこめかみを撃ち抜く。屍人は海へと崩れ落ち、波に呑まれていった。
続けざまに二矢、三矢。
矢羽の音が鋼の甲板を切り裂き、屍人たちは次々に倒れる。
火の粉と血飛沫が舞う甲板。悲鳴と金属音が入り乱れ、秩序は完全に崩壊しているように見えた。
だが――その混沌の中心に、ただひとつ揺るがぬ陣があった。
特別消禍隊第七局。
飛梅によって視界の開かれた南海が前に出る。
両の掌から放たれる薄青の魔力が、空気の流れを読むように甲板を走った。風のように軽やかに動きながら、視界の端々に潜む屍人の位置を探り出す。
「左舷側、三――いや、四体!」
その声に、即座に反応したのはテッサだった。
彼女は無駄のない動きで南海の死角に割り込み、屍人化した巫女の腕を掴み、重心をずらして投げ飛ばす。
甲板に激しく叩きつけられた屍人の細い首が鈍く鳴った。
さらにもう一体が背後から迫るが、テッサは一歩も振り返らず、踵を返して後頭部を蹴り抜いた。
風を切る音。
屍人の体が宙を舞い、照明柱に激突する。その一連の動きは、まるで演舞のように正確だった。
神保兄弟――烈と豪は、まるで左右一対の獣のように動いた。
烈が前線を突破し、豪が背中を守る。
3メートル強の仁王フォームではなく、通常フォームのままだが、2人は鉄のグローブを付けていた。
鉄の拳が屍人の顎を砕き、その勢いのまま、もう一体を肩口から甲板に叩きつける。
その度に轟音が響き、金属の床が軋んだ。
飛梅は矢を放ちながら、隊の中心を守っていた。
矢羽が風を裂き、屍人のこめかみを正確に貫く。屍人を屠った矢は忠実に、飛梅の手に返った。
その背後では、蓼丸が冷静に指示を飛ばしている。
「南海、次は艦尾だ! 神保、押し出せ! テッサと飛梅は支援を続けろ!」
声は低く、しかし確実に届く。
隊の動きは一糸乱れぬ戦舞のようだった。
屍人の群れが波のように押し寄せても、彼らの陣形は崩れない。それどころか、一歩ごとに前線を押し戻していく。
飛梅の矢が最後の一体を撃ち抜いた瞬間――艦長は絶句し、低く呻いた。
「……なんちゅう腕前じゃ。わしが間違えとったんか……」
第七は、華の名に相応しく。
炎も爆薬も使わず、ただ技と連携だけで艦上の地獄を制圧していった。
風が吹き抜ける。血と煙の匂いが遠ざかる。
まるで、戦いそのものが儀式の一部だったかのように。
戦況は次第に収束し、屍人たちは掃討された。
残るのは血と油の匂い、焦げた帆布の残骸、そして重い静寂。松明の灯は幾つか倒れ、かすかな煙が海風に流れていく。
蓼丸が周囲を見回し、短く息を吐いた。
その様子を見ていた東雲たち医療班は負傷者のもとへ走った。
飛梅は弓を下げ、矢筒の残りを確かめる。
海に落ちていった矢もあり、いつもより本数が減っていた。矢羽に付着した血が、夜の灯に鈍く光る。
その血跡から屍人の匂いはしなかった。矢が戻る際、屍人化する前の誰かの血が飛んだのだろう。
今日も、たくさんの命が散った。
戦いは終わっても、残るのは欠けたものの輪郭。特別消禍隊の現場とは、そういう場所だった。
生き残った者たちの呼吸は荒く、言葉にならぬ呻きがあちこちで漏れていた。
恐怖で膝をつく者、仲間を抱えたまま動けない者――誰もが現実を飲み込めずにいた。
それでも次第に声は途切れ、妙な静けさがその場を包んでいく。波音がその合間をゆっくりと満たした。
次の瞬間、夜空の高みからかすかな鈴の音が降ってきた。
光の粒が風と共に舞い、艦の上をゆるやかに漂う。
見上げれば、そこに――皇の駕籠があった。
先ほど風に乗せて上空へ退避させられたはずの駕籠が、いまは月光を背に受け、静かに降下してくる。
駕籠が甲板に触れた瞬間、ほのかに香の香りが漂った。沈香と、白檀。
だがその奥に、飛梅の鼻がふと捉えた。
クチナシのように微かに甘い匂い。それは、屍人が放つ独特の腐臭に似ていた。
気を取られている背に、かすかな音が紛れた。
「……ッ」
飛梅が振り返った瞬間、倒れた屍人の山の下から腕が伸びる。
血の匂いに引き寄せられた、まだ死にきれていない一体――。飛梅は反射的に弓を構えたが、爪が閃き、隊服の袖を裂いた。
布が裂ける音がやけに大きく響いた。
「しまっ……!」
飛梅は咄嗟に体を捻り、屍人を振り払った。矢を突き立て、倒すことに成功する。
彼女達は屍人の死骸を払いのけ、荒い息を整えた。
「大丈夫か、トビ!」
南海の声が鋭く響いた。
血の気の引いた彼は即座に索敵魔力を広げながら、甲板全体を再確認する。
――見落とした。
ほんの一瞬、気を緩めた。
影はもう動かないと思っていた。
それが、この一撃を許した。
(しっかりしろ南海ノック! 俺は百目だぞ!)
「大丈夫、袖だけです!」
飛梅はそう言って笑みを作り、弓を背に戻した。
南海は息を整え、わずかに目を伏せた。個性的なシンガーソングライターのような太り肉の頬に安堵と悔しさが入り混じる。それだけで、彼の胸の内が痛いほど伝わった。
麟五が短く頷く。
「気を抜くな。警戒を続けろ」
しばらくして、医療班が周囲の負傷者を引き上げ終えた。
すれ違った東雲は血塗れの包帯を捨てながら、ふと飛梅の左腕に目をとめた。
風に揺れた布の隙間から、赤い線が覗いた。
「……飛梅殿」
その声音には、医師の癖のような鋭さがあった。
彼女が振り向くより早く、東雲は手を伸ばし、裂けた袖をめくった。
白く薄い皮膚に、三本の浅い引っ掻き傷。
血はすでに乾きかけているが、屍人の爪がかすめた痕跡だった。
「袖だけではない、な」
静かな声が、周囲の空気を重くした。
蓼丸がわずかに目を細める。
「……屍人によるものか?」
「断定はできません。ただ、確かに傷がある。そして飛梅殿は先程屍人に襲われていた」
言葉はそれだけで十分だった。
「トビ!!」
飛び出そうとする南海をテッサが青ざめた顔で制する。
飛梅は小さく首を振った。
「心配いりません。浅いですし、痛みもありません」
だが、東雲の視線はその軽さを許さなかった。
「屍人の爪に痛覚は関係ない。問題は……血だ」
周囲の隊員たちが息を呑んだ。誰よりも屍人感染の恐ろしさを知る彼らは、事態が何を示すのか痛いほど理解していた。
夜の風が吹き抜け、灯籠の炎がかすかに揺らいだ。
海上に沈黙が戻る。
風も潮騒も、まるでこの艦を避けるように遠ざかっている。夜の海に浮かぶ護衛艦不動は、今や静止した亡骸のようだった。
飛梅は自らの腕を見つめていた。
灯りに照らされた皮膚には、爪で掠められた赤い痕。
東雲の言葉が脳裏に焼きつく。
――屍人の爪に痛覚は関係ない。問題は、血だ。
周囲の船員たちが距離を取った。
さっきまで彼女の矢に喝采をあげていた者たちの目が、今は、すでに死者を見ているように冷めきっていた。
麟五が一歩前へ出る。
「待て、まだ感染の確認は取れていない。感染の兆候もない。これは他の――」
「蓼丸隊長」
東雲の声が、その言葉を切った。
静かで、しかし艶のない硬質な声だった。
「規定に従えば、屍人に接触した者は直ちに拘束・隔離。たとえ疑いであっても、それを怠れば艦全体の危機になります。……あなたも、それをよくご存じのはずですが」
建前にして、正論。
蓼丸の拳が震える。
「……わかっている」
低く、押し殺した声。
だが瞳には怒りが宿っていた。
東雲が部下へ指示を出す。
「対象を拘束。医療隔離区画へ」
鎖の音が甲板に響く。
飛梅は抵抗しなかった。
両手を差し出し、魔力を抑える冷たい金属が手首にかかる感触をただ受け入れる。
南海が声を上げかけて、唇を噛み締めた。
双子――神保烈と豪は顔を見合わせ、目を伏せる。
テッサは無言で両腕を抱き、うつむいた。
蓼丸は凝視したまま、一言も発しない。その拳に爪が食い込む音だけが、夜の中で微かに響いた。
飛梅は誰の顔も見られなかった。
視界の端で、灯籠の火が風に消えていく。
――冷たい。
自分の心臓が、もう他人のもののように遠くにあった。
そのとき、御簾の奥から声がした。
「ふふ……主もヒルコかえ」
皇の声は柔らかく響き、夜の海に溶けた。
思わず、飛梅は顔を上げる。
言葉の意味を測りかねながらも、反射的に背筋を正した。
だが、周囲の誰も皇の方を見てはいなかった。誰一人、声を聞いた様子もない。
ただ風だけが、御簾をかすかに揺らしていた。
飛梅はその違和感を、波音のせいだと思った。
そう――このとき、まだ。
艦が波に揺れ、灯火がまたひとつ消える。
やがて甲板には、鎖の音と、遠くで笑う少女の声だけが残った。




