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大江戸オブ・ザ・デッド〜魔法全盛の江戸で、弓しか取り柄がない私ですが兄を探してます〜  作者: 森戸ハッカ
第三章:風の段『風は動なり。鎖を持たぬ』

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21. 墜ちる

 甲板の一角、皇の駕籠が突風に包まれた。


 風が渦を巻き、御簾を内側から支えるように光を帯びている。面布をつけた近習たちが術式を重ね、駕籠は静かに宙へと浮かび上がった。


 海風に乗り、艦上の混乱から数丈もの高さへ。


 蓼丸は冴え冴えとした瞳でその光景を一瞥した。


 ――あの高さなら、屍人も手出しできまい。


 皇の護りは想定どおり完璧だった。


 艦上では悲鳴が連鎖し、交錯した。「屍人だ!」という叫びが混乱をかき乱す。

 

 船員が柱の松明を掴み、振り回した。火の粉が舞い、油の染みた帆布に落ちる。


 瞬く間に火が広がり、炎が夜空を染めた。


「火を使うなッ!」


 麟五の凛とした怒声が響く。

 彼は片手で印を結ぶと、手を翳した。


 風が逆巻き、炎は一瞬にして静まった。


 焦げた布が灰となって舞い、赤い光の残滓だけが漂う。


 その速さと正確さに、見ていた者は言葉を失った。

 

 鎮火の直後、甲板の影から屍人が次々に躍り出る。

 

 次の瞬間、弓弦の音が空を裂いた。


 飛梅の矢が疾風のごとく放たれ、屍人のこめかみを撃ち抜く。屍人は海へと崩れ落ち、波に呑まれていった。


 続けざまに二矢、三矢。


 矢羽の音が鋼の甲板を切り裂き、屍人たちは次々に倒れる。


 火の粉と血飛沫が舞う甲板。悲鳴と金属音が入り乱れ、秩序は完全に崩壊しているように見えた。


 だが――その混沌の中心に、ただひとつ揺るがぬ陣があった。


 特別消禍隊第七局。  


 飛梅によって視界の開かれた南海が前に出る。


 両の掌から放たれる薄青の魔力が、空気の流れを読むように甲板を走った。風のように軽やかに動きながら、視界の端々に潜む屍人の位置を探り出す。


「左舷側、三――いや、四体!」


 その声に、即座に反応したのはテッサだった。

 

 彼女は無駄のない動きで南海の死角に割り込み、屍人化した巫女の腕を掴み、重心をずらして投げ飛ばす。


 甲板に激しく叩きつけられた屍人の細い首が鈍く鳴った。


 さらにもう一体が背後から迫るが、テッサは一歩も振り返らず、踵を返して後頭部を蹴り抜いた。


 風を切る音。

 屍人の体が宙を舞い、照明柱に激突する。その一連の動きは、まるで演舞のように正確だった。


 神保兄弟――烈と豪は、まるで左右一対の獣のように動いた。


 烈が前線を突破し、豪が背中を守る。


 3メートル強の仁王フォームではなく、通常フォームのままだが、2人は鉄のグローブを付けていた。


 鉄の拳が屍人の顎を砕き、その勢いのまま、もう一体を肩口から甲板に叩きつける。


 その度に轟音が響き、金属の床が軋んだ。


 飛梅は矢を放ちながら、隊の中心を守っていた。


 矢羽が風を裂き、屍人のこめかみを正確に貫く。屍人を屠った矢は忠実に、飛梅の手に返った。


 その背後では、蓼丸が冷静に指示を飛ばしている。


「南海、次は艦尾だ! 神保、押し出せ! テッサと飛梅は支援を続けろ!」


 声は低く、しかし確実に届く。

 隊の動きは一糸乱れぬ戦舞のようだった。


 屍人の群れが波のように押し寄せても、彼らの陣形は崩れない。それどころか、一歩ごとに前線を押し戻していく。


 飛梅の矢が最後の一体を撃ち抜いた瞬間――艦長は絶句し、低く呻いた。


「……なんちゅう腕前じゃ。わしが間違えとったんか……」


 第七は、華の名に相応しく。

 炎も爆薬も使わず、ただ技と連携だけで艦上の地獄を制圧していった。


 風が吹き抜ける。血と煙の匂いが遠ざかる。


 まるで、戦いそのものが儀式の一部だったかのように。


 戦況は次第に収束し、屍人たちは掃討された。


 残るのは血と油の匂い、焦げた帆布の残骸、そして重い静寂。松明の灯は幾つか倒れ、かすかな煙が海風に流れていく。


 蓼丸が周囲を見回し、短く息を吐いた。


 その様子を見ていた東雲たち医療班は負傷者のもとへ走った。


 飛梅は弓を下げ、矢筒の残りを確かめる。


 海に落ちていった矢もあり、いつもより本数が減っていた。矢羽に付着した血が、夜の灯に鈍く光る。


 その血跡から屍人の匂いはしなかった。矢が戻る際、屍人化する前の誰かの血が飛んだのだろう。


 今日も、たくさんの命が散った。

 戦いは終わっても、残るのは欠けたものの輪郭。特別消禍隊の現場とは、そういう場所だった。


 生き残った者たちの呼吸は荒く、言葉にならぬ呻きがあちこちで漏れていた。


 恐怖で膝をつく者、仲間を抱えたまま動けない者――誰もが現実を飲み込めずにいた。


 それでも次第に声は途切れ、妙な静けさがその場を包んでいく。波音がその合間をゆっくりと満たした。


 次の瞬間、夜空の高みからかすかな鈴の音が降ってきた。


 光の粒が風と共に舞い、艦の上をゆるやかに漂う。


 見上げれば、そこに――皇の駕籠があった。


 先ほど風に乗せて上空へ退避させられたはずの駕籠が、いまは月光を背に受け、静かに降下してくる。


 駕籠が甲板に触れた瞬間、ほのかに香の香りが漂った。沈香と、白檀。


 だがその奥に、飛梅の鼻がふと捉えた。


 クチナシのように微かに甘い匂い。それは、屍人が放つ独特の腐臭に似ていた。


 気を取られている背に、かすかな音が紛れた。


「……ッ」


 飛梅が振り返った瞬間、倒れた屍人の山の下から腕が伸びる。


 血の匂いに引き寄せられた、まだ死にきれていない一体――。飛梅は反射的に弓を構えたが、爪が閃き、隊服の袖を裂いた。


 布が裂ける音がやけに大きく響いた。


「しまっ……!」


 飛梅は咄嗟に体を捻り、屍人を振り払った。矢を突き立て、倒すことに成功する。


 彼女達は屍人の死骸を払いのけ、荒い息を整えた。


「大丈夫か、トビ!」


 南海の声が鋭く響いた。

 血の気の引いた彼は即座に索敵魔力を広げながら、甲板全体を再確認する。


 ――見落とした。


 ほんの一瞬、気を緩めた。

 影はもう動かないと思っていた。

 それが、この一撃を許した。


(しっかりしろ南海ノック! 俺は百目だぞ!)


「大丈夫、袖だけです!」


 飛梅はそう言って笑みを作り、弓を背に戻した。


 南海は息を整え、わずかに目を伏せた。個性的なシンガーソングライターのような太り肉の頬に安堵と悔しさが入り混じる。それだけで、彼の胸の内が痛いほど伝わった。


 麟五が短く頷く。


「気を抜くな。警戒を続けろ」


 しばらくして、医療班が周囲の負傷者を引き上げ終えた。


 すれ違った東雲は血塗れの包帯を捨てながら、ふと飛梅の左腕に目をとめた。  


 風に揺れた布の隙間から、赤い線が覗いた。


 「……飛梅殿」


 その声音には、医師の癖のような鋭さがあった。


 彼女が振り向くより早く、東雲は手を伸ばし、裂けた袖をめくった。


 白く薄い皮膚に、三本の浅い引っ掻き傷。


 血はすでに乾きかけているが、屍人の爪がかすめた痕跡だった。


「袖だけではない、な」


 静かな声が、周囲の空気を重くした。


 蓼丸がわずかに目を細める。


「……屍人によるものか?」

「断定はできません。ただ、確かに傷がある。そして飛梅殿は先程屍人に襲われていた」


 言葉はそれだけで十分だった。


「トビ!!」


 飛び出そうとする南海をテッサが青ざめた顔で制する。


 飛梅は小さく首を振った。


「心配いりません。浅いですし、痛みもありません」


 だが、東雲の視線はその軽さを許さなかった。


「屍人の爪に痛覚は関係ない。問題は……血だ」


 周囲の隊員たちが息を呑んだ。誰よりも屍人感染の恐ろしさを知る彼らは、事態が何を示すのか痛いほど理解していた。


 夜の風が吹き抜け、灯籠の炎がかすかに揺らいだ。


 海上に沈黙が戻る。


 風も潮騒も、まるでこの艦を避けるように遠ざかっている。夜の海に浮かぶ護衛艦不動は、今や静止した亡骸のようだった。


 飛梅は自らの腕を見つめていた。


 灯りに照らされた皮膚には、爪で掠められた赤い痕。


 東雲の言葉が脳裏に焼きつく。


 ――屍人の爪に痛覚は関係ない。問題は、血だ。


 周囲の船員たちが距離を取った。


 さっきまで彼女の矢に喝采をあげていた者たちの目が、今は、すでに死者を見ているように冷めきっていた。


 麟五が一歩前へ出る。


「待て、まだ感染の確認は取れていない。感染の兆候もない。これは他の――」


「蓼丸隊長」


 東雲の声が、その言葉を切った。

 静かで、しかし艶のない硬質な声だった。


「規定に従えば、屍人に接触した者は直ちに拘束・隔離。たとえ疑いであっても、それを怠れば艦全体の危機になります。……あなたも、それをよくご存じのはずですが」


 建前にして、正論。

 蓼丸の拳が震える。


「……わかっている」


 低く、押し殺した声。

 だが瞳には怒りが宿っていた。


 東雲が部下へ指示を出す。


「対象を拘束。医療隔離区画へ」


 鎖の音が甲板に響く。


 飛梅は抵抗しなかった。


 両手を差し出し、魔力を抑える冷たい金属が手首にかかる感触をただ受け入れる。


 南海が声を上げかけて、唇を噛み締めた。 

 双子――神保烈と豪は顔を見合わせ、目を伏せる。

 テッサは無言で両腕を抱き、うつむいた。


 蓼丸は凝視したまま、一言も発しない。その拳に爪が食い込む音だけが、夜の中で微かに響いた。


 飛梅は誰の顔も見られなかった。


 視界の端で、灯籠の火が風に消えていく。


 ――冷たい。


 自分の心臓が、もう他人のもののように遠くにあった。


 そのとき、御簾の奥から声がした。


「ふふ……主もヒルコかえ」


 皇の声は柔らかく響き、夜の海に溶けた。


 思わず、飛梅は顔を上げる。

 言葉の意味を測りかねながらも、反射的に背筋を正した。


 だが、周囲の誰も皇の方を見てはいなかった。誰一人、声を聞いた様子もない。


 ただ風だけが、御簾をかすかに揺らしていた。


 飛梅はその違和感を、波音のせいだと思った。


 そう――このとき、まだ。


 艦が波に揺れ、灯火がまたひとつ消える。


 やがて甲板には、鎖の音と、遠くで笑う少女の声だけが残った。











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