15. 糧母神斎藤シノ
斎藤詩乃は、食べることが大好きな32歳のOLだった。
バブルが弾け、長い不況が続き、日々の暮らしから徐々に富は失われていった東京で、彼女にとって唯一の楽しみは「食」だった。
それは手の届く贅沢として、彼女の小さな希望を支えていた。
たとえ地味に働いていたとしても、銀座で寿司に舌鼓を打ち、目黒で焼き鳥に感銘を受け、神楽坂でフレンチに酔いしれる、そんなごほうびくらいは手が届くのだ。
食べることには、誰にとっても、等しく豊かさを感じる力がある。食は平等だと、詩乃は信じていた。
かつては人々は車や海外旅行といった派手な消費に憧れた。しかし、もはや日常となった不況の影はそうした欲を若者の中から自然とそぎ落としていった。
その代わりに東京の食文化はかえって研ぎ澄まされ、世界でも類を見ないほどの繁栄を遂げた。
詩乃はその栄華を堪能し続けた。
家族や恋人、友人とではない。彼女にとって食の味わいに、会話は不要だった。それほど真摯に食と向き合い、たった1人で名店の門を潜り続けた。
東京にはそれが許される自由があった。
東京が初めて「世界で最もミシュラン星付きレストランが多い都市」として認められたのは2008年。そのミシュランガイド2008が刊行された2007年、ついにパリを抑えて世界一の星付き都市になったのだと本屋から本を読みながら歩き出した詩乃は大型トラックに轢かれるーーところで、ミカド皇国に転移した。食文化が残念極まりなかったミカド皇国へ。
当時のミカド皇国の食は、常に人々を苦しめるものだった。
米は痩せ、パンは固く、肉は臭みを帯び、野菜は土の味しかしない。さらに数年おきに訪れる飢饉は、数千の命を奪っていった。
斎藤詩乃は怒った。
転移した初日に、ミシュランガイドを抱きしめて泣きながら怒った。
それは一国の運命を覆すほどの、かつてない怒りだった。
彼女は水系能力ーー後に絶対食感〈ゴッド・タン〉と名付けられる能力を目覚めさせた。
その舌は、一度食べればその料理を形作る全てを見抜く力を持っていた。孤独にグルメと向き合い続けた時間は、彼女の頭に正確な記憶も残していた。
塩の加減、米や小麦の質、火の入れ方。
その力は食の全てに及び、「本来あるべき味」を詩乃は言葉と手で再現してみせた。
渡来した日本人が最初に受け入れられる高級宿泊施設の厨房で彼女が作ったパンはふんわりと香り、バターは官能的な滑らかさで、民の舌を初めて喜びで震わせた。
彼女の革命は、能力を持たぬ平民だけに食を任せなかったことで加速する。
シノはまず、対屍人戦では注目されていなかった非攻撃系や、生産の場で重宝されていなかった者達の中から優秀な能力者を次々に見出した。
一年かかる栽培を数日に短縮できる草系能力者に種を開発させ、土系能力者は肥沃な大地を開墾し、動物を操れる操獣能力者は家畜を改良し、戦闘には参加はできないレベルの索敵を行える者達がソナーとなって水産も変えていった。
神の舌が訪れ、たった一年でミカド皇国から飢饉はなくなった。
彼女の能力は、ただの美味ではない、生死を分ける糧を創り出すものだった。
すぐに国は彼女を神として祀り上げ、ミカド皇国の食糧庫には必ず『糧母神シノ』のレリーフが飾られるようになる。
人々は初めて、食は生きるためだけでなく、人を幸せにするものだと知ったのだ。
詩乃が渡来して20年。コロナビールの味と共にアルパストール、タコス、ワカモレといったメキシコ料理を再現することに熱中していた彼女を情熱的に口説き、妻にしたのが神保ガンズだった。
目指す味に欠かせないライムを育てる畑を探して、育て上げた能力者軍団『チームミシュラン』と共に南方を調査する旅に護衛として帯同したのが始まりだったという。
「本当にねぇ、大変だったのよ。20年前は丁度カグヤちゃん……あ、バベルに腰入れしたあの子のおかげで、転移陣が急速に増えてた頃だったけど、どこにでもいたのよ! この人。最初は立派な局長さんだと思ってたら、実はストーカーだったのよ!」
バシバシとベッドの上の夫を笑いながら叩く糧母神シノに、若い2人は顔を引き攣らせて曖昧に頷いた。
ミカド皇国に渡来した日本人は長い生を生きる。
斎藤詩乃も渡来した50年前と風貌は変わらない。
すっと通った鼻筋と、静けさを湛えた切れ長の瞳。黒髪に白い肌。その輪郭は柔らかく、黄白色の浴衣に身を包んだ姿は古典絵巻に描かれる姫君そのものだった。
透明な水に月影が映えるような、静かで淡い輝きはミカド皇国の原住民には少ない「和風」と神格化される美しさ。
そんなシノは呆れたように、けれどどこか誇らしげに笑う。
「朝、買い物に出れば八百屋の角にいるし、夜に帰り道を歩けば橋の下に潜んでるし。私にはずっと護衛がついてくれていたのだけど、彼らよりうんと強かったから、いつもすり抜けてくるのよゴキブリみたいに」
彼女は肩をすくめて続けた。
「正直、当時は『この人、本当に大丈夫かしら』って心配で心配で。でもね、不思議なものよ。あれだけしつこく顔を合わせてるうちに、生活の中に溶け込んじゃったの。気がついたら結婚して、子供も産んで……ーーだからね、きっと目覚めるって、待ってられるのよ」
ねえ、起きたら? 後輩さんが来てくれたのよガンさん、と優しく語りかける夫は、白い入院服から見えている部分ーー顔と手だけであったがーーは全て、痛々しい噛み跡が残っていた。
事件は15年前の出来事だというのに、昨夜の出来事であるように生々しい傷だった。
しかし岩から彫り出したような無骨な巨体は、胸元が呼吸で動く様子はない。
「凍結、ですか……。局長の命を受けたときに極秘に話には聞いていましたが、こうして実際に拝見すると驚きます」
麟五が慎重に言葉を選びながら、シノに尋ねた。
水系感知もしているが、神保ガンズは全く魔力が動いていなかった。しかし、奥には魔力が残っている。確かに生きてはいるようだ。
「そうなのよぉ。東雲君が凍結してくれた日から見た目も変わらないの。不思議ね、さわっても冷たくなんてないのだけれど……」
そっと夫の手を撫でながら、シノは眼に涙を滲ませた。
「あの晩、ガンさんは最後まで仲間の帰還を信じて癒術班の東雲君を護っていたらしいの。でも最後に屍人に囲まれてしまってね。いっぱい噛まれて……仲間の方々だったから、判断が鈍ったらしくてねぇ。一度噛まれたら、おしまいでしょう? だから東雲君が魔力凍結してみたのですって。魔石にする、みたいなことらしいわね」
東雲玄斎の顔は、飛梅も知っていた。
六十路の白い医師衣に僧侶のような落ち着きをもった長身痩躯の小石川療養所所長だ。白髪の髷を結い、メガネの奥に宿る冷静な瞳が印象に残っている。
一方、白髪混じりの銅赤色の髪をした神保ガンズは40歳前後に見える。
だが、先ほどのシノの口調に引っかかるものを感じていた飛梅は素直に聞いてみることにした。
「東雲所長は、ガンズ局長の歳上の部下でいらしたんですか? その、見た目が……」
質問の意図がわからぬ麟五が慌てて制したが、シノはやんわりと止めて微笑んだ。
「リンゴ君、気にしないで。トビちゃん、そう思うわよね。違うのよぉ。東雲君は、あのとき20歳を過ぎたくらいだったわ。若き天才慰師でね。それなのにガンさんの凍結にありったけの魔力を使ってくれて、おじいちゃんみたいになっちゃったの。今はそれを治せる治療法もあるのだけれど、そのままでいいって……」
あの日、夜明けの深川は一面の灰に沈み、瓦礫と焦げた梁の隙間からなお燻る煙が朝露とともに漂っていた。
駆けつけた他局の特別消禍隊や役人が声をかけるも、東雲玄斎はその手を振り払い、ただ一人、瓦礫を踏み越えて進み出た。
局長の妻、シノの元へ。
衣は煤に汚れ、顔に涙の跡が残る彼女の前で、東雲玄斎は地に臥した。
『申し訳ござりませぬ。我が不徳故に、多くの御隊士を屍と化させ申した。この玄斎、もはや悔悟の言葉を尽くすほかござりませぬ。どうか亡き御方々を弔う慰者として、この身を差し出させていただきたく存じ奉ります』
申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬと地に額を擦りつけたまま頭を垂れる玄斎の言葉は掠れていた。
焼け焦げた風が吹き抜け、灰が舞う中、彼の声だけが沈痛に響いていたという。
「この凍結は、とってもお金がかかるの。ガンさんは全属性で一級だったから、生命を維持するために必要な魔力が多くて。死んだということにして、研究費用の名目で幕府から費用をとるということも、全部東雲君が考えてくれたの」
深川殲滅戦で壊滅した第七局の精鋭の生き残りは4名。
東雲玄斎
雪平ギル
西門バン
そして、神保ガンズ。
事件後すぐに東雲は退職し、研究者に転じた。雪平は五局に移り、小石川療養所の護衛を勤めるようになる。西門は百目頭目まで登り詰めた。
それぞれの場所で、後悔を抱えて。
彼らは、今日も神保ガンズの目覚めを待っている。
「--上野事変の日、何があったんですか?」
洋服の上から動きが見えるほどの激しい動悸が飛梅の胸を占めていた。
屍人の匂いを嗅ぎ分ける彼女の鼻は、この部屋に入ってからずっと独特の香りを捉えていた。
生命を維持されたまま、屍の甘やかな香りを放つ神保ガンズの姿は、失踪した兄のイメージと重なる。
「私がここに着いたときは、何も起きてなかったんだけど……事件が起きる直前にね、ガンさんの魔力が動いたって東雲君から連絡が来たの」




