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第零話:沈黙の九千日、白銀の檻


 視界のすべてが白く塗り潰されていた。


 木村陽平としての記憶を遡るとき、最初に脳裏を掠めるのは、鮮やかな新緑の匂いや校庭を駆ける土の感触ではない。


 それは、二十四時間絶え間なく降り注ぐ蛍光灯の無機質な光と、規則的な電子音が支配する、幅九十センチメートルの檻の中の情景だった。


 十歳の夏、僕の世界からは「重力」以外のすべてが剥ぎ取られ始めた。


 最初は、ただ人より早く息が切れるだけのことだった。

 夕暮れの公園で友人の背中を追いかけていたはずの視界が、不自然に地面へと沈み、肺の奥が焼けるような痛みを訴えた。

 駆け寄ってきた大人たちの慌ただしい影と、遠のいていく蝉時雨。それが、僕が「大地」を能動的に踏みしめた最後の一秒だった。


 それから始まったのは、退屈という名の拷問だった。


 病室の天井には、三千二百四十八個の微細な穴が開いていた。

 十五年という歳月をかけて数え上げたその数字だけが、僕がこの部屋で確かに生きたという虚しい証明だった。医師がシーツの端を整えながら告げる、

 感情を排した予後の説明。看護師が点滴の速度を調整する際の、微かな衣擦れの音。


 それらはすべて、僕という存在がもはや「生き物」ではなく、維持されるべき「現象」に成り下がったことを告げていた。


 窓という四角い額縁に切り取られた世界は、残酷なほどに美しかった。


 春になれば桜が散り、夏になれば積乱雲が空を削り、秋には街路樹が燃えるように色づく。

 けれど、その色彩のどれもが、僕の肌に触れることはなかった。僕を包み込むのは常に二十三・五度に設定された管理された空気であり、鼻を突くのは生命の匂いではなく、死を遠ざけるための消毒液の冷たい香りだった。


 十代の多感な時期、僕はスマートフォンの画面という小さな窓から、かつての友人たちが「人間」として育っていく様を観測し続けた。


 制服を脱ぎ捨て、恋を知り、未知の場所へと旅立ち、社会という荒波に揉まれていく彼らの躍動。画面越しに流れてくるそれらの断片に、「おめでとう」という五文字を打ち込む指先は、いつしか自分でも恐ろしくなるほどに痩せ細っていた。

 祝福の言葉を送るたび、僕の心には真っ黒な澱が溜まり、他人の幸せを喜ぶフリをすることでしか、己の尊厳を保てなくなっていった。


 二十歳を過ぎる頃には、肉体はすでに枯れ木のような静寂を纏っていた。


 かつて泥だらけになってボールを追いかけた足は、もはや自分の重みさえ支えられない細い枝に変わり、神経はただ痛みと倦怠を伝えるためだけの電線となった。

 二十四時間、自分自身の心臓が「まだ止まっていない」ことを電子音で聞かされ続ける苦痛。その音は、僕の魂を少しずつ、けれど確実に削り取っていった。


 寝返り一つ打てぬまま、僕はただ「存在」していた。

 もし、このベッドから這い出して、一歩でも外の大地を踏めるなら、この命と引き換えにしても構わない。


 雨に濡れる感覚を知りたい。


 誰かの肌の、管理されていない本物の熱を感じたい。


 機械が作り出すのではない、土と風と、生命が混ざり合った混沌とした匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。

 

 そんな、健康な人々が呼吸するように当たり前に行っている「生」への渇望が、僕の脳内で狂おしく渦巻いていた。


 二十五歳の春。

 窓の外で、淡いピンク色の花びらが一風の旋風に乗り、こちらへ向かって舞い上がった。


 それはかつて、僕が十歳の時に失った世界の輝きを凝縮したような、最後の一閃だった。

 

 胸の奥で、カチリ、と何かが止まる音がした。


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