夏の正解
小学生の頃の話。田舎暮らしの私にとって、夏休みの楽しみといえば、自転車のカゴに水筒を放り込み、近所の駄菓子屋へ向かうことだった。
同じ年ごろの子供たちは林や川で遊ぶのが普通だったが、私は虫が大の苦手で泳ぐこともできず、外遊びに積極的になれなかった。かといって家にいると『子供は外で遊びなさい』と母に追い出される。だから、小遣いをせがんで駄菓子屋へ行くことが、ちょうどいい逃げ道になっていた。
その日もスナック菓子を買い、店の脇の木陰に腰を下ろして、袋を開けた。ほとんど食べ終え、袋の奥に残ったカスを口に流し込もうとしたとき、ふと気づいた。
「ん? え、当たり!?」
袋の内側に、赤い文字で『当たり』と印字されていたのだ。驚いて袋を丁寧に裂いて広げると、そこには簡単な地図が描かれており、矢印の横には『ここの最上階!』と丸みのある文字で書かれていた。
はがきを送って賞品が届くのではなく、直接受け取りに来いということらしい。最寄り駅の名前も書かれており、ここから三駅先だ。自転車を飛ばせば、夕飯までには戻ってこられるだろう。
今の私なら『暑いし、もっと時間に余裕を持って行こう』と考えるだろうが、小学生の私はそんなことは微塵も思わず、ただ嬉しさに背中を押されるまま自転車にまたがり、全速力で漕ぎ出した。
駅が見えてきた頃、ポケットから例の地図を取り出し、現在地と照らし合わせる。『最上階』と書かれているからには、それなりに高い建物だろう。そう思ってあたりを見回すと、木々の合間に白くて細長いビルが突き出すように建っているのが見えた。
建物の前まで近づくと、妙に細長く、静かだった。入り口には扉がなく、脇にはコンクリートの階段が続いている。私は自転車を停め、水筒を肩にかけてビルの中へ足を踏み入れた。
誰かに見られるのは少し気まずい。なるべく足音を立てないように、そろそろと歩いた。エレベーターは見当たらない。私はいったん入り口まで戻り、仕方なく階段を上り始めた。
いったい何がもらえるんだろう? 段ボールいっぱいのスナック菓子だったら最高だな。口いっぱいに頬張っている自分を思い浮かべていると喉が渇き、水筒を取り出した。中身はスポーツドリンクだ。(うちでは夏の間は特にスポーツをしていなくても、持たせてもらえるのだ)
ゴクリ。そろそろかな、まだかな。ゴクゴク。まずはちゃんと挨拶しなきゃな。礼儀がなってない子だと思われたら、賞品をもらい損ねるかもしれない。ゴクゴク。まだかな。ゴクゴク。あ、もし今日が休みで誰もいなかったらどうしよう? でもここまで来たからには行くしかない。そろそろだな。緊張してきたな。ゴクゴク。まだかな。ゴクゴク。まだか……?
汗が額を流れ落ち、足はどんどん重くなっていく。なのに、一向に最上階にたどり着かない。
五階、高くてもせいぜい七階建てのはずだ。けれど、気づけば私はすでに九階以上を上がっていた。疲労で足がふらつく。背中は汗でぐっしょりだ。
暑い、暑い……。冷房もなければ、窓すらない。水筒の中身はすっかりぬるくなってしまった。暑い、暑い、暑い。
一瞬、ひやりと涼しくなった気がしたのは、引き返そうかと思った、そのときだった。
――もし、下にもたどり着かなかったら?
その考えが脳裏をかすめた瞬間、ぞっとした。怖い――。喉の奥が詰まり、泣きたくなった。私はただただ階段を上り続けた。そうするしかなかった。暑くて、怖くて、本来の目的も忘れ、下を向いてただ機械のように足を持ち上げた。
そうしているうちにふと、ぼんやりとした頭の中で『当たり』の文字が蘇った。
――アイスだったらいいな。
そう思った、その瞬間だった。目の前から階段がぷつりと途切れた。はっとして顔を上げると、代わりにまっすぐな通路が奥へと伸びていた。
全身の力が抜け、私は大きく息を吐いた。胸の奥に溜まっていた不安が、ひとまず薄れていく。よろめきながら通路へ足を進めると、曇りガラスのはめられたドアがいくつか並んでいた。
まずは一番手前のドアを開けることにした。ドアノブを回した瞬間、ノックすべきだったかと頭をよぎった。しかし、ドアがあっさりと開き、その先の光景を目にした瞬間、その考えは消えた。
「え……?」
そこは、狭く簡素な四角い部屋だった。窓が一つ、机が一つ。その机の上には、白い皿がぽつんと置かれている。そこから、ほんのりと白い冷気が立ち上っていた。
皿の上には、グレープ味の棒アイスが載っていた。
私は迷わずそれを手に取って、口にくわえた。ひんやりとした甘さが口いっぱいに広がり、火照った体と茹だった頭をゆっくりと冷やしてくれる。じんわりと心の奥から湧き上がる幸福感に、自然と頬が緩んだ。
アイスをくわえたまま、私はもう一度部屋を見渡した。やはり、他には何もなく、誰もいなかった。
静かにドアを閉め、踵を返して階段を下り始めた。
このアイスは、間違いなく私のために用意されたものだった。なぜなら、階段を上る途中、私が心から願ったとおりのものだったのだから。
これが賞品であることに、疑いの余地はない。けれど、誰がいつ、あの部屋に置いたのだろう? クーラーも冷蔵庫もないのに、アイスはまったく溶けていなかった。
誰かが先回りして、私が来るのを見計らって置いた? でも、なぜ私がアイスを欲しがっていたとわかったのか。あれはあの瞬間に思いついたものなのに……。
そんなことを考えているうちに、気づけば階段を下りきっていた。明らかに、上ったときよりずっと短かった。
わからないことだらけだったが、もう考えるのはやめた。夕焼け空と額を撫でる涼しい風が、そろそろ帰る時間だと、静かに知らせていたから。
私は自転車にまたがり、ゆっくりとペダルを踏んだ。乾いた地面に車輪が音を立て、夕暮れの田舎道にその余韻を残していった。
……ただ、今でもふと考えることがある。もし、あのとき『大金が欲しい』と願っていたら、いったいどうなっていただろうか。
もちろん、それを確かめる術はない。だから私は、あのアイスの味を思い浮かべ、あれは金では買えない特別な思い出だったのだと、思うことにしている。
◇ ◇ ◇
「準備はできているか?」
「はい、博士。でも、どうして……」
「まあ、気にするな。よし、問題なく送れそうだな」
「はい。ただ転送時には多少、空間に歪みが生じてしまいますが」
「たとえば、階段を上っても上っても最上階にたどり着けない……とかだろう?」
「え? ええ、はい。ああ、それは転送先の一つであるビルのことですか?」
「まあな」
「そっちは無人ですし、大きな問題にはならないでしょうが、もう一つは駄菓子屋ですね。大丈夫でしょうか?」
「店主は年寄りらしいから、少々の異変には気づかんよ」
「でも、なぜ駄菓子とアイスなんですか? 確かに、アイスはすぐに溶けるぶん過去に与える影響が少なく、実験には向いていますが、どうも博士は何かこだわりがあるような……」
「ふふっ、当ててみたまえ」
――すべての始まりは父の語った話と、二つの教えだった。疑問を追い続けること。そして、欲しいものは強く望むこと。そうして父は学位と母を手に入れ、私が生まれた。そして、この時空転送装置の発明も……。