第21話 それがいい、それでいい
「源四郎、お前はいつまでふわふわと浮ついているつもりだ。
このままで良いと思っているのか。
あの洛中洛外図はどうするつもりだ。
それに、将軍様の仇を取ろうとは思わぬのか」
自分の部屋で、絵筆を握ったまま動けなくなっていた俺の肩を掴み、信春は耳元で強く囁く。
たしかにこのようなこと、大声で口に出せるはずもない。
信春と言えど、さすがにそのくらいはわかるらしい。
と、ここまで自分の思考が回ったところで、信春の言が俺の心のなかにすとんと落ちた。熟した柿が木から落ちるように、なんの前触れもなくただ落ちたのだ。
そうだ。
仇を取らねばならぬ。我らは絵師だとしても、このままでは、あまりに虚しい。
あの洛中洛外図、当世の五指に入る絵師のうちの四名が、力を尽くし、込めきったものなのだ。将軍様の仇を取れる力、ないはずがない。
将軍様が亡くなってから、初めて俺にしっかりとした視界が戻ってきた。それまで水の中でものを見るような、そんな頼りない風景の中に俺はいたのだ。
改めて見れば、信春の顔はいつも以上に無精髭が伸び、頬も痩けている。こいつも、耐えられない思いを耐え、俺を引き戻しに来たのだ。
「信春、直治どのと小蝶を呼んでくれい」
「応っ。
ようやく絵師の目になったな」
「ほざくな。
仮にも俺は、狩野の棟梁ぞっ」
俺の言葉に、信春は高笑いをしながら部屋から出ていく。
俺はただ持っていただけの筆を置いて腕組みをし、仇を討つための手を考えだしていた。
「お前さま。
まずはこれを」
真っ先に俺の部屋に来た小蝶が、野蒜の酢味噌和えを皿に盛ったのを俺に差し出す。
「ここのところ、陸に食べていらっしゃいませんでしたから、精がつくものを、と」
「すまぬ」
しみじみとありがたい。
俺は、箸を持って二口食べたところで気がついた。
今、「お前さま」と呼んだか。
この間までは、「兄上様」だったはずではないか。
つまりは、そういうこと、なのか。
なら、一言言っておかねばならぬ。
「あの場の成り行きでは、そう言うしかなかった。
小蝶、お前も知ってのとおり、直治どのもお前に懸想している。真に、俺でよいのか。
相手があの松永殿とは言え、まだなんとしても話を合わせることはできるやもしれぬぞ」
「最初から、そう心に決めておりました」
小蝶の目は、まっすぐに俺を見ている。
情けないことに、俺の方がその圧に負けて目を逸らした。
「なぜだ。
俺が狩野の棟梁だからか。
なら、俺は小蝶、お前の期待を担えるだけの器は無いやもしれぬぞ」
俺は口ごもりながら言う。
俺が、直治どのの歳のとき、あれほどの器があったか、それは俺にもわからぬ。ひょっとしたら、負けているやも知れぬ。
歳下は怖い。
俺の姿を見て、俺を越えようとすることができる。だが、年長の俺は、取った歳を巻き戻してやり直すことはできないのだ。
だとしたら、直治どのの方が俺より大きな男になるやも知れぬではないか。
小蝶の含み笑いに、俺は視線を合わせて問う。
「源四郎様。
あなたは、父上から棟梁の座を譲られる前から、棟梁たらんと日夜生きておいででございます。棟梁の源四郎様ではなく、棟梁たらんとしている源四郎様に小蝶は惚れ申しました。
この小蝶、人の器の大きさなどわかりませぬ。ですが、棟梁たらんと日々励まれている源四郎様の器とやらが、今も大きくなり続けていることだけはわかります」
「……」
情けない。
小蝶の言に、俺は言葉を失っていた。
そう、棟梁たらんとして俺は生きてきた。小蝶の言うとおりだ。
狩野の家を守り、派を守り、そのためには人の道としてどうかという決断もしてきた。
人ではできなくても、棟梁であればできる。そのように生きるあまり、結果として俺が本当はどういう人間なのか、今や自分ですらよくわからない。
だが、そういったこともすべてひっくるめて、小蝶は、それがいい、それでいい、と言ってくれたのだ。
これはもう、過分のことではないか。
第22話 決着
に続きます。




