第9話 隠居宣言
関白様は見証(※)を続けた。
「さて、三枚目じゃ。
この鳥は、ほんに愛いのう。
先程も申したが、障壁画はともかく、麿にだけの扇絵は、是非にも描いて欲しいもの。
名告るがよい」
そこで、中堅の絵師が平伏したが……。
「……お許しくだされ」
それだけ言って、名告ることもなく平伏したまま後退っていく。縁から庭に落ちかけて、ようやくその身体の動きは止まったが、これはただ事ではない。
顔色は土気色となり、熱い汗か冷たい汗か、額から首まで滝のように流れ、襟はぐっしょりと濡れている。
宗祐叔父が声を掛けた。
「これ、石見大夫、どうしたのじゃ?
せっかくの関白様からのお言葉ではないか。しっかりお応えせよ」
「お、お許しを」
ついに、平伏をこえ、這いつくばってしまった。
異音が聞こえると思えば、恐れのあまりか歯がかたかたと鳴っている。全身が震えているし、もはや刀を持った賊の前で命乞いをしているようにしか見えぬ。
石見大夫は、石見の国から来た男という意味で、そのまま名前代わりにそう呼ばれている。
地方から上洛してきた者たちの中には、実の名よりもそのような呼ばれ方の方が地縁を活かせて有利という者もいる。京の町で名告るだけで労せずして同郷の者が見つけられるのだから、めずらしいことではないのだ。
そこで、父が平伏し言葉を発した。
「大変に申し訳ありませぬ。
どうやら、この者、替え玉であったような。この者の画風、師たる手前、知り尽くしております。ここにあるこの絵、決してこの者の描いたものではございませぬ。
ただ逆に、派を統べる者として描いた者もわかり申しますし、併せて名のり出られなかった理由もわかり申します。これは我が狩野の家の恥、どうかお許しを」
そう言って父が平伏したので、俺もわけもわからぬまま同じく平伏した。
「……そういうことか。
その方、どうせ選に洩れると高を括り、不埒にもこの場だけ切り抜けられればと思うたか」
関白様のお言葉に、怯えきった石見大夫は必死で頷こうとする。
だが、すでに額は床に擦り付けられているため、穴でも掘らねばこれ以上頭は下げられぬ。結果、うなじが何度も持ち上がるだけだ。
宗祐叔父すら絶句している中、平伏したままの父の声だけがこの期に及んでも動じずに響いた。
「関白様。
恥を忍んで申し上げまする。おそらくはこの絵、描いたは我が娘、小蝶にございまする」
「なんと……。
狩野の血は争えぬものよな。娘でありながら、これほどのものを描くとは……」
俺も息を呑んでいた。
小蝶め、いつの間にここまで腕を上げたのか、と。そして、大画を一度も描いたことがない弱点を突かれるとは、と。見抜いた関白様の眼力の確かさには、恐れ入るしかない。
もしかしたら、関白様は日々、優れたおのれの力を持て余していらっしゃるのやもしれぬ。その発散が鷹狩であり、乗馬であり、武将との交流なのではないか。
またそれは、今日の酔狂とも呼べる絵競いの見証にも繋がっているのであろう。
「誠に申し訳ございませぬ。
関白様にお仕えする者を公正に選ぼうと、誰が描いたかわからぬよう手順を決めたことが裏目に出てしまいました。これは、ここにいる宗祐すら、公正を期す取り決めのために知りえなかったこと。
重ねてお詫び申し上げますが、すべての責はこの狩野直信にあることは明白。家督を譲り、この身を隠居させ償いとうございます」
そう言った父が、再び平伏する。父は小蝶だけでなく、宗祐叔父をもかばったのだ。
一歩遅れてその場にいた我ら、父に従って全員が平伏した。
「直信、狩野の家は盤石よの」
関白様のお言葉に、父がさらに頭を下げた。関白さまの言葉は唐突にも聞こえた。だが、その真意はわかる。父の隠居という逃げの一手に対する皮肉も、隠し味程度には隠されていよう。
「女子は、おおっぴらには絵師にはなれぬもの。その女子ですら、狩野の家の者はここまで描くとは、の。だが、これを見れば認めざるをえまいよ。
おまけに、この最後の一枚も其方の息子のものであろう。すでにこの場に残った者、其方によく似た息子しかおらぬではないか。
これ、名はなんという?」
御下問を受けて、俺は平伏して答えた。
※見証 ・・・ 審判
第10話 父の腹芸
に続きます。