第8話 新参絵師の名
関白様のお言葉は続いた。
「だが……。
他の絵を見てから戻ると、どうしたことか、今度は目が離せぬ。
見ても見ても飽きぬ。
花鳥が他の者を圧して華美に、愛く描かれているわけではない。全体の姿は突拍子なところもなく落ち着いていて、つまらないとすら言える。つまり、見なければ見ないで済む。
これは他の絵にはないものぞ」
それはそうだ。
公家である関白様の好みを考え、武家や寺社の好みとは異なるものを描いた。また、屋敷の障壁画を注文されるわけだから、俺は近衛家の生活の間を彩る絵を描いたのだ。
床(の間)に飾る一幅の絵を描けというのであれば、俺はそれに相応しい渾身の絵を描く。武家が家臣に睨みをきかせるための城の襖絵であれば、相応の怖さのあるものも描こう。
だが、これは違う。襖絵にいちいち目をとられていたら生活ができぬ。
「これを描いた者は、おのれがなにを描くかを知っておる。つまり、これに限らず、どのようなものでも描き分けられるということであろうな。
そう思って見れば、見れば見るほど飽きぬというのも、この者の手の内に落ちたということかもしれぬ。
そこが、ちと腹立たしい」
お褒めの言葉ではあるのだ。
だが、「腹立たしい」という言葉は、俺を安心させなかった。
ただでさえ、なにを言われているのか真意を推し量りにくいお公家様の中でも、関白様はさらにわからないお方だ。言葉は他のお公家様より明瞭で武将のようだが、腹ではなにを考えていらっしゃるか別の話だ。心の隅々まで武将でないなら、やはりそのお言葉は口から出たとおりの意味ではなかろう。
それなのに公家の枠に納まらないお方なのだから、「そんな手に乗ってたまるか」と思われたらそれで終わりかもしれない。
思い返せば、今までのお言葉、すべてがそうだ。
全員の絵に対し、お褒めの言葉を発しながらも、決して手放しの褒め言葉だけではない。どれも褒められ、どれも足らない場所を鋭く指摘されている。結果として、誰の絵が一番良いのかは語られていないのだ。
だから、それぞれに話されたときは決定かと思わされたが、最後になるとまたわからなくなっている。
「では、答え合わせと行こうか。
まず一枚目、雪舟もかくやというこれを描いたのは誰じゃ?」
ここで、肥前国から来た俺より年下の新参絵師が平伏した。
俺の口から、驚きの息が漏れた。
俺ばかりではない。そこにいた者で、答えを知っていた宗祐叔父以外は皆驚いただろう。
まだ前髪の残る元服前の歳で、雪舟もかくやというものを描くとは……。
「名はなんという?」
関白様の直接の御下問である。
「肥前国籾岳城の城主、原直家が次子、原直治でございまする」
「見事じゃ。
絵の厳しさは、若さの現れかの。原直治の名は覚えておく。まこと、先が楽しみじゃの」
と、関白様のお言葉である。
若年ながら身につけている立ち振舞いの見事さは、やはり育ちを映しているのだ。そこをも関白様は買われたにちがいない。
「次じゃ。
この二番目の才気は誰のものじゃ?」
ここで、能登国から来た俺より年上の新参絵師が平伏した。
「名告るが良い」
「能登国、七尾の長谷川信春にございまする」
「今までその名が京に届かぬは可怪しい。どのようなものを描いておったのか?」
「憚りながら、仏画を少々」
「なるほど。それで、自在に筆を動かしたくなったか?」
「仰るとおりでございまする」
なるほど、と俺も思った。
仏画はそこで独立しうる世界である。
様式が定まっていて、自由な形には描けない。その憂さをここで晴らしたのであろう。また、描かれた仏画は、絵自体ではなく描かれた仏に価値がある。かなりの才気ある者が描いたことは一目瞭然でも、その者の名が伝わらないことは往々にしてあるのだ。
着物の派手好みもこのあたりがあるにちがいない。
「うむ、面白い。
仏画は障壁画のようには連らなって描かれにくいもの。胎蔵界、金剛界と曼荼羅を描いても二つじゃ。精魂込めて一枚を描く、というのがその方の今の本性なのであろうな。
ここまで絵というものが描く者の素性を顕わにするとはの。やはり、顔を見るというのは間違いではなかった」
関白様の言葉に、信春と名乗った新参は平伏した。
第9話 父の隠居宣言
に続きます。