第6話 これが京、そして洛中洛外図ぞ
膨大な量となった下絵を元に、俺は描く。
建物は様式があり、それに則って描けるからまだ良い。だが、京の人々は、どぎついまでに個性的で、その様式などに当て嵌めきれるものではない。
それが思いもよらぬ苦労であり、楽しみでもある。
清水寺の舞台から京の町を眺めている老若男女がいる。
その高い舞台に至る道を、息を切らせながら登る者たちがいる。
さらにその道へ続く五条橋を渡る者、その五条橋の下の夏の鴨川の岸辺を、女たちが集まってそぞろ歩いている。
川の中には鵜飼いだけでなく、直接自分で鮎を掴まえようと奮闘をする者がいる。
漁をしなくても、夏のことだから水遊びに興じる親子もいる。
遊びといえば……。
描きながら、遊びだけでも世にはこれほどの種類があるのかと思う。
路地で羽子板をついて遊んでいる者たちがいる。
相撲を取る者がいれば、それを見る者、囃す者がいる。
弁慶石を持ち上げあって力比べをする者たちがいると思えば、綱引きで遊ぶ子どもたち、振々毬打(※)で遊ぶ子どもたちがいる。
子供の遊びは動きが速い。その瞬く間を捉えるあたり、小蝶の目は確かだ。
それに、鶯合わせで鳴き声を競わせている武士や僧などもいて、貴賎を問わず人は遊ぶのだと思う。
信春と直治どのの下絵をも見ると、大人も子供も、本当によく遊んでいる。
遊ぶというのは、世が静謐でなければできぬことで、めでたいことではある。
だが……。
京の町のいたるところでこのように遊んでいる者がいるのか、信春と直治どの、小蝶が遊んでいる者を目ざとく見つけて描いたのかはわからぬ。
日々の糧を得るために、遊ぶ間などないという者が多いのは予想がつく。
だが、それでもなお、間を見つけて遊ぶのが人というものなのかもしれぬ。
このようなことでも考え出せば、日が暮れるまで考えられてしまう。
そして、描きながらあらためて気がつくのだが、京の町は美しい。
北野天満宮の梅の花、鞍馬の桜、芽吹く柳、菖蒲、夏の鴨川、そして、紅葉狩りの者たちが紅葉の枝を担いで嵐山渡月橋を渡っている。そして、雪の金閣寺。門松を用意する者たち。
紫宸殿では元旦の宴の舞楽が演じられている。
雪も降れば風も吹き、花が咲けば日も照らす。
花鳥風月の移り代わりを摑まえ描くのであれば、直治どのに一日の長がある。最年少であったとしても、だ。
その筆で紙の上に写された、京の町を流れる季節はことさらに美しい。
その中で、人々は信心をし、働いている。
寺では僧侶がお勤めをしているし、因幡堂の盂蘭盆会の精霊迎えに行く者もいれば、鉦を叩く者たちがいる。ぱあでれが辻説法すれば、その話を熱心に聞く者たちがいる。
揃いの支度で念仏踊りの一群がいると思えば、念仏狂言で顔を赤く塗った閻魔役が舞台で目を剥いている。
お火焚で、松の薪で神の依代の笹を燃やしている家があれば、こともあろか尻を剥き出してその火で温まって子供がいる。
御霊会の行列が行けば、それを拝む者もいる。
これほど京の都には、祈りというものがあったのかと思う。
それに加えて、圧倒的に多いのは働いている人々だ。
まずは職人衆、農民。
こけら葺きの屋根の修理をしている大工がいる。大工のまわりには、一緒に屋根を葺く者に屋根材を運ぶ者、はしごを登っている者もいる。
染物屋では染師が布を染めて干し、結桶師が桶の箍を締めている。鋏や剃刀の看板を上げている髪結床があれば、牛を飼う者もいる。
夫婦で種を蒔く農民がいれば、鍬を担いで道を行く者もいるし、麦が刈られれば、稲も刈られている。京の都には、耕すことを生業にする者も殊のほか多いのだ。
次に、商いをしている者たち。
馬の背に積まれた米が運び込まれ、下ろされ小分けされたものを買う客が絶えない米屋。男女の良縁を得るための御札を売る懸想文売り、桂女、手傀儡の人形師と、その後を追う女の童。
祈祷の依頼を待つ山伏に、かわらけを担ぐ振り売り。菜や瓜を売る者もいる。
そういった商いの中で、俺も下絵なしにいきなり描けるものがある。
狩野の扇屋だ。これまた当然のように、店は賑わっている。自分の関係する店を描くのだ。いくらか盛ったとしても良いではないか。
※振々毬打 ・・・ 毬を打ち合うホッケーのような遊び
あとがき
お読みいただきありがとうございます。
米沢市の上杉博物館にある、狩野永徳の洛中洛外図屏風、素晴らしいですよねー。そこに描かれているたくさんのものを列挙していくだけで2話です。
次話、
第7話 これが京、そして洛中洛外図ぞ 承前
に続きます。




