第3話 高みと妬心
小蝶は、俺らの中でもっとも忙しい。
小蝶は俺たちを気遣い、手伝いながら、家業の扇絵にも余念なく筆を走らせている。
その筆は円熟味を増し、愛い中にも描かれる生き物の本質を宿すようになってきた。鷹などを描くとき、愛さと眼光の鋭さとの共存の様は驚きと言ってよい。
これを見るたびに、俺は絵師として密かに嫉妬する。
小蝶の筆からにじみ出る愛さは、俺自身の筆にもなくはない。
祖父の筆にもあった。
でも、その愛さをためらいなく描ききれるのは小蝶なのだ。
小蝶が描く扇絵は、おそらく後世に残ることはないであろう。だが、洛中の人々の中に愛され、持たれるのはこちらなのだ。
つまり、使われるからこそ残らない。
本当に良きものは、使われてしまう。しまい込まれないし、予備に買われたとしても、その予備さえも使われてしまうのだ。
そして、使われることに意味がある。
結局は、派を支えるような日銭を稼ぐのもこちらの絵なのだ。これも、使われるからこそ、である。
現に、描くことを決めた洛中洛外図屏風など、本当に儲けが出るのか怪しいものだ。これほど気を使い、労力を注ぎ込んでいるにも関わらず、である。
そして、これは使われるようなたぐいの絵ではない。
だから残るだろう。
だがこれは、「もう一枚欲しい」とは決して言われない絵なのだ。
絵描きの欲を満たす絵ではあるし、満足はしている。だが、小蝶の絵のように愛されることはないのかもしれぬ。
この疑念だけは心に痛い。
信春の絵、直治どのの絵、こちらもともに、この2年の間に俺の届かぬところへ登りつめている。
もちろん、俺の絵も彼らの手には届かぬ高みに登ったと思う。
同じ粉本での修行がなかったら、異なる頂にいる者同士、このように同じ紙の一つの絵の上で語り合うこともできなかったであろう。
だが、いつの日か、それぞれがたどり着いた頂点をそれぞれで共有し、すべてを越えて融通無碍に筆を交わらせられる日が来るのやもしれぬ。
それができたときこそ、画道の悟りを得て、真の絵描きになれたということなのではないか。
俺はそう思うことで、自らの心に芽生えた嫉妬と痛みをねじ伏せる。
隣の家の柿の実は赤い。そう、いつだって、自分以外の者の方が恵まれて見えるのだ。
俺は狩野の棟梁だ。
どのようなときであれ、そのような嫉妬、おくびにも出すわけにはいかぬ。
棟梁には棟梁の仕事がある。
すべてを飲み込み、危険をも負う。それが、棟梁の仕事だ。
それを負うことで、みなの描く絵も救われるのだ。
結局、大名の城の障壁画などもそうだが、武家からの注文は実入りも大きいが持出しも大きい。ましてや描いたものが気に入られないとなれば、支払いがされないどころか命の危険すらある。
名誉なことではあるが、常に薄氷を踏む思いでもあるのだ。
かといって、この箔がなければ扇絵などの町衆相手の絵も売れはしない。売るためには値を大幅に下げざるを得ないだろう。そうなれば、足らない日銭に汲々せざるをえず、派を支えられず求美の心も失う。
俺の棟梁としての仕事は、皆の絵と共に狩野に欠かせぬ両輪で、派という大きな車を支えているのだ。
第4話 再来の三好殿顛末
に続きます。




