第10話 蛇(くちなわ)
小蝶めがいちいちすり寄ってくるのには、俺、心のどこかで辟易としていたはずだ。だから、いっそこの糞爺に渡してしまえば清々する。
そう考えても、おかしくはなかったはずなのだ。
だが、この糞爺に渡すくらいなら他国に逃がしても、いや、いっそ殺してでも渡さぬ。
決して、渡さぬ。
俺の頭の中で、なにかが切れる音がしたあと、俺はそう決めていた。
だが……、決めただけではどうにもならぬ。
この場でこの糞爺の喉笛に噛み付いたとしても、あっという間にずたずたに斬り刻まれて終わる。それでもいっそと思わぬではないが、まだ抵抗する手はなくもないはずだ。
「悪いようにはせぬ。
明日にでも連れてくるがよい」
このような話をしているというのに、糞爺の雰囲気は色ぼけの狒々爺ではない。
相変わらずに、蛇のようなぬめりと冷たさを身に纏い続けている。
この糞爺は、女を抱くにもその喉元に白刃を突きつけて、温もりなくことに及ぶのであろう。
そのぬめりが小蝶を汚すことを思うと、俺の中には無かったと思っていた激情が再び湧き上がる。
いつか、いや、すぐに殺す。
絶対に、俺が殺してやる。
固く固く、そう思う。
俺は、小蝶のことを鬱陶しいと思っていたはずなのだ。そう、そのはずなのだ。それに俺は、俺自身が小蝶に溺れるところなど見たくはない。落ち着くのだ。落ち着かねばならぬときなのだ。
だが、今の俺はどうしたというのか。
いや、そんなことはどうでもいい。今、考えることではない。今は、あいまいなままにうやむやにして逃げ帰ることだけを考えねばならぬのだ。なのに俺は、どうしてこう、俺自身を見失うほど猛っているのだろうか。
「妹は、絵筆を持つこと以外なにもできぬ娘にて、ただ、その筆を以って関白様にもお認めいただいております。
今、ご下命の絵を共に描いておりまして、それさえ終りますれば……」
「ほう、将軍様が、狩野に絵を命じておるのか。
それは、どのような下命なのだ?
わしのところに、その娘を差し出せぬと言うほどの話なのか?」
くっ、やむをえぬ。
今この場で話したくはないが、この場はなんとしても逃げ切らねばならぬ。
「大和絵の技は……」
「なぁ、棟梁。わしはそのようなことは聞いておらぬぞ。
どのような下命で、どこに使う絵なのだ?」
これではとても無傷では逃げ切れぬ。
だが、ここは蜥蜴の尻尾切りをしてでも逃げねばならぬ。さて、その尻尾はなににするかだ。
俺がその思案を始めたとき、屋敷内で凄まじい悲鳴が轟いた。屋敷の女どもになにかあったとしか思えぬ。盗賊か、それとも火の手でもあがったのか。
家来の者たちが、一斉に座を立ち走り出す。
さすがの松永様も腰が浮いた。
俺は、これ幸いと話を打ち切った。
「まことに良き話しながら、お取り込みのようなので、一度持ち帰らさせていただきたく。
それでは御免候」
俺はそう頭を下げると、さっさと逃げ出したのだった。
松永殿の屋敷を抜け出すと、俺は逃げるような足さばきで工房に向かった。
ともかく、早くここを離れたい。とはいえ、狩野の棟梁が走る姿を見られるのもよろしくない。
気は急くが、せいぜい早足に留めねばならぬ。そんな俺の横を、左介がけろりとした顔で息も切らさず歩く。歳の差を考えれば誠に腹立たしいが、それでも左介にはかなわぬという思いの方が強い。
俺は軽く息を弾ませながら、平然と歩き続ける左介に何が起きたのかを聞いた。
「何匹もの蛇が、女子たちの部屋に出たようで。まぁ、女子としては騒がずにはいられませぬでしょう」
なるほどな。
ともかく救われた。
運が良かった。あとで、どこぞの弁天様にでも鶏卵を供えようではないか。蛇は弁天様の使いと言うからな。
そう思いながら、俺は工房に帰り着いた。
水瓶から柄杓に五つも水を呷ると、ようやく落ち着いた気分になれた。安堵のあまり、あらためて息を吐く。
松永の、あの糞爺の顔を見る度に、十年から寿命が縮む気がする。俺は絵師だ。絵師だというのに、あの糞爺のせいで、それ以外のことばかり考えさせられる。まったくもう、これを迷惑と言わずなんというのだ。
ようやく棟梁の座に座り、工房内を見回すと信春がほぼ全裸で寝そべっていた。
さすがに叱咤しようとして、俺の中で生じた違和感がそれを止めさせた。
よくよく見れば、隣に水が滴る着物が干してありはするが、いつもの片身替わりの小袖の左半分がないのだ。
その右半分だけの着物で歩き回る姿を想像すると、ましてや左の落ち着いた柄がなくなり、残された派手な右半分だけだと、まさしく狂女の裸踊りの風情がある。安珍清姫、つまり「道成寺縁起」の清姫かとも思うが、乗っている顔が信春では様にならぬ。
だが、俺の顔を見た信春が口を開いた。
「毎日京の町をうろついておるとな、堀川あたりの蛇の冬眠の巣にまで詳しくなってな」
「……なんと」
つまり、まさか……。
第11話 悔し涙
に続きます。




