第9話 決して、渡さぬ
松永久秀殿、この方の機嫌は、外からではわからぬ。面の皮と内心がすべて重なるという者もいないだろうが、逆にここまで乖離している者もそうはおらぬはず。
「よく来たの、棟梁」
俺は、黙って額を床に擦り付ける。不機嫌ではなさそうだが、本当にそうかはわからぬからだ。
なんにせよ、余計なことを言わぬが吉なのは間違いない。
ただ、そのまま固まってもいられぬ。
頭を上げると、相変わらず松永殿、黒目なのか白目なのかがよくわからなくなるような、底光りする目で俺の顔を眺めている。
「忙しそうだの、棟梁」
重ねて声を掛けれられ、俺は観念した。
「皆様方のお引き立てを持ちまして……」
「……」
返事がない。
ただただ、じっくりと怖い目で表情を窺われた。
たっぷりとした間をとり、俺が冷や汗で下帯までを湿らせたころ……。
「此度の小田原での戦さ、小田原城内の話、誠に役に立った」
俺、再び頭を下げる。
軽い頭と思われても構わぬ。俺一人の首と命ではない。頭を下げて派を救えるのであれば、いくらでも下げて見せよう。
今回、小田原城内の怯えを松永殿に伝えたものの、結果として北条殿はしのぎきった。
それをもって、こちらから出た話が可怪しいと言われるのが一番恐ろしい。
あくまで、そう書かれた宗祐叔父の手紙をそのまま渡しただけではあるし、そこに小細工はない。ただ、どのような話であっても、それが正しかろうが間違っていようが、こちらに対して害意があれば言いがかりはどこにでもつく。
かといって、事前にこちらから言い訳を始めるような真似をすれば、さらに怪しさが増してしまう。
「ついては、だがな。
棟梁に礼をしようと思う」
「滅相もない。
松永様には、すでに十分にご恩義を受けております」
俺、そう言いながら額を床に押し付ける。
冗談ではない。
礼だの褒美だのと言われながら、それこそなにを押し付けられるかしれたものではない。
「棟梁、まぁ、そう言うな。
棟梁にとっても良き話だ」
「いえ、ただの絵描きのこの身にはもったいないことにて……」
そこまで言ったところで、不意に背筋に寒気が走り抜けた。
「ふん。
お前の親父は狩野の棟梁ではあっても、絵描きではなかったぞ」
ああ、なるほど、父のせいでここまで疑われているのか。
となると、父はこの化け物と互角に渡り合い、何度かは出し抜いたということだ。くわばらくわばら、と内心で唱えながら俺は再び平伏して、嵐が過ぎ去るのを待つ。
「いや、親父のことは気にするな。
実は他でもない、棟梁の妹のことじゃ。
たしか、小蝶とか言ったな。そろそろ年頃と聞く。
どうだ、この屋敷に預けぬか。わしが自ら教え育て、末には良き縁談を見つけてやろう」
……おい、なにを教え育てる気だ?
さんざ弄んで、飽きたら捨てると言っているよな?
俺の頭の中で、ぷつんとなにかが切れる音がした。
この糞爺め、許せぬ。
「重ねて申し上げますが、滅相もございませぬ。
絵筆を持つこと以外なにもできぬ娘にて、狩野の家の恥晒し。松永様の御前に出せるような者ではありませぬ」
「そうかな?
棟梁、もう一度考えてみよ」
そう言う声に、強いものが宿った。
「棟梁、いいことを教えてやろう。
長野業正を知っているか?」
「申し訳ありませぬ。
寡聞にして存じませぬ」
これは嘘だ。
俺は知っている。上野国は箕輪の城主。上杉殿の関東での尖兵であり、守りの要だ。
「武田殿が関東になだれ込むのを防ぐ、栓の役割を果たしてきた猛将であった。
隠されておるがの、死んだぞ。長野の一族の者では、到底武田殿に抗し得ぬ。
もはや上杉、こうなっては関東を取ることは叶わぬ」
……目の前の、この糞爺の言いたいことがわかった。
つまり、だ。
もはや細川管領家はなく、将軍様も孤立した。上杉殿ももはやこれまで。上洛など思いもよらぬ。関白様も、わざわざ関東にまで出向いたものの、もはや静謐をもたらすどころかそのお命すらが危ない。
御用絵師として将軍様に仕え、忠義立てしても、もはやどうにもならぬ。
小蝶をこの糞爺のおもちゃとして差し出せば、三好、松永の陣営に属するものとして、狩野の派の存続は許そう。
この糞爺の言いたいことは、そういうことだ。
第10話 蛇
に続きます。




