第7話 逡巡(しゅんじゅん)もやむなきこと
一年が経った。
洛中洛外図に描かれるであろう下絵は、うず高く積まれるまでになっていた。
信春も、直治どのも、小蝶も、もちろん俺も、暇さえあれば下絵を描き続けていた。
金泥を塗った屏風も仕上がっており、仕上げにかかることはいつでもできた。
だが……。
俺は躊躇っていた。
このまま描きあげて良いものかという、根本的な決断ができないのだ。
なぜならば、この一年の間にはさまざまなことがあった。
昨年の三月、将軍様の三好殿への御成とほぼ同時期に、長尾景虎殿は鎌倉にて関東管領を受け継ぎ、名を上杉政虎殿と改められた。
その一方で、小田原攻めは城内に入り込むまで北条殿を追い詰めながら、武田殿による領国侵攻の危機に包囲を解き、越後に戻らざるを得なかった。
その一方で、関白様は越後を離れ、上杉殿のあとを追って関東の古河城という城に居を移されたらしい。
最初は上杉殿と一緒に、関東を平定されるお心計であったのだろう。
ところが、この上杉殿の越後への帰還には、ご一緒されなかったと伝えられてきている。
上杉殿の留守の間の関東をお守りするにしても、上杉殿が引き続き軍神の如き強さを世に見せられ続けていれば、まだよかったのかもしれぬ。
だが……。
そうはことが納まらなかった。
九月になって、信濃は川中島で大いくさがあったのだ。
その噂で、京の町が騒然としたほどの、である。なにしろ、激戦の挙げ句、大将同士の一騎打ちに及んだというのだから常軌を逸している。
そして、どちらが勝ったとも言いにくい渾沌とした状勢のまま、双方が名の知れた武将を失いつつ軍を引いたというのだ。
これが噂にならない方がどうかしている。
さぞや、後世にまで語り継がれる名勝負ではあろうとは思うが……。
京の町衆、特にやんごとなき方たちと取引のある者の中では、このいくさの評判は極めてよろしくなかった。
大将同士の一騎打ちで勝敗がつかなかったのは、京の町衆にとっては良いことだった。
そもそも、大将同士の一騎打ちでどちらか片方が討ち死にしたとなれば、負けた方の国はすべてが終わってしまうのである。
大将というのはそれだけ重いものなのだ。
やはりこれもそもそもであるが、古の源平合戦ですら、そんなことはしていない。さらに遡って今昔物語に記された源宛と平良文の一騎討ちにしても、合戦とは呼べぬほどの小競り合いであったし、平将門の承平天慶の乱の頃の話で武士が政にさほど関わらなかった時代の話なのだ。
そして、このような突発的な事故とも言えるような国の滅亡は、桶狭間を引き合いに出すまでもなく、町衆たちの商いに大きく影響する。
武将に戦費を貸している酒屋土倉もいるし、刀槍、兵糧などを掛売りで売った者もいる。勝とうが負けようが、国が残れば取り立てはできる。だが、一騎打ちなぞで貸した相手が討ち取られてしまえば丸損だ。
そして、戦さ自体がこのような運次第の賽子勝負になってしまうのであれば、武将相手の商売はもはやできぬではないか。
そのようなことから、静謐なる世を作るための最も有力な武将であるはずの上杉殿の一騎打ちは、京の町衆からしてみれば暴挙としか思われなかった。さらに町衆の中でも口さがない者たちは、「小田原での負け戦を取り返そうと、あざとい真似をなさったんとちゃいますか」とすら言い放って憚らなかった。
関白様が上杉殿とともに越後に帰ることはせず、下総国の古賀城に残られて関東の安寧にご尽力されていることについても、町衆の間ではもはや報われないだろうという見方だけは一致していた。
そして、上杉殿との間に、秋(空き、飽き)の風が吹き出したが最後、関白様は京にお帰りになられるだろう。
それが、俺が本能寺で得てきたもっぱらの噂だった。
このような状勢になると、上杉殿への進物たるこの洛中洛外の屏風絵、当初の目論見どおりに使われることはもはやないのではないか。
つまり、狩野の派にとってこの絵は、今やお荷物以外の何物でもないのではないか。
ただ、当初から考えていたとおり、他の注文や下命にこの絵を振り替えることはできよう。だが、そうであれば、新たな話が持ち上がってから、新たな依頼主の心に沿うように仕上げた方が良いのは当然のことだ。
俺はそう逡巡(※)していたのだ。
そのような考えが俺を逡巡させていたのだが、そのときはまだ、いくさの火の粉が自分たちに直接降りかかってくるとは思ってもいなかったのだ。
※逡巡 ・・・ ぐずぐずしていること。ためらっていること。
第8話 呼び出し
に続きます。




