第9話 できることとできぬことがある
「だが、いざとなれば、俺は七尾に駆け逃げる。悪く思うな」
と、信春め、さらに続けた。
小蝶の目がくわっと開かれる。
とっさにその手を俺は抑え、小蝶が怒りを行動に移すのを防いだ。手近に投げるものなどないが、平手打ちぐらいはしかねないと思ったのだ。
まったく、小蝶は直情的で困る。
だが……、小蝶の怒り顔、そのうちに描いてみようか。この怒りとともに噴き出す精気を紙に写し取れるものか、絵師として試みてみたいものだ。
それはともかく……。
「そうしてくれ、信春。
拷問の責めを受けたら、俺は包み隠さずすべてを話してしまうだろう。なんせ、俺は軟弱な絵師にすぎぬのだからな。そして責めから逃げるために、お前に唆されてこの仕事を受けたと言うだろう。だから信春、お前は地の果てまで逃げ、逃げ続けるがいい」
「げ、源四郎、脅かす気か?
ふざけるな!」
「関白様のために働く我らは、もはや一心同体よ。責め苦の中でも庇うは容易いが、さて、庇えば庇うほど疑われようなぁ。なら逃げずに、申し開きした方が良いと思うのだが……」
「……とんでもない奴に見込まれたものだ」
信春、そう言って天を仰ぐ。
ふん、好きほど天井の木目を数えるがよい。祖父が言ったことには、死期が近いときの木目は格別の眺めらしいぞ。
「それより、信春。
三つ目の問いただしたき儀はなんだ?」
戯言はともかく、信春の決断に俺は安堵していた。
なんだかんだ言って、俺は信春の腕を大きく買っているのだ。
「先ほどの話の洛中洛外図とやらを、源四郎どのは将軍様の意を表す形で描きたいということなのであろうが、実際のところなにをどう描くつもりなのだ?
絵師として、俺にはできることとできぬことがある。できぬことをやれと言われても、この信春、どうにもならぬ。俺としてはこの仕事、受ける気ではあるが、その説明もなしに我々にこの仕事を受けるかどうかを決めろとは、無理難題にもほどがありすぎるとは思わぬか?」
これには、直治どのも小蝶も大きくうなずいた。
まぁ、たしかに俺も気が逸って、言葉が足らなかった。不得手なものは描けぬというのは仕方がなかろう。だが、これはそうではない。
「俺が考えているのは、祖父の洛中洛外図を極めて大掛かりにしたものを描こうということだ。御所にお屋敷、神社仏閣、名所旧跡にとどまるものではない。公家、武士、坊主にぱあでれ、町衆も職人、商人、働いている者から遊んでいる者まで、そして、老人から子供まで、果てしなく人を描こうと思う。もちろん、季節も春夏秋冬のすべてを切り取って描くのだ。
この風景の集まりこそが静謐なる京の都であり、それを実現する長尾殿が将軍御所に向かうところを描くのだ」
……誰からも、返事が返ってこない。信春も直治どのも、小蝶ですら目を見開いて俺の顔を凝視しているだけだ。
一体全体、どうしたというのだ。
改めて見やれば、三人の顔がそれぞれに変わっていく。
絵師として生きた歳の功か、信春が一番先に我に返った。修羅場を数多く見てきたはずの直治どのだが、絵師としての興奮には慣れていないのだろう。上気した顔で目を輝かせたままだ。
「正気か、源四郎?
描くこと自体はできなくはないと思う。だが、建物の姿を写し取るだけでも何年も掛かるぞ。ましてや、今の話であれば描く人の数も千を越えよう。屋敷の主を描くとなれば、まさか独りきりでいる姿を描くわけにもいかぬであろうから、従者まで描くとなれば二千、いやさ三千……」
「そのとおりだ、さすがは信春。
お付きの者も描かねばならぬのは当然のことだ。ゆえにこれは、かつて例のない大仕事となろうな。だが、大掛かりになればなるほど、絵の意は隠しやすくなる。なにをどう描こうと、それは絵師の意ではなく、そのときの京の風景としてあったことだと言えるからな。
だからこそ今、ここで皆にその真意を話し、助力を求めているのだ」
気がつけば、三人とも今や目がらんらんと輝きだしている。決してこれは喜びの目ではない。獲物を狙うけだものの目だ。やはりこの者たちは皆、骨の髄から絵師なのだ。京の今を正確に切り取って残す仕事をやり遂げられたら、その絵は間違いなく永遠に残る。そのような一世一代の機会、絵師として逃せぬと思っているに違いない。
ならここで、この三人の期待に応え、必要とされる仕事を伝えてしまおう。
第10話 そのようなことでよいのかっ
に続きます。




