第2話 祖父、倒れる
さて、俺のような根が気楽な男であっても、偉大すぎる祖父を持つと、ただ単に生きるということだけのことが際限なく厳しくなってしまうものだ。
俺が十六の歳のとき、その偉大なる祖父、狩野元信はついに倒れた。
狩野の家は、絵師としての襖絵などの依頼も引きは切らなかったが、それ以上に町衆相手の扇絵でも稼いでいた。これは祖父の始めた事業であったが、より儲かる形にするため、町衆の中で利権の確保に暗躍したのは父である。
俺の見るところ、父は祖父に画才では劣ったものの、商才では遥か上を行っていた。
一派を背負い、飯を食わせていくだけでも日々の出費は馬鹿にならない。また、良き色を出すためには良き絵具が必要になるし、当然のように良き絵具は高価なものだ。青など藍銅を使うとなれば、匙一つで米一俵もの値がする。まして、近頃の金泥を多用するようなものともなれば、下絵の段階からして膨大な資金が必要となる。
だが、すべてを前金でなければ絵が描けないなどというのでは、狩野の名が廃るというものだ。そこまで窮しているのかと問われるのも癪だし、仮にも依頼主である公家や武将を信用していないと取られるのも困る。
とは言っても、父の絵を見る目は確かであったし、豪放磊落な武家や僧に好まれるものはいくらか苦手としているようであっても、見ていて和むような小品は俺より、それどころか祖父より味があった。
そもそも京の町衆に好まれる扇絵は、父が原画を描いたものが多いのだ。
そして、その筆によって稼いだ金は、よからぬ目的にも使われていると俺は見ている。
父が何人の女を隠れて囲っているのか、俺は相当に疑っているのだ。現に、どこかの女に産ませた俺の妹が、同じ屋敷内にいるではないか。
その父が俺を呼んだのは、祖父に快復の見込みがないことが判明した秋だった。
「源四郎、話がある。
狩野の家の屋台骨は、我が父の作ったものだ。その父がいけなくなったとき、派を率いるにわしの力では足らない。天賦の才において、わしは息子のお前に劣る。だから、わしは早々にお前に家督を譲ろうと考えているし、それ以前からして工房と絵師たちについてはお前に任せたい。
わしは、引き続き五摂家、寺社、武家に顔をつなぎ、下命を受けられるよう働こう」
そう言われたからと、息子としては調子に乗って「はい」と頷くわけにも行かない。しかも、父の言はどこか奥歯に物が挟まったようであった。
「お待ち下さい、父上。
俺はまだ若輩。せめて、あと十年は父上の元にて」
俺は、ひとまずそう言って逃げた。
だが、父は許さなかった。
「わが父の余命、薬師より一月もないと言われた今だからこそ、お前は我が弟や狩野の名を名乗ることが許された高弟どもに勝るものを見せつけねばならぬ。
それを見届けてこそ、父も安心して逝けようというもの。父に幼少より可愛がられしお前ならばこそ、その力がある。狩野の家名はお前が守るのだ」
……ひょっとして父は、俺をけしかけているのか?
とはいえ、残り一月でなにができようか?
それとも、逆かもしれない。
父を侮る者たちが、祖父が倒れたのを機に良からぬ動きを見せているのかもしれない。父は、そのような人心を見るに極めて敏なのだ。
父が権門勢家に顔を繋いでいるからこそ、狩野は派として描けという下命をいただけている。だが、絵筆の真髄以上に、そのような機を見ることができる者は少ない。派を構える自覚もなく、権門勢家の好みを知ろうともせず、絵を単に芸や道楽だと思う者が牛耳を執れば狩野は潰れてしまうのだ。
「父上、なにをお考えで?」
声を潜めての俺の問いに、父はにんまりと笑った。俺が状況を察したのを悟ったのだろう。
この父の笑み、それだけを見れば祖父に生き写しである。俺も、歳を重ねるにつれ、このように笑うのやも知れぬ。祖父の臨終の際であろうとも権謀を巡らすのが父の性であり、この笑みはその証でもあった。
第3話 いざ、絵競いぞ
に続きます。