第20話 この無礼者どもめ
結局、信春に興を削がれた俺は筆を置いていた。
「源四郎どの」
「なに用だ、直治どの」
俺が筆を置いたのを確認してから声を掛けてくるとは、原直治どの、やはり育ちが良い。さすがは、一城の主の息子である。俺としても、信春に対するのと違って敬称を付けざるをえない。身分もあるし、なによりもその育ちの良さに敬意を示すのは、こちら側から示すしかるべき礼に依ってであろう。
聞けば直治どのは俺の四歳下。先日ようやく元服して前髪は落としたものの、その剃り跡は未だ青い。
父に師事しており、信春と同じく上洛組だ。
直治どの、年端も行かぬのに上洛しているのは信春とは違うわけがある。俺が生まれる少し前から備前国の情勢はあまりに不安定で、国主が家老に討たれるような騒動が繰り返されていた。妾腹の生まれの直治どのなど、うかうかしているとあっという間に殺されてしまうのだという。それも斬殺だけでなく毒殺もありだという話だから、いかに油断せずにいたとしても限界がある。
だから、京の都は直治どのにとって、わずかに心休まるところなのだ。
つまり、幼ささえ残るその姿に反して、直治どのは見なくても良いものを見ながら育ってきたのだろう。
そのような育ちのためか、信春と違い、その身にまとうものに派手さはない。
出家者かと思うほどの鉄黒の墨染の小袖で、黙々と筆を動かしている。
だがこれは、目立たぬことで身を守る心得からきているのだろう。だが、それだけではなかろう。
墨染は古布の極致である。
繕っては染め直し、繕っては染め直した結果、染め色は徐々に濃くなり、最後には汚れの見えぬ墨染にされるのだ。
だが、めずらしくこの墨染は繕ったあとが少ない。
絵を描けば、着物は汚れる。なら、最初から墨染で良いと考えたのであろう。直治どのは年若いのに合理の人なのだ。
その直治どのまでもが口にした。
「私も、この粉本につき、意味がわかり申さぬ。
非才なるこの身なれど、もはやこのようなものを描かなくても良いと思っているのでござるが……」
武士の子だけあって、言葉遣いが固い。
さすがに俺、この口調に合わせて反論するのが面倒になった。
このような不毛な言い合い、付き合っていてもなにも生まれぬではないか。
俺は手近な紙を二枚引き寄せ、それぞれに円を描いた。
「一枚ずつ進ぜよう。
粉本を描き続けることでここまで行くし、さらに先がある。これを見てなにも感じられぬのなら、その才は決して大成せぬ。筆を折れ」
面倒さが、俺にその言葉を吐かせた。
また逆に、この二人のことだ。この円から漂う香気と色気がわからぬはずはないという安心感もあった。
だが……。
直治どのは、ろくに見もせずに、ただ手付きだけは丁寧に紙を折りたたみ、無言で俺に背を向けた。
信春に至っては、一瞥したのみでなおざりに折りたたむと袂に入れ、あまつさえ聞こえがよしの舌打ちをして踵を返す。
……それはない。
それはないぞ。
祖父なり父なりの弟子でなければ、破門にしてやるところだ。
この二人、もう少し励んで狩野の運筆をものにすれば、我が身内として下命の障壁画の現場にも出せようし、京で暮らせる程度の賃銭も与えられようと思っていたのに。
俺の怒りが頂点に達し、口から叫びが転び出る寸前で、蛤の貝殻を何枚も括ったものが信春、直治どのの後頭部に飛んだ。
二人共、頭を押さえてしゃがみ込む。当たったところの烏帽子が凹んでいるから、相当の勢いだったに違いない。なんせそこそこの重みもあるし、痛かったのは確実だ。
そして……。
「兄上に謝りなさい!」
妹の小蝶の、いきなりの凶行とも言うべき実力行使である。そして、その犯行を隠そうともしない仁王立ちなのだ。
第21話 小蝶の威
に続きます。
挿絵は、花月夜れん@kagetuya_renさまにいただきました。
感謝です。




