第17話 絵師ならば、死しても残るものがある
それから、たった二日後。
祖父は旅立って行った。八十歳を超える大往生だった。
狩野の礎を築き上げ、画法を磨きあげてまとめ、工房を持ち、世に巨大な足跡を残して逝ったのだった。
俺は泣けなかった。
俺だけではない。皆、泣けなかった。
祖父の臨終の際には不思議なことが起きたのだ。祖父の手首を握っていた薬師が、その脈が止まったのを枕元に詰めかけた一族、高弟に告げた。……のだが、同時に神棚のある隣の誰もいない部屋から、いつものように祖父が柏手を打つ音が聞こえてきたのだ。皆が呆然としたのは言うまでもない。
挙句の果てに姿は見えぬものの、いつもの調子で足音は神棚の前から雪隠(※)に向かい、用を足す音まで聞こえてくれば、臨終の枕もとにいてもこれを笑わずにおられようか。まして、真っ先に笑い出したのは祖母なのだ。こうなってしまえば遠慮もヘッタクレもない。
もちろんそれだけではない。
祖父はやはり並の絵師ではなかった。ここには祖父の手による絵もたくさん残されていて、そこからは相変わらず大きな手とにんまりと笑う笑顔が俺には透けて見えていた。身体こそ埋めたものの、偉大過ぎる祖父の厚かましいほどの存在感は死してなお健在で、喪失感を覚えなかった。
陰膳など据えたら、普通に食べていきそうなのである。旨いの不味いの、言いそうなのである。
こうなると身体とは違うそれを弔うことなどできず、本人すらも死んだ自覚がないのだから、結果として死者に対する恐怖など生じようはずもなかった。
それは、その才と血を受け継いだと言われる俺だけではない。祖母も父も母も、数年しか生活をともにしていない小蝶すらも、祖父が滅していないのを感じていたのだ。
かくして、狩野の家の団結はそのまま保たれることになった。
結局のところ……。
芸は残り、人も残る。
死してなお、描いた者は描いたものの中に残り続けるのだ。
祖父は、最期に最後の教えとしてそれを残してくれたのだろう。
それから間もなく、関白様は越後に下向されていった。
下向される前、父と俺をお屋敷に呼び出し、こう告げられた。
「源四郎。
近々、足利殿から屏風絵の依頼があろう。よくよく準備をしておくのだ」
俺はその言葉に平伏したが、困惑してもいた。
そう仰られても、なんのことやらわからぬのだ。
狩野の家は、絵ならいつでも描ける。
岩絵具を始めとする画材の在庫もある。足らないものはいつでも仕入れができる。だが、関白様がわざわざ俺を呼び出して告げられたことだ。その言葉の真意がそんなことであるはずがない。
またその真意とやらは、依頼の秋がきたにしても、将軍様の口からはお聞きできぬことなのだろう。
「まずは、越後についてよく学んでおきまする」
これは俺に代わっての父の返事だ。
「さすが、ご隠居。
世の静謐は越後から成ろう。そのきっかけを作るのは、源四郎、そなたぞ。
今はこれだけしか言えぬ」
「心得ましてございます」
俺はそう言って、父とともに再度平伏したのだった。
その帰り道。
歩きながら、父が深く深くため息を吐いた。
「この依頼、受けずに済めばよいが、そうもいかぬであろうな」
ため息だけでは済まず、そう口から言葉が溢れ出た。
「なぜにございますか?」
俺は聞く。
腹芸は父には敵わぬ。なら聞いてしまったほうが早い。それに、こういうときに腹芸達者を前にして、わかった振りは禁物なのだ。
「関白様の下向、彼の地の長尾景虎に期待してのものであろう。かの者、日の出の勢いじゃ。将軍様のお声掛りもあり、先ほどの上洛の際には関東管領並みの待遇として、塗輿(※2)使用を許されておる。これはもう、実際に管領となるのも間近ということなのであろうよ。
だが、なあ……」
「だが……、とは」
なんとなく答えがわかった気がしながらも聞いてみる。
「源四郎、わかっているのに、いちいち言わせるでないわ。
力ある者の移り変わりは激しい。長尾殿がこれからの二十年、三十年と力を持ち続けられる者なのか……」
「父上、それは世の理に過ぎませぬ。父上が仰っしゃりたいことは、他にあるのではないかと推察いたしますが」
俺は、そう突っ込んだ。
「わかっているのに、いちいち言わせるでないわ」
父はそう繰り返した。
だが、そのあとの言は異なる。
京の都の往来の中、信頼できる父のお付きの小者、左介以外の誰かに聞かれるというわけでもないのに、俺たち父子は声を潜めあっていた。
※雪隠 ・・・ トイレ
※2塗輿 ・・・ 人間を乗せ人力で持ち上げて移動するための漆塗りの乗用具。ごく限られた上級武士のみが使用を許されていた。
第18話 我らは我らで生き延びねばならぬ
に続きます。




