表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

聖女の見えざる手


 母が病死したとき、オリヴィアの世界は更に暗くなった。三人の妹弟を抱え、酔っぱらっては暴力をふるう父親と共に暮らさなければならない。絶望だった。


 わずかな畑を耕し、近所の人の手伝いをして小遣いをもらう。お金は父親にみつからないよう、床の隙間に隠した。


 父親はめったに帰ってこない。その方がよかった。帰ってきたら、ひどい目に合わされるから。なぜ、父ではなく、母が死んだのだろう。なぜ、神様はわたしたちをこんな目にあわせるのだろう。

 お腹かがすいたと泣き喚く妹弟を前に、オリヴィアは神を恨んだ。



 酔っぱらって帰ってきた父が、隠していたお金を取ろうとしたとき、オリヴィアの怒りが頂点に達した。


「あんたなんか、いなくていい」

 オリヴィアは父を家から押し出そうとする。父はオリヴィアの髪をつかみ、平手打ちをした。


「わたしに触らないで」


 オリヴィアは父の手をふりほどき、思いっきり父の胸を押した。オリヴィアの手から白い閃光が放たれ、父親は跳ね飛ばされた。壁に当たって床に崩れ落ちていく。


 オリヴィアは頭が真っ白になった。死なれては困る。殺人者として牢屋に入れられたら、妹弟たちはどうなるの?


 オリヴィアは這うように壁に近づき、父の口元に耳を近づけた。かすかな呼吸音。よかった、生きてる。


「神様、うらんでごめんなさい。どうか、この人を死なせないでください。お願いします」


 父が心配だったからではなく、自分の保身のため、オリヴィアは必死に祈った。


 神がオリヴィアを哀れに思ったのだろうか。目を覚ました父親は、人が変わったように真面目になった。毎日朝早くから夜遅くまで、日雇い仕事に精を出す。酒も飲まず、暴力もふるわない。働いて得たお金で、食料を買い家に戻ってくるようになった。


 オリヴィアは、気味が悪かった。恐ろしかった。父が、父ではないものに変わったような気がした。


 ある朝、父が言った。


「さあ、みんな。荷物をまとめろ。引っ越しだ」


 訳が分からないまま、少ない荷物をカバンに詰め込む。父が借りてきた荷馬車に荷物を載せ、妹弟たちと荷馬車の空いている場所に座った。


 何日か旅をし、大きな街に着いた。父は迷わず、立派な建物まで荷馬車を進める。巨大な神殿の前で荷馬車を止め、門番に話をし、次に若い神官に何かを言った。神官はオリヴィアたちを見て、少し困ったような顔をしている。父が何度も頭を下げると、神官は渋々といった感じで頷いた。


 父に促され、オリヴィアたちは神官の後をついていく。天井がはるか遠くに見える大きな神殿。これから何が始まるのだろう。オリヴィアは妹弟とつないだ手を固く握った。いくつもの通路を通り抜け、扉の前で神官が立ち止まる。カギを開けて神官が振り返った。


「この中には聖女候補と神殿関係者しか入られません」


 神官と父親がオリヴィアを見る。


「しっかりやってこい」


 父親に背中を押され、神官と共に部屋の中に入る。オリヴィアは全身が冷たくなった。聖女候補とは、いったいどういうことなのか。意味が分からない。


「あなたに呼びかけてくる神具はありますか?」

「呼びかけてくる神具?」


 何を言っているのだろう、この人は。オリヴィアは神官を見上げる。神官の視線の先をたどると、ガラス棚の中に色んな物が並んでいた。


「これが、神具なのですか?」


 どれもこれも、古ぼけている。錆びた短剣、曇った鏡、木の器、くすんだ首飾り、茶色くすりきれた本、割れた盾、なんの変哲もない杖など。神具と言われなければ、間違って捨ててしまいそうな物ばかり。


 オリヴィアは注意深く耳を澄ませてみた。呼びかけられては──いない。静かだ。


「呼びかけてくる神具はありません」

「そうですか。では、出ましょう」


 神官はあっさり言う。やっぱりね、そんな表情だった。神官と共に部屋の外に出ると、父親が「それで?」と勢い込んで神官に尋ねる。


「残念ながら、娘さんには聖女の力は見受けられませんでした」

「そんなわけあるか。いえ、ありません。娘は俺の病気を治したのです。不治の病を」


「不治の病といいますと?」

「酒飲みという病気です。ちょっと娘と話をさせてください」


 父がオリヴィアを神官から離れたところまで連れて行き、小声でささやく。


「お前、ちゃんとやれ。お前が聖女だったら、家族全員が飢えなくて済むんだ。分かってんのか。ほら、やれよ、あのときみたいに」


 父がオリヴィアの脇腹を叩く。空腹と緊張の上に、突然の痛み。オリヴィアは吐き気がしてうずくまる。


「帰りの旅費はねえんだぞ。どっちにしろ、お前たちはここに置いていくからな」


 ああ、やっぱりこれは父親だ。クズで自分勝手な男。慣れ親しんだゲスの極み親父。オリヴィアはあのときの怒りを思い起こした。あの憤り、あの力。通路がまばゆい光で覆われた。


「この力は、間違いない。聖女様ですね」


 神官が打って変わって恭しい様子でお辞儀をする。カタカタと音がして、神官が部屋の方に目をやった。


「神具が、聖女様に呼びかけているようです。お迎えに行きましょう」


 もう一度部屋に入ると、ガラス棚の中で杖が揺れている。神官がカギを開けると、杖はオリヴィアが手を伸ばす前に、手の中に飛び込んできた。


***


 聖女と認定されてから、オリヴィアの生活は一変した。まず、父親がどこかに消えた。お金をもらい、子どもたちを神官に預け旅立ったらしい。オリヴィアはほんの少しだけ悲しかった。でも、妹弟たちが神殿の隣にある孤児院で暮らせるようになったので、悲しみより喜びが大きかった。もう、古いパンを分け合う必要も、ネズミに怯えることもないのだ。


 オリヴィアは神殿に個室を与えられたので、そこで寝る方がいいらしいけれど。孤児院の大部屋で妹弟と一緒に寝ている。母親が亡くなる前、妹弟のことをよろしくね、と何度もオリヴィアに言った。


「母さん、心配しないで。わたしがちゃんとみんなを守る」


 酔っぱらって暴れる父親はもういない。だから、大丈夫、きっと。

 今のところ、オリヴィアたちを殴る大人は誰もいない。でも、オリヴィアは油断しない。父だって、酔っぱらってないときは何もしなかった。酒は恐ろしい魔物だ。父を簡単に魔王に変える。


「お酒を水に変えることはできますか?」


 オリヴィアは先生に尋ねた。先生はふんわり笑って、「できるか試してみましょう」と言う。


 先生は「確か、もらいもののお酒をどこかにしまったはずだわ」とつぶやきながら、戸棚を次々開ける。先生は棚の奥から一本の瓶を取り出した。


「赤ワインがあったわ。これで試してみましょう。さあ、オリヴィア、どういう手順で進めるのだったかしら?」


 グラスに注がれるワインを見ながら、オリヴィアは急いで神様名鑑をめくる。分厚い神様名鑑は、聖女の必需品だ。これがなければ、どの神様に祈るか分からない。神様を全員覚えるなんて、聖女になりたてのオリヴィアには無理だもの。


「ええっと、お酒の神様はディオソーマ。水の神様はポセアノス。どちらも男神で女好き。聖女の呼びかけには応えてくれることが多い。ということは、女っぽくお願いすればいいのかな」


 うなりながら、オリヴィアはゆっくりとお祈りを書いていく。


「できました」


 間違った文字に線を引いて消したり、つけくわえた言葉を隙間に埋めたり、オリヴィア以外にはとても読めないかもしれない。それでも先生は、オリヴィアのたどたどしい文字でもちゃんと読んでくれる。


「定型文とオリヴィアならではの言葉がうまくまとめられていると思いますよ。いいでしょう、ではお祈りしてみなさい」


 オリヴィアは立ち上がり、杖を両手で握る。


「ツァウバー ツァウバー ジムザラビン

骨は骨に 血は血に 関節は関節に 酒を水に ディオソーマ

酒は陽気に 酒は元気に 男は魔王に ディオソーマ

骨は骨に 血は血に 手足は手足に 酒を水に ポセアノス

水は目覚めに 水は浄化に 男を父に ポセアノス

ホークスポークス ホップラホー」


 力を振り絞って杖に込める。何度も何度も祈って力を込めて、もういいかなと目を開けてみる。先生はいつもの柔らかな笑顔で、グラスを持ち上げひと口飲む。


「ワインのままだわ、オリヴィア」


 オリヴィアはがっかりして椅子に座る。うつむいているオリヴィアに、先生は優しい声で話しかける。


「どうして効果がなかったか、分かるかしら?」

「わたしが聖女としてまだまだだから?」


「それもあるわね。ゆっくり学べばいいのよ。他に何かあるかしら?」

「わたしの魔力が少ないから?」


「あなたの魔力は多いのよ。まだうまく使えていないだけ。そこは心配しなくていいわ」

 


 オリヴィアは魔力が多いと聞いて、顔を上げる。少しはいいところもあったのか。前に魔力がうまく使えたのは、えーっと。


「今日は怒ってないから、魔力がうまく出せなかったのかも」

「そうね、それはありそうね」

「もう一度やってみます」


 オリヴィアは立ち上がり、目をつぶる。酒を飲んだときの父親を思い出す。声が大きくなり、手で机を叩くんだ。


 大きな音がすると、オリヴィアはすぐに妹弟を連れて外に出ることにしている。どんなに寒くても、雨でも、真夜中でも。冷たいのは、痛いのよりはまし。


 オリヴィアが叩かれない代わりに、母が殴られるのだ。それは悲しい。でもどうしようもない。妹弟を外に置いて、父と母の間に立ったこともある。吹っ飛ばされて終わった。


 平手打ちされ、髪をつかまれる母を見るのは、苦しい。ほんの少しだけある、優しい父の思い出はどんどん真っ黒に塗りつぶされていく。


「どうして、父さん。どうして」


 オリヴィアは泣きながら呪文を唱える。手の平から父への疑問が押し出される。光を感じて目を開けた。先生が目を指で拭っている。まぶしかったのかしら。


「オリヴィア、よくできました。水にまではなっていないけど、もうお酒ではないわ。味わいのない赤い液体ね。おいしくはないですが、これで酔うことはありません」


 よくがんばりましたね。先生がオリヴィアの肩に手をおき、肩から腕に何度もさすってくれる。


「お祈りするときは、父さんのことを思い出せばいいんですね」


 オリヴィアが言うと、先生は困ったような表情で、「そうね。今はそれしかないのかもしれない」とつぶやいた。


***


「神様も、酷なことをなさいますわね」


 オリヴィアを教えるため、急遽呼び戻された元聖女ヨハンナ。長年聖女として働き、引退してのんびり余生を楽しんでいたのだが。旧知の仲の神殿長から泣きつかれたのだ。


『すごい逸材が現れたぞ、ヨハンナ。のんびり遊んでいる場合ではない。力を貸してくれ。傷ついた少女だ。うまく導かないと暴走する。祖母のように、優しく厳しく育ててくれないか』


 否とは言わせない、そんな勢いの手紙が届き、そういうことならと現場復帰したのだ。


 オリヴィアの第一印象は、かわいそうな子だった。栄養が取れていないことが明らかなやせ細った体。大人の顔色をうかがい、周囲の望む言動を瞬時に取る。


 食事風景はさらに哀れを誘う。本当に食べていいのか周りを見回してから、むさぼり食べるのだ。誰かに取られないか、怒られないか、早く早く。そんな内心が聞こえてきそうな勢い。


「野良犬みたい」


 他の聖女にそう言われ、恥ずかしかったらしい。それ以来、かき込むように食べることはしなくなった。


 しばらくオリヴィアを観察し、ヨハンナは神殿長に言った。


「聖女としての勉強よりも、先にすることがあります」

「というと?」


「人として、子どもとして、大事にされていると心と体で実感させてあげないといけません。妹弟も合わせてです。本来なら両親から与えられるはずだった愛情。それに近い情愛を受けるべきでしょう」

「任せる」


「ええ、やってみましょう。私の聖女人生で得た全てをオリヴィアに注ぎましょう」


 子どもたちも孫たちも、みんな大きくなり、ヨハンナの手を離れた。有り余る時間と愛情を、オリヴィアの傷を癒すのに使ってみよう。ヨハンナは決心した。


「オリヴィア、あなたとあなたの妹弟は、私が責任を持って守ります。だから、安心しなさい。私は決して裏切りませんから。なにせ、元上級聖女ですからね」


 小さな声で、はい、はいと答えるオリヴィア。時間をかけて、少しずつ距離を縮めることにした。


「平民だったとはいえ、聖女となれば貴族や王族とも対面することがあります。まずは食事をゆっくり味わって食べられるようになりましょう」


 一緒においしいごはんを食べる。オリヴィアは勘がいいので、少し教えればすぐに飲み込む。


「オリヴィア、好きな動物はなにかしら?」

「鳥が好きです。飛んで逃げられるし、少しのごはんでお腹いっぱいになるもの」


「そうなのね。では、この部屋に鳥が遊びに来ていると想像してみて。そうね、そこの椅子の背にとまっているの。鳥がビックリして飛んでいかないように、静かに食べることはできるかしら」


 オリヴィアは椅子を見つめ、それからはスプーンをお皿にぶつけることも、口を開けてクチャクチャ食べることもしなくなった。


「オリヴィア、頭の上に鳥がとまっていると想像してみて。鳥が驚かないように、優雅に歩くことはできるかしら」


 そう言うと、オリヴィアは背筋をきちんと伸ばし、グラグラせず淑女らしく歩けるようになった。


「オリヴィアは、本当に鳥が好きなのね。よくがんばっていますから、ご褒美に小鳥を買ってあげましょうか?」

「小鳥って買えるんですか?」

「貴族女性や裕福な平民は小鳥を購入して、鳥カゴの中で育てるのよ。温室で放し飼いにする人もいるわ」


 オリヴィアは目を丸くしていたが、すぐに何度も首を横に振る。そして、絞り出すように小さな声で言った。


「鳥は、外を自由に飛んでいる方が、幸せだと思います」

「まあ、そうね、その通りね。悪いことを言ってしまいました。ごめんなさいね」


 暴力をふるう父親に自由を奪われて育ってきたのであろうオリヴィアに、無神経なことを言ってしまった。

 ヨハンナは自分のうかつさを反省し、オリヴィアの聡明さに身の引き締まる思いがした。


***


「野良犬みたい、なんて、どうして言ってしまったのかしら。私って本当に意地悪だわ」


 私室で机に向かっていたキルステンは深いため息を吐いた。

 思わず言ってしまった、あのひと言は、一瞬で神殿中に知られることになった。キルステンの先生は、いつも通り穏やかな口調で聞いた。


「キルステン、あれはどうして言ってしまったのかしら? 反省しているようですけれど」

「ごめんなさい」


「謝罪はオリヴィアにすればいいのよ。聖女とはいえ、我々は神ではありませんから、間違うことは当然なのです。反省し、今後につなげればよいのです。それで、どうして野良犬みたいと言ったのですか?」


 こういうとき、先生は絶対にうやむやにはしてくれない。聖女は人の心の闇に熟知していなければならない。まずは、自身の中にある闇をまっすぐ見ること。いつもそう言われてきた。見たくはないけれど、キルステンは自分の中の暗い部分に目を向ける。


「嫉妬からだったと思います」

「オリヴィアの何に嫉妬したの?」


「貧しい平民が、賢者の杖を得たからです」

「よく言葉にできました。では、その嫉妬といつか折り合いをつけられるようになりましょうね」


 先生は、キルステンの醜い心を見ても、見捨てたりはしない。誰にだって、人に見せたくないところがあるのよ、そう言ってくれる。人の内面は複雑なものだと知っていて、もがき苦しんで来た人の方が、他者の痛みが分かる聖女になれるのだと。


「どうやって謝ればいいのかしら」


 キルステンが謝罪したら、オリヴィアは許さなければならないだろう。許しを強要するのは、ダメだろう。

 決めかねているうちに、オリヴィアの評判が高くなっていく。


「礼儀作法をあっという間に身に付けましたわよね」

「すっかり小さなレディですわ」

「魔法も順調に習得されているのですって」


「妹弟に礼儀作法や文字の読み書きを教えていたのを見たわ」

「お母さまがいないのですってね。おかわいそうですわ」


「お父さまはひどい人なのですって。たったひとりで、妹弟を守っているんだわ」

「苦労してきたのね。私には想像もつかないわ」


 いたいけで健気で努力家のオリヴィア、意地悪で高慢なキルステンという構図が出来上がってしまった。


「今更謝ったら、媚売ってると思われる。あああ、もっと早く謝っておけばよかった」


 キルステンは後悔する。


「そうだわ、そうなのよ。あのとき、さっさと謝っておけばよかったって、来月思うんだわ。だったら、今すぐ謝ってしまおう。かっこ悪いけど」


 キルステンはオリヴィアを尾行し、人目がないときを見計らって声をかけた。


「オリヴィア、お話があるの。時間をくださらない?」

「はい、なんでしょう?」


 オリヴィアのまっすぐな目に、キルステンは気おくれした。でも、もう先延ばしにはしないと決めたのだ。さっさと言おう。


「野良犬みたいって言って、ごめんなさい。傲慢で、失礼だったと反省しています。あの、許してくれなくて大丈夫です。ただ、謝りたかっただけなので。それでは」


 言いたいことをひと息に言って、しっかり深々と頭を下げ、キルステンは立ち去る。考えに考えた上で、これがキルステンの精一杯だった。臆病者と笑わば笑え。


「あの、キルステンさん」


 後ろから声をかけられ、キルステンは立ち止まった。胸が雷のようにとどろいている。勇気を出して振り向く。


「相談したいことがあるのですが」

「もちろんよ、なんでも言って。できることはなんだってする」


 キルステンは嬉しさのあまり、オリヴィアの手を両手で握ってしまった。細くて小さな手だった。


「あの、先生に聞けなかったことがあって。もしも、わたしに聖女の力がなくなったら、どうなるのかしら。ここを追い出されてしまうのかしら?」


 キルステンはオリヴィアの手が冷たくなり、震えるのを感じた。キルステンは、突然の問いに面食らったが、きちんと答えなければと過去の事例を思い返す。


「ええっと、貴族なら家に帰ることが多いわ。平民の聖女はあんまりいなかったけど。そうねえ、本人が望めばどこかの貴族家で働いたりできるんじゃないかしら。はい、さよならって追い出されることはないわよ」


「そうなんですね。よかったです」


 オリヴィアの手が落ち着きを取り戻す。オリヴィアは瞬きを繰り返し、ささやいた。


「もし、わたしが死んでしまったら、妹弟はどうなるのかしら? 下の子はまだ小さいから、働けないと思うの」


 キルステンは絶句した。少女のオリヴィアが、死ぬことを心配するなんて。しかも、自分が死ぬことではなくて、妹弟の処遇を気にかけるなんて。


「聖女の家族は保護されるから、孤児院にいられると思うわ。あとでこっそり私の先生にも聞いておく」


 オリヴィアの目を見て、キルステンは決めた。


「あのね、私の家ね、裕福な貴族なの。私のドレスとか宝石だって売れるの。もし、オリヴィアに何かあったら、あなたの妹弟は私が面倒みる。だから、死ぬことなんて考えないでよ、若いんだから」

「ありがとう。母が亡くなってから大変だったから。どうしても心配で」


「そうなのね。それでも、十代で死んだ後のこと考えるなんてきつすぎるわ。せっかくなんだから、今をもっと楽しまないと」

「そうね、そうよね。そうできればいいな」

「私が楽しいことをたくさん教えてあげる。だから、元気出してよ」


 オリヴィアがやっと笑顔になった。キルステンは、オリヴィアが笑っていられるように、できることはなんでもやろうと誓った。


***


 座学と魔法実習の日々が終わり、オリヴィアはついに実施訓練をすることになった。


「聖女の本分は癒しです。さあ、やってみましょうか」

 ヨハンナ先生が連れてきた患者はブタだった。


「ブタ、ですか」

「いきなり人を癒すのは怖いでしょう。まずは動物で。さあ、この子はどこが悪いでしょう」


 オリヴィアはおっかなびっくり、ブタに聴診器を当ててみる。トクトクトク、速い心音が聞こえる。さっぱり分からない。ブタを診察したことなんてないんだもの。何が正常で、何が病気なのか、違いを知らない。力なく頭を振るオリヴィアに、先生は朗らかに声をかける。


「がっかりしなくていいのよ。私だって最初は全く分かりませんでしたからね。数をこなせばなんとなく見えてくるものです。ちなみに、この子は健康体ね」

「まあ、てっきり病気のブタばかりなのかと思っていました」

「健康体も診ていないと、病気のブタと見分けがつけられないのよ」


 その日、オリヴィアは神殿が飼育している約二十匹のブタと対面した。どの子も、元気だった。


「明日はブタとニワトリですよ」


 先生に簡単に言われ、オリヴィアは気が遠くなった。オリヴィアはその日、ブタに押しつぶされる夢を見た。


 ニワトリはブタより数が多く、じっとしていないので、目の回るような忙しさだった。先生は、ざっと見渡しただけで、みんな元気な子と分かるらしい。オリヴィアは慎重に一羽ずつつかまえてじっくり眺めても、やっぱり分からない。


 ブタ、ニワトリ、牛、馬、ヤギ。オリヴィアは来る日も神殿の家畜を観察した。ひと通り、動物に慣れたとき、先生が「それでは、本格的な聖女の診断を見せてあげましょう」と言って、カバンの中から箱を取り出す。


「まだオリヴィアには見せていませんでしたね。これが私の神具です」


 先生がお茶のカップと受け皿を取り出す。オリヴィアは口をあんぐり開けた。先生はフフッと笑う。


「私もね、あなたぐらいの年の頃、このカップと受け皿に呼ばれたの。そのとき、そんな顔をしていたと思うわ」


 オリヴィアは慌てて口を閉じた。先生がカップを口元に近づけ、朗々と唱える。


「ザウム ザウス ザウゼヴィンド うまくいく

病気のブタは どのブタだ

イーネ ミーネ イチ ニ サン 紅茶の葉っぱで見極めろ

クカラ ムカラ バッハ 成功だ」


 先生はフーッとカップに息を吹きかける。紅茶の葉が花吹雪のようにブタの上を舞う。茶葉はまるで生き物のように渦を巻き、鳥が狙いを定めて急下降するかのように一匹のブタに積もった。


 先生は葉っぱが載ったブタの前に行くと、カップの中身を注ぐような仕草をしながら厳かに歌う。


「ハイレ ハイレ ジーゲン

七日間の雨

七日間の晴れ

すべてが元通り

ハイレ ハイレ ジーゲン

七日間の雨

七日間の雪

ブタはもう痛くない」


 先生はオリヴィアを振り返る。オリヴィアは一生懸命に拍手した。


「先生、すごいです」

「ありがとう。あなたもすぐにできるようになりますよ」


「まだ杖が使いこなせないのです」

「しっくりくるまでは時間がかかるのです。私もこの方法をみつけるまで、試行錯誤しました」


「父さんのことを思い出して、魔力を一気に出したらダメなのでしょうか?」

「魔力を無尽蔵に使っては、寿命が縮まりますよ。狙いを定めて、最小限の魔力を使う方があなたの体にいいのです」


 まだまだ道は遠い。オリヴィアは握った杖を見つめ考え込んだ。


***


「神具をどうやって使いこなすか?」


 すっかりなんでも相談できる仲になったキルステンに、オリヴィアは相談してみた。キルステンはおもむろにカバンから小さなホウキを取り出す。


「これが私の神具。持ち運びしやすいように小さくしているの。癒しをするときは、元の大きさに戻すわ」


 キルステンがホウキをひと振りすると、手のひらぐらいからキルステンの身長ぐらいの大きさに伸びる。


「すごい」

「慣れたらあなたもできるようになるわよ」


 キルステンは大きなホウキでオリヴィアの全身を撫でる。チクチクするかと思ったけれど、なんだか温かい空気に包まれたようだった。


「オリヴィア、あなた、足の小指が腫れているでしょう」

「えっ、どうして分かったの?」

「ホウキが教えてくれたわ。靴を脱いで見せてみなさい」


 オリヴィアは恥ずかしかったが、仕方なく靴とくつ下を脱いだ。小指は真っ赤に腫れている。


「オリヴィア、さては靴が小さいのね。ちゃんと言わなきゃダメじゃない。背が伸びてるもの。足も大きくなってるのよ。新しい靴をもらわないと」

「でも、私はまだ何の役にも立ってないから。靴をもらうなんてできない」


「変な遠慮はダメよ。これから何百人も癒すのよ。健康でなければ無理なんだからね。聖女が不健康で病人を癒せませんでしたなんて、そんなの許されないのよ」

「分かった。新しい靴をお願いする」

「素直でよろしい。では、癒し──」


 キルステンのホウキの先が、オリヴィアの小指をつつく。温かくなったと思ったら、一瞬で小指が治った。


「すごい、キルステン。歌わなくても治せるのね」

「これぐらいならね。大ケガだったら歌わないと治せないわ」


「キルステン、かっこいい。わたしもがんばる」

「オリヴィアなら、すぐできるようになるわよ」


 ところが、やってもやっても、オリヴィアは杖を使って癒しがかけられない。オリヴィアが落ち込んでいるとき、神殿に遣いがやってきた。


***


「命に優先順位をつける、ですか?」

「全員を助けられればそれが一番です。時間と魔力の問題で、そうできないこともあり得ます。ひどい話ですが、これが現実です」

「そうですよね、貴族と平民が病気だったら、貴族を先に助けなきゃいけないですよね」


 貧民として育ってきたオリヴィア。家畜以下の扱いを受けてきた。命が平等だなんて、思っていない。


「まずは身分。王族が最優先。同位の貴族なら、寄付金が多い方。きちんと規則が決まっています。私たちは規則通りの順番で癒すの。そうすることが、聖女自身のためでもあるのよ。遺族に責められても、規則ですからと言えれば、罪の意識が少しは減ります」


 そう簡単に割り切れるものでもありませんけれどね。先生は最後にポツリとつぶやいた。


「今回は、そういう事態にはならないはずです。聖女の要請人数も少なかったですしね。上級聖女がいますし、問題ないはずです。村に貴族は住んでいないようですしね」


 王都から少し離れた村で下痢や嘔吐の症状が増えてきているらしい。騎士団が魔物討伐の途中に立ち寄り、神殿に助力を求めてきた。実際の救助現場に立ち会うことは、オリヴィアにとって勉強になるからと、ヨハンナ先生が同行を申し出てくれたのだ。


 いまだに杖を使っての癒しができないオリヴィア。他の聖女の癒しをたくさん見れば、糸口がつかめるかもしれない。焦る気持ちをなだめながら、馬車の窓から外を眺める。


 たどり着いたのは、のどかな田舎の村だった。オリヴィアが住んでいた街よりも小さな村。


 上級聖女とヨハンナ先生が騎士団の隊長と話をしている間、オリヴィアは滞在先で荷解きをする。空き家を急遽、宿泊場所にしてくれたらしい。家具は最低限しかないけど、野宿よりはましだ。


 外に出ると、ヨハンナ先生が手招きする。


「騎士団の方たちが、病気になった人たちが使っていた水場を閉鎖してくださったの。水場が病原かどうか確認しに行きましょう」


 先生と一緒にいくつもの水場を回る。井戸、小川、洗濯場、泉。先生は神具のカップで水を汲み、カップの中で水をグルグル回す。


「どの水も問題ありません。でも、念のため煮沸してから飲むように村の人たちにお伝えください」

「聖女様、ありがとうございます」


 オリヴィアと一緒にヨハンナ先生の検証を見守っていた騎士が、笑顔で駈けて行く。

 先生は立ち上がると、「困ったわねえ」と言う。


「水がきれいなのは、いいことではないんですか?」

「いいことよ、もちろん。でも、病気の原因を見つけるまでは、安心できないでしょう。病人が回復したら、聞き取りをしないといけませんね。共通で食べたものがあれば話が早いのだけれど」


 先生とオリヴィアは、上級聖女が治療しているのを見学させてもらうことにした。伯爵家令嬢かつ上級聖女のエヴァは、若い聖女たちの憧れの存在だ。美しく、凛としていて、まるで女神様のように威厳がある。オリヴィアは息をひそめて隅っこからエヴァの癒しを食い入るように見つめる。


 エヴァの神具は天秤。ベッドの中で脂汗を浮かべている少年の上に、エヴァが天秤を近づける。何もしなくても、勝手に天秤が片方に傾く。


「イーネ ミーネ フロッシュバイン 魔法をかける

イーネ ミーネ フーナーカッケ さあ勝った」


 天秤が元に戻り、子どもの呼吸が静かになる。エヴァは次々と家を周り、淡々と呪文を唱え、いとも簡単に子どもたちを癒していった。


「エヴァ様の魔法、簡単な魔法でしょう。でも、それでいいの。それが一番いいのよ。簡単な魔法は少ない魔力で発動できるでしょう。使う魔力が少なければ、助けられる人も多くなるのよ」


 ヨハンナ先生が小声で教えてくれる。もっと難しい魔法を身につけなければと、必死で魔導書を読み込んできたオリヴィアは肩透かしを食らったような気持ちになる。


「あなたのしてきたことは決して無駄にはならないわ。広範囲に色んな魔法を学んだうえで、自分にとって最も魔力効率のいい呪文をみつけるの。急がば回れって言うでしょう」

「はい」


 そうか、無駄じゃなかったのか、よかった。オリヴィアは、もっともっと回り道をしようと覚悟する。


 子どもが目を覚ますまで、時間ができたので、オリヴィアは村を散策することにした。神殿では、訓練と妹弟の世話があるので、ほとんど自由時間がない。オリヴィアは、久しぶりの何もしない時間を楽しむ。


 しばらく歩くと、なじみ深い鳴き声が聞こえてきた。ブタが囲いの中で土をほじくっている。神殿では毎日ブタの診断をしていた。ブタにはすっかり詳しくなったオリヴィア。囲いをまたいで、ブタに近づく。

軽く撫でて毛並みがなめらかか、皮膚に張りがあるか確かめる。鼻はつややかなピンクで鼻水は垂れていない。目は石炭のようにピカリと陽気な輝き。


「はい、あなたは健康ね。では、次の子ー」


 オリヴィアはブタを手早く診て行った。囲いの奥の方に親子ブタがいる。母ブタと小さな子ブタたち。


「母さん」


 オリヴィアは昔の自分を見ているようで、目の奥が痛くなる。母ブタは警戒して、足で土をかく。


「大丈夫、怖がらないで。わたしは聖女だから。まだ見習いだけど」


 ゆっくりと近づく。母ブタは元気ね。


「あら、あなたの子どもたち、目が赤いわね。それに、口の周りがただれているわ。病気なのかしら。治せるかしら」


 オリヴィアは杖に力を込め、呪文を唱える。色々試したけれど、手ごたえはない。


「仕方がない。手っ取り早い方法で治すわね」


 オリヴィアは父のことを思い出す。母とオリヴィアが裁縫の手伝いをしてもらった、少ない賃金。ジャガイモの袋の下に隠しておいたのに、父にみつけられてしまった。何発か母を殴ったあと、父はそのお金を持って飲みに行った。怒りでお腹の中がグツグツする。そのグツグツを取り出し、子ブタにぶつける場面を思い描いた。


「治れ」


 オリヴィアの手から光が放たれ、子ブタが包まれる。光が消えたとき、子ブタは元気に飛び跳ねていた。


「やった」


 オリヴィアは母ブタと子ブタたちを撫でると、囲いを出る。


「ニワトリか牛がいるといいんだけど」


 何もしない時間を楽しむという、当初の目的をすっかり忘れ、オリヴィアは家畜を診断しようと歩き出す。ニワトリの声が聞こえたような気がしたので、立ち止まったとき、足に何かがぶつかる。下を見ると、オリヴィアの足に子ブタたちがまとわりついている。


「あら、あなたたち。囲いから出てきちゃったの? ダメじゃない、戻らないと」


 きっと、囲いの下を掘って出てきたのだろう。ブタは土を掘り起こすのが得意だから。

 子ブタたちをつかまえようとしたが、子ブタたちはオリヴィアの手をスルリと抜け、走り出す。


「あ、こら。待ちなさい」


 オリヴィアは急いで子ブタを追いかけた。


***


「危なっかしい子だな」


 騎士のサフィアスは、聖女見習いの少女が子ブタを追いかけて行くのを見て、舌打ちしながら追いかける。

 賢者の杖に選ばれた聖女がいるとは聞いていた。悲惨な過去を持つ貧民だとも。


「まさか、こんな村でお目にかかるとはね」


 ブタを杖なしで治癒したのには驚いた。まだ、杖に認められていないのだろうか。

 少女は村を抜け、どんな魔物がいるかも分からない森に入っていく。

 サフィアスは辺りを警戒しながら、後に続いた。


「待ってよ、こんな狭いところに行くつもりー」


 少女の悲鳴のような愚痴が聞こえてくる。速足で進むと、少女の靴裏が茂みの中に消えて行くのが見えた。四つん這いにならないと入れなさそう。サフィアスは一瞬ためらったが、すぐに膝をつき頭を下げて茂みに突入した。


「まあ、こんなところに泉があったの。えっ、もしかして、この水のせいなのかしら。あ、飲んではダメよ、あああ、癒し──」


 少女の声が聞こえたと思ったら、あたりが真っ白になった。




「あの、起きてください。大丈夫ですか?」


 頬に痛みを感じ、サフィアスは目を開ける。薄い青色の瞳、艶やかな黒髪、向こう側が透けそうなほどに白い肌。


「賢者の杖を持つ聖女、俺に一体何をした?」


 頭が割れるように痛む。サフィアスはもう一度、意識を手放した。


***


「申し訳ございません」


 オリヴィアは深々と頭を下げる。騎士団の隊長、エヴァ上級聖女、ヨハンナ先生は困惑した表情でオリヴィアを見る。


「話を聞く限りでは、オリヴィアがそこまで責任を感じる必要はないように思いますが」


 ヨハンナ先生が、他のふたりに視線をやる。


「子ブタを治し、子ブタに導かれて病気の原因だったであろう泉を発見。子ブタがまた水を飲もうとしたので、焦って泉に癒しをかけたところ、サフィアスが意識を失ったと。まあ、軽率だったとはいえ、不可抗力と言えるかもしれない」

 

 隊長が難しい顔でオリヴィアを見る。


「私が見たところ、泉の水は清らかになっています。元々の水質を調べていないので確信は持てませんが、あそこが病気の原因だったと考えられそうです」


 エヴァ上級聖女が言ったとき、扉が叩かれ、隊員が入ってくる。


「目を覚ました子どもに尋ねたところ、間違いありません。あの泉は子どもたちの秘密の場所だったようです。あそこで水を飲んでいたのは間違いありません」


「では、オリヴィアは汚れた泉を癒しの魔法で浄化したということでしょう。よくやりました、オリヴィア、と言いたいところですが。サフィアス殿が目を覚ますまで、褒めるのは待ちましょう」


 エヴァが言い、他のふたりは頷いた。


 じりじりと焦燥感にさいなまれながら、オリヴィアはサフィアスの意識が戻るのを待った。

 結局その日、サフィアスは目覚めなかった。オリヴィアはまんじりとしないまま、朝を迎えた。

 最悪な気分のまま起きて顔を洗う。身支度を整えて階下に行くと、先生は既に起きていた。


「オリヴィア、寝られなかったのね。目が真っ赤だわ。食欲はないかもしれないけど、朝食を食べましょう。村の人たちが卵を焼いてくれましたよ」


 オリヴィアは、村の人たちの好意を無にしてはならないと、無理に炒り卵をたいらげた。搾りたてなのだろう、泡のついた牛乳を飲むと、頭が少しはっきりする。


「サフィアス殿が、オリヴィアに会いたいそうよ。行きましょう」


 先生に連れられて、ブタの囲いのところまで行くと、柵の上に座っているサフィアスが見えた。


「申し訳ご──」

「オリヴィアさん、ありがとう。おかげで、大切なことを思い出した。それに、体中の古傷が全部消えた。君は、すごい聖女だ」


 サフィアスは柵から飛び降り、オリヴィアの手を握って一気に言う。オリヴィアは困ってしまった。


「オリヴィア、大丈夫? 私は少し離れたところにいますからね」


 先生がオリヴィアとサフィアス両方を交互に見ながら、ものすごい速さで囲いの反対側に行く。オリヴィアはさりげなく手を引っ込め、後ろ側に回した。


「俺さ、愛馬を亡くしたことがあって。どうして守れなかったんだって、自分が嫌いになった。その後に、魔剣を手に入れたんだけど。使う気になれなかった。この魔剣をもっと早く持っていれば、愛馬を助けられたのにって思ってしまう」


 サフィアスが背負っていた巨大な魔剣をオリヴィアに見せてくれる。


「君もさ、そうなんじゃないかと思って。お母さんを亡くしたんだって? 賢者の杖をもっと早く得ていれば、お母さんを助けられたのに、そう思っているんじゃないか?」

「そ、そんな」


 ことない、と続けようとしたけど、言葉にならなかった。サフィアスの言っていることは、当たっているから。オリヴィアは力を使うたびに、自分に怒っていたのだ。どうして、母が死ぬ前にこの力を使えるようにならなかったのだ。そしたら、父から守ってあげられたのにって。


「俺、気絶している間に、君のお母さんに会ったよ。お母さんが、君たちを守れなくて悪かった。ひどい人生を送らせてしまった、ごめんって。今は見守るしかできないけど、オリヴィアたちが元気そうなのを見ているだけで幸せだって」


「ウソ、ウソです。あなたはウソつきだわ」


 オリヴィアは耳をふさぐ。そんなことが、あるわけがない。都合のいいウソを吹き込まないでほしい。


「君のお母さん、青い鳥の中に入ってる。君の周りを飛び回ってるよ。見えない?」


 オリヴィアは周囲を見回す。もちろん、何も見えない。


「賢者の杖をしっかり持ってみて。もう、自分に怒りを向けないで。お母さんに言いたいことを言ってみて」


 オリヴィアは賢者の杖に力を込める。そこまで言うなら、言ってやる。今まで、言えなかったこと、全部。


「どうして? どうして姿を見せないの? どうして、あんな人と結婚したの? どうして逃げなかったの? どうして、わたしたちを置いて死んじゃったの? 母さん、会いたいよ、会いたい」


 賢者の杖から小さな光が立った。光の中に、青い鳥が浮かび上がる。鳥は激しく羽ばたきながら、小さな涙をこぼしている。


 ごめんね、ごめんね、オリヴィア、ごめんね。言葉が伝わってきた。


「母さん、守れなくてごめんね。わたしを許してくれる?」


 鳥はオリヴィアの肩に止まり、何度も頭をオリヴィアの頬にこすりつける。

 オリヴィアは、自分への、母への、父への怒りが少しずつ小さくなっていくのを感じた。


「賢者の杖、力を貸してくれる? 母さんやわたしみたいな目に合う人を、少しでも減らしたいの」


 オリヴィアは賢者の杖をしっかり握り、目をつぶる。小さい頃、風邪をひいたときに母が言ってくれたおまじない。


「リルム ラルム 賢者の杖

悪いものは もう消えた

ヘクセ ヘクセ」


 賢者の杖から放たれた光は、まっすぐ空まで上がり、そのあと放射状に散った。


***


「オリヴィア、大丈夫? 疲れてないか?」

「大丈夫。すっかり馬車旅も慣れたわ」


 オリヴィアは馬車の窓から外を見つめる。いい思い出がほとんどない、故郷の街。

 懐かしい小さな家の前に馬車が停まる。サフィアスが先に降り、オリヴィアに手を貸してくれる。

 オリヴィアは緊張しながら、小さな家を眺め、隣の家に足を進め、扉を叩いた。


「誰だい?」


 中から低い声がする。


「おばさん、お久しぶりです。オリヴィアです」

「オリヴィア? オリヴィアってまさか──」


 中から足音が響き、扉が開く。白髪まじりの茶色い髪、ずんぐりした体、長い鼻に、鋭い目。


「オリヴィア? 本当にあのオリヴィアかい?」


 おばさんの鋭い目は、優しく垂れ、オリヴィアの全身を見回す。


「なんてこった、こんなにキレイなお嬢さんになっちゃって。心配してたんだよ。急に消えただろう」

「色々あって、わたし聖女になったんです。やっとおばさんにお礼を言いに来れました」


「お礼なんて、あたしゃなんにもできなかったよ。ごめんよ、見て見ぬフリしてさ」

「いいえ、おばさんはよくごはんをくださいました」


「あんなの、残り物だよ。あたしにもっと力があったら、あんたのお父っちゃんをブン殴ってやったんだけどねえ」

「おばさんが気にかけてくれたおかげで、わたしも妹弟たちも生きてこれたんです。本当にありがとうございました」

「いやだよう。泣かせないでおくれ。さあ、中に入んなさい。汚くて狭いけどね」


 オリヴィアは中に入り、おばさんと話をし、最後に癒しをかけた。


「おばさん、また来ます。長生きしてくださいね。今度は妹弟も連れてきます」

「待ってるよう。元気でなあ」


 おばさんは、いつまでも手を振って、馬車を見送ってくれた。


「よかったな、オリヴィア。ずっと気にしてただろう?」

「自分の中から怒りが消えたら、見えてなかったものが見えるようになったの。色んな人に助けられてきたんだなって。恩返しができるようになって、嬉しい。今までは自分と妹弟のことしか考えらなかったから」


 オリヴィアはサフィアスの肩に頭を乗せる。杖を握っていない方の手を、サフィアスの手の中に滑り込ませる。温かくて力強いサフィアスの手。


「王都に戻ったら、オリヴィアを連れて行きたいところがあるんだ」

「そうなの? どこ?」


「神殿の近くに家をみつけた。結婚して一緒に住もう、オリヴィア。もちろん、妹弟も一緒に。部屋は十分ある」

「そうしたい。結婚して、みんなで一緒に住みましょう、サフィアス」


「色気のないプロポーズでごめんな。王都に着いたら、もう一回ちゃんとプロポーズするから」

「いいの、あなたらしくて、すごく嬉しい。サフィアス、ありがとう。大好きよ」

「俺なんて、オリヴィアに癒してもらった瞬間から、愛しちゃってるぜ」


 サフィアスがオリヴィアに優しくキスをする。賢者の杖がかすかに揺れた。


***


 この国には、伝説の聖女がいる。聖女が賢者の杖で初めて力を発現したとき、酔っ払って暴力をふるう人が国中から消えたそうな。飲み過ぎると、素面になるまで意識を失う人が続出したのだとか。


 元々はなんの変哲もない杖だったそうだが、今では青々とした葉っぱをつけた賢者の杖。長い杖の上部は丸くなっていて、中に止まり木が吊り下がっている。心の清らかな人には、止まり木でユラユラ揺れている青い鳥が見えるそうだ。


 青い鳥は、聖女の精霊らしい。誰かが非力な人に暴力をふるおうとすると、どこからともなく青い鳥が飛んできて、上からフンをまき散らすらしい。


 たったひとり、何もしていないのにフンまみれになる男がいた。聖女の父親だとうそぶくその男。王都に近づこうとしたり、聖女の父親だから金をよこせなんて言ったりすると、青い鳥が現れフンの雨を降らすのだ。


 最高位の大聖女となっても、騎士である夫とともに国を巡り続ける聖女。聖女は癒しを無償でかける。


「国から給与をもらっております。皆さんからの税金です。ですから、癒しの代金は不要なのですよ。でも、どうしてもということであれば、そのお金をご近所の困っている人に使ってください。ちょっとしたパン、果物などを持って、訪れてあげてください。話をしてあげてください。それが、わたしの願いです」


 癒しを受けた人々は、気にはなっているけど関わったことのない隣人を訪れるようになる。


 「聖女の見えざる手」と呼ばれる小さな助け合いは、少しずつ国中に広まっているそうな。


お読みいただき、ありがとうございます。

ポイントいいねブクマを入れていただけると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
素敵なお話だと思いました。 「聖女の見えざる手」のような助けあいや癒やしが 現実のこの世にも隅々まで満ちるとよいな…と思いまず。 登場する人々がそれぞれ自分の畏れや過ちに向き合い、 どうするべきか考え…
クリスマスの時期にぴったりの作品だと思いました。「すっきり」と「ほっこり」で心が前向きになれる、良いストーリーだと思います。
みねさんの書くお話で初めて普通のヒロインを見た気がする
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ