33.復興は進み
「……ようし、いきますよ……」
フェンリル厩舎。ソニアは緊張しながら、あるものを厩舎の中に投げ入れた。
――あのとき、敵兵が使ってきた匂い玉を再現したものだ。
宙に放られた匂い玉が、地面に着地すると、パァンという音と共に激しい匂いがまき散る。
フェンリルたちは当然苦しむ。ソニアはなるべく急いで、砕けた匂い玉の残骸を片付けて外に放り出し、厩舎の窓を開けて回ってから用意していた『香』に火をつけた。
(……これできっとうまくいくはず……)
凄まじい悪臭を拭い去るように、薬草の香りが厩舎内に充満していく。ソニアは香を手にもって、フェンリルたち一頭一頭の顔の近くに香をかざして匂いを嗅がせて回った。
香の香りを嗅いだフェンリルは、すぐにハッとしてもだえ苦しみから解放されていった。
「――薬香か」
「は、はい。そうです、この間、匂い玉にしてやられましたので……」
ソニアの実験に付き添っていたシャルルが、その効果に舌をまく。
「君は本当にすごいな、こんな薬も作れるのか」
「はい。あのとき、本当は……私がその場で聖女の力を使って、みんなを救えたらよかったのですが、私の力では救えるか、自信がなくて……。また似たようなことがあれば、今度はなんとか解決したいと思ったのです」
「そうだな。きっと、フェンリルに匂い玉の類いが有効という情報を得ている他国は他にもあるだろう。その時の解決策を用意してもらえるのは、ありがたいよ」
シャルルの心からの賛辞にソニアは頬を赤らめる。
「これは君の手で火をつけずとも、同様の効果は得られるのかな」
「あっ、そ、それはまた……試してみませんと」
「俺の勘だと、少し効力は弱まる気がする。だけど、こうして誰にでも使える道具を開発してもらえるのは本当にありがたい」
「そ、そんな、そんなに褒めていただくことでは……」
「ソニア。君は素晴らしい人だよ。聖女だから、じゃなくて、本当に」
心の底から、ソニアのことをそう思って言ってくれているシャルルに、ソニアはすっかり恐縮してしまって、身を小さくする。
「わっ」
そんなソニアの頬を、一頭のフェンリルがべろりと舐めた。
ラァラだ。今度は反対の頬を舐められる、ラァラの夫、シリウスである。
あの日、視力の回復したシリウス。蜂蜜のようにきれいな金色の瞳はキラキラと輝いている。
「ほら、二人もそう言っている」
「あっ、ありがとう、ラァラ、シリウス……。シャ、シャルル様も」
おずおずとそう言えば、シャルルは満足げに微笑んだ。
「みんなごめんね、薬を試してみるから、ってまたひどい匂いで苦しめて……」
「大丈夫、フェンリルたちはみんな賢いからちゃんとわかってるよ。それよりもみんな安心しているんじゃないかな、また同じような目にあっても、今度は大丈夫だ、って」
なんて良い子たちなのだろう、とソニアがじんとしていると、ラァラとシリウスの子どものディアナが突進してきた。
「ディアナは小さいから匂いも余計にきつかったでしょう、大丈夫?」
「きゃん!」
甲高い声で鳴きながらディアナは屈んで目線を合わせたソニアの肩を押し、そのまま床に押し倒した。
「あっ、ほら、何度も言ってるだろ。腹を見せるのはよくないよ、ナメられるから」
「も、もう舐められてますっ! ディ、ディアナ、くすぐったい!」
ソニアとディアナはじゃれあって、ゴロゴロともつれ合う。
その様子をシリウスがじっと見つめていた。
「……よかったな、シリウス。目が見えるようになって……」
シャルルは嘆息しながら、そっと呟いた。そして、ソニアとディアナを引き剥がしてディアナの頭を撫でる。
「ディアナは、シリウスが失明してからできた子なんだ。だから余計に……」
「そうなんですね……」
ソニアもしみじみと呟く。
「我が子が友達とじゃれ合う姿を見られて感慨深いと思う」
「もう、私でよければいつでも全力でじゃれますとも!」
「うん、でも、あんまり近い距離感で遊びすぎてもナメられちゃうからほどほどにね」
「……頑張ります!」
言いながら、早速ソニアはディアナに手を甘噛みされていた。
シャルルいわく、その気になればイノシシを引きちぎれるくらいの噛む力はすでにあるらしい。甘噛みのちょっとほんのり痛い感触をかわいいと思うのと、もしもこれがその気になってしまったらと恐ろしい気持ちがない交ぜになる。
(ナメられ……ないようにしないと……本当に……)
そっとソニアはディアナを剥がして「噛むのはダメ」と言い聞かした。
そんなやりとりも、シリウスは非常に穏やかな眼差しで見守っていて、傍らではラァラがうっとりと我が子を見つめる夫の横顔を見つめていた。
「シリウスの目が治って一番喜んでるのはラァラだな……」
「そうかもしれませんね……」
シリウスの目が回復し、目に見えてラァラとシリウスがべったりと寄り添い合う頻度も、その触れ合いの濃厚さも増していた。
「ますますラブラブ……おしどり夫婦という感じですね」
鳥じゃなくて、狼だけどと内心思いつつ、ソニアは微笑んだ。
「俺たちだって負けてられないよな」
「えっ!?」
ぐっとシャルルがソニアの肩を引き寄せる。戸惑いながら目を丸くしてソニアはシャルルを見上げた。
(か、勝ち負けとか、そういうのではないのでは!?)
そうは思いつつも、ソニアは肩を抱くシャルルの手にそっと頬を寄せた。
勝ち負けではないけれど、ソニアも、ラァラとシリウス夫妻のようにずっと末永く、互いに想い合える夫婦でありたいと、そう思う。
そんな二人を、フェンリル厩舎のフェンリルたちは冷やかすようにウゥーと高い遠吠えをあげるのだった。
◆
ティエラリア辺境領。かつての『大地の民』の里は、災害を受けた当初からは考えられないほど、順調な復興を見せていた。
今日は大広場の工事が完了する日であった。
人々は広場に集まり、立派に美しく仕上がった広場の姿に感嘆の声を漏らした。
だが一人、かつての大地の民の長・ウロボスはちっと舌打ちする。
「余計な気を回しやがって」
ウロボスの目線の先には広場の中心に設けられた燭台があった。
そこには、かつての女神像を彷彿とさせる女神像の彫刻がほどこされていた。
シャルルとソニアが、ここに残したいと願って作らせたものだ。
「あ、ええと……」
ソニアは狼狽えて胸の前で手元をいじる。
ウロボスはその間もじっと燭台の女神像を眺めていた。
「いいだろう? せっかく人が集まる広場なんだ。なにか華やかなモチーフが欲しいと思っていたんだ」
シャルルがウロボスに声をかける。
はあとウロボスは大きなため息をついた。
「大地の民の里はもうおしまい。それでよかったってのに」
ボリボリと粗雑な動作でウロボスは白髪を掻く。
「――ま、うちの奴らは喜ぶだろうよ」
そう言い残すと、ウロボスは二人の前から去って行く。
しかし、その後日。たまたま朝早く起きてしまって散歩していたソニアは、朝靄がかった広場で一人で女神像に祈りを捧げるウロボスを目撃するのだった。
「あ……」
ソニアはハッと口元を押さえる。声はかけないほうがよいだろう。
ただ、「よかった」と安堵してソニアも物陰からそっと女神像を見つめるのだった。