27.強襲
――シャルルが、ティエラリア北部の魔物討伐に出て行ってしまった。
フェンリル騎士団の精鋭を集めた一団を作り、報せを受けたその翌日には慌ただしく出立してしまった。もう三日も経ったろうか。
ソニアは夜、北の方角を見つめながら、細く息を吐いた。
(すぐに戻られるとよいのですが……)
シャルルはとても強い。それに頼りになるフェンリルたちや兵士たちと一緒なのだから、心配はいらないだろうが、一人で過ごす夜は少し不安な気持ちになる。
(シャルル様と一緒に眠るのが当たり前になっていたから……)
いつもなら寝付きがよくて、すぐに眠れるソニアなのに、シャルルがいなくなって数日。なかなか眠りにつくことができなかった。
一人、ベッドに転がって、ちくりと胸を刺す痛みと不安感にソニアは「やっぱり私はシャルル様のことが好きなんだ」と思う。
(早く、帰ってきますように……)
ティエラリアの澄んだ夜空に煌めく星を見ながら、ソニアは祈った。
いつもなら静かで深い夜。しかし、今日は不思議とザワザワと物音がしていた。
風が強い日でもないのに不思議だと思いながら、ソニアは窓の向こうを眺めていたが、突然、バン! と扉が強く開かれる音が響いた。
ハッとソニアは振り返る。
知らない誰かがいた。中肉中背の、体格からみて恐らく男性。
彼らはなんらかの動物の革で作られたと思われるマスクで顔を覆っていた。
「いたな」
「おう、さっさと連れてくぞ」
「あなたたちは……」
こんな夜更けに、しかも顔を隠した見知らぬ人物たち。どう考えても真っ当な来訪者ではない。
ソニアは彼らと対峙したままじり、と後ずさった。すぐ後ろには窓がある。
(……彼らが、どういう人たちなのかはわかりませんが……逃げないと……!)
ソニアの脳裏には、以前エリックが話していた『気をつけろ』という言葉が浮かんでいた。ティエラリアは他国から狙われるような立場になったのだという話と、今目の前に現れた彼らの姿が重なった。
ソニアの気のせい、間違いならばそれはそれでいい。とりあえず、ここは逃げようとソニアは彼らにバッと背を向け、迷いなく窓を開けて飛び降りた。平屋の仮設住宅なので、窓から飛び降りてもたいした高さではない。
無事着地したソニアは走った。自警団の基地、もしくは、フェンリルたちの厩舎。どちらに向かうか少し考え、距離の近いフェンリル厩舎に向かった。
(フェンリルたちは賢い、きっとすぐに状況を理解して助けてくれるはず……)
それに周囲の人間に危険を知らせにいくにしても、フェンリルの足があると助かる。
(リリアンは大丈夫でしょうか……。早く、助けを呼ばないと……)
ソニアは振り返らず、まっすぐに走り、フェンリル厩舎の前までたどり着いたが、突然『パン』という音がして、反射的に立ち止まってしまう。
「――!」
そして、鼻をつく、凄まじい悪臭。とっさに鼻と口を覆うが、悪臭は目にまできつく染みた。
さきほどの音は、この臭いを込めたなんらか、臭い玉のようなものが破裂した音だったのだろうか。あまりの刺激臭にソニアはよろめいて厩舎の壁に手をつく。
厩舎の中からはフェンリルたちが悶絶する苦しげな声が聞こえてきていた。
そのことにソニアが「あ」と思うのと同時に、厩舎の開いている門の穴部分を狙って、さきほどの臭い玉が厩舎の中に投げ入れられた。
(フェンリルたちは鼻がいいから……フェンリルたちを無力化するために……!)
フェンリル厩舎に来なければよかった、とソニアは後悔する。自警団のほうに駆け込んでいれば――いや、臭い玉はフェンリルを意識した対策だろうが、人間相手でも、十分効果的だ。きっと怯んだ隙にみんなやられてしまっていたことだろう。
「こっちだみんな! 『聖女』だ!」
くぐもった低い声が聞こえて、ソニアはハッと顔を上げる。
そこには、マスクで顔を覆った男が数人いた。
『聖女』ならば、こんなときに使える奇跡の一つでもあればよかった。否、アイラにならできたかもしれないが、力の制御ができないソニアには、不可能なのだった。
「……もう……!」
ダメだ、そう思った瞬間、獣の咆哮が聞こえた。
振り返ると、そこには特別大きな体躯の雄フェンリルがいた。
「――シリウス……」
助かった、と思うけれど、すぐにソニアはハッとする。
ダメだ、シリウスは目が見えない。この状況ではいかにフェンリルであろうと、目が見えないシリウスには不利すぎる。
シリウスが普段の生活に不自由ないのは、視覚を嗅覚で補っているからだ。それなのに、鼻が潰されているこの状況では。悪漢たちは槍や剣といった武器も持っている。危険だ。
シリウスは引き留めようとするソニアの脇をスルリと通り抜け、まっすぐに男たちに向かっていった。
その走りに迷いはない。まっすぐ、シリウスは突進し、男たちを蹴散らしていった。
大きな脚で踏まれ、蹴られ、剣の刃を折られ、彼らは動転する。
シリウスが彼らを蹂躙する姿を見て、ソニアは「まさか」と思う。
フェンリルと人間の身体能力の差は歴然である。あっという間に男たちを無力化したシリウスは、ソニアのもとへゆっくりと歩いて戻ってきた。
常に閉ざされていたその瞳が開いていた。暗い夜中だというのに、まぶしそうに瞼が少し降りていたが、それでも、金色の瞳がのぞいていた。目が合った、とソニアは思う。
「シリウス! 目が見えてるんですか!?」
シリウスは大きな頭を頷かせる。
こんな状況だが、ソニアは嬉しくてたまらなくなり、シリウスに抱きつく。
「シリウス! よかった!」
ぐるる、とシリウスは喉を鳴らす。
「あ、ごめんなさい、こんなところをラァラに見られたら、嫉妬されちゃいますよね」
シリウスはふい、と顔を小さく動かした。
「鼻は? すごい臭いだったでしょう、辛かったんじゃ……」
そっと鼻に触れると、シリウスはますますぐいぐいとソニアの手に濡れた鼻を押しつけてきた。きっと、とんでもなく臭かったのは間違いない。
(わ、私の手に触れると少しいい? とか? でも、そんな……)
しかし、シリウスの目が治ったことを考えると「もしかして」という気持ちになった。
シリウスはソニアと会うたびに、閉ざしたままの目を撫でられたがっていた。ソニアに聖女の力を使った自覚はなかったが、いままで何度も瞳の辺りを撫でてきたおかげで、こうしてシリウスの瞳が治ったのだとしたら――。
(気休めでも、少し……楽になる……くらいはあるんでしょうか)
しっとりと冷たい感触の鼻を、ソニアは優しく撫でてやった。
厩舎の中にいるフェンリルたちはまだ苦しげに悶絶したり、力なく横たわっていたりのどちらかだったが、シリウスは身体が大きいぶん、匂い玉の影響はマシだったのだろうか。否、シリウスの精神力によるものだったか。
ともあれ、ソニアはシリウスのおかげで助かった。
「ありがとう、シリウス」
ぐるる、とシリウスはもう一度喉を鳴らす。
「……狙われたのは私だけでしょうか、シリウス。お願い、一緒にこの辺りを見て回っても?」
問うと、シリウスは身を低くしてソニアに背中に乗るように促した。
「うーん、ラァラが見たら嫉妬するでしょうか」
シリウスが小さく鳴く。『今はラァラは見てないから』と言った気がした。
ソニアは頷いて、シリウスの背に跨がる。シリウスの体躯はやはり大きく、ラァラとは乗り心地が違った。ラァラよりも広くて大きな背中にソニアはしがみつく。
シリウスは目が見えていない間でも、街の構造は把握していたようで、迷いなく走る。
「シリウス、一度、私とシャルル様の住んでいる家に戻ってください。リリアンとノヴァくんが気になります……!」
悪漢の残党がリリアンとノヴァに危害を加えている可能性を想像し、ソニアはシリウスを急かした。シリウスもすぐに承知して、あっという間にソニアたちの住処に向かった。







