20.爪痕
突如魔物の襲撃を受けたその日の夕刻。見るも無惨に砕け切った自室の窓を見つめ、シャルルは顎に手をやりつつボソボソと呟いた。
「……そうか、魔物が……。やっぱり、というか、いつか来るのだろうとは思っていたが……」
「えっ?」
「いや、君は気にしないでくれ」
ソニアは小首を傾げつつ、シャルルに頷いてみせる。
「すみません……。あの、魔物が近づいているとかそういうことがわかればよいのですが、なにぶん、私、聖女ではないものですから、そういうことができなくて……。このとおり、窓が壊れてしまった次第です……」
「窓なんて直せばいいんだ。それよりも君と……リリアンの代わりについていたという侍女長に怪我がなくてよかった」
「は、はい! 侍女長さん、腰を抜かしてしまわれて大変でしたが……大事に至らずよかったです!」
「ところで、聖女ならば魔物の襲来に気づけるものなのか? 君の妹はどうだったんだ」
「ううん……どうでしょう。お恥ずかしい話ですが、私は姉としては尊敬されていませんでしたので……そういうことを聞いても、「さあ、どうかしらね?」という調子で教えてもらえなくて。でも、魔物処理係の私を近くにいさせている時にしか不思議と魔物はやってこなかったので、もしかしたら、聖女の妹には魔物の訪れるタイミングがわかっていたのでは……と私は考えていましたが」
「……なるほど」
シャルルは顎に手をやったまま、眉をピクリとだけ動かした。
ソニアにはわからないが、シャルルはソニアの弁から何かを察したらしい。
(……やっぱり、コイツは聖女じゃないと、思い直していただけたのでしょうか……)
ソニアはパチパチと瞬きをしながらシャルルを見上げる。
しばらく考え事をしている様子のシャルルだったが、ふと表情を和らげると、優しい声でソニアに言った。
「しばらくは君のそばに俺がいるようにしようか。君の力ならば、魔物は脅威にならないことはわかったが、君以外の周囲に被害が及ぶ可能性は否定できないし、魔物を容易く滅することができるとはいえ、君だって魔物が迫ってくるのは怖いだろう」
「えっ、そ、そんな。シャルル様はお務めが……」
「前も話したと思うが、最近は本当に魔物の数が減ってきたんだ。王都の周りは特に。俺一人が別任務についたところで支障はない」
「に、にんむ」
「王弟の妻の護衛は立派な任務だと思うが」
「お、王弟の妻……というか、あの……なんといいますか……その……」
「俺の妻だな」
「だいぶ私的ではないでしょうか!」
「そうか? 承認されると思うが……。とりあえず明日の朝の会議で提案するから、明日の午後からはそばにいられるようにするよ」
ソニアは「いいのだろうか」と思いつつも、なんと言えばいいのかはわからず、オロオロとシャルルの顔を窺い見るが、直視すると目がやられそうなほどきれいなオリーブグリーンの眼差しに撃沈するのみだった。
(……あれ? シャルル様、私のところに魔物がやってくる前提でお話しされている……?)
今回の件はたまたまで、私は聖女ではないから妹のように魔物に狙われることはないはずなのに。
シャルルはどこかで勘違いしてしまったのだろうか。妹の話もさきほどしていたから、ごっちゃになってしまったのかもしれない。
ソニアは突破口を見つけたぞ! という気持ちで意気込んでシャルルに「あの!」と声を張り上げた。
――そこに、ノック音が響いた。
それから「失礼します」と聞き慣れた声が聞こえてきた。
ドアの向こうにいたのはソニアの専属侍女のリリアンだった。
昼頃に侍女長からの報せで、急に具合を悪くした母の元に行ったはずだったのだが。
ソニアは目をぱちくりさせながら彼女に問うた。
「ええと、リリアン。もうお母様はよいんですか? しばらくは実家に戻っていたほうが……」
「いえ。母はただのギックリ腰でした。家にはわたくしの弟妹がいますから心配ありません」
リリアンは猫に似た少しつり目の大きな瞳をわずかに細めながら答えた。
しばらく困ったような微笑みを浮かべていたリリアンだったが、ふと、足を半歩下げ、ソニアに対し深々と頭を下げる。
次に出てきたのは、謝罪の言葉だった。
「……此度の侍女長マリベルの暴言、同僚として代わって謝罪申し上げます。ソニア様、大変なご無礼を……」
「ま、待ってください! 暴言なんてそんな……侍女長さんは至極真っ当なことしか仰ってませんでしたよ!」
ソニアが魔物を滅したあと、マリベルはよほど魔物が恐ろしかったのだろう。錯乱状態となり、ソニアに大声を浴びせているところ、騒ぎを聞きつけた城の衛兵たちに連れて行かれてしまった。
ソニアも窓が壊れてしまったこの部屋とは別室に案内され、そこで呆然と時を過ごしていたのだが、シャルルが本日の勤めを終えて帰ってきたところで一緒に部屋の様子を見に行って、今に至る。
「君を『聖女じゃない、バケモノだ』と言ったんだろう。十分暴言だと思うが」
「でも私、実際に聖女じゃありませんし……」
ソニアが言うと、シャルルははあとため息をつく。
「なんでちょっと嬉しそうというか、ホッとしたみたいな顔しているんだ、君は」
「さ、最近、みなさんに『聖女』と扱われて自己認識との乖離に悩んでいたので、久しぶりに自己を肯定してくださる方がいらっしゃったものでしたから……」
「どういうアイデンティティを確立させてきているんだ」
リリアンに聞こえないよう、シャルルに対してのみ小声で話すと、シャルルも小さくぼやくように言って、もう一度大きなため息をついたようだった。
「……侍女長、マリベル……。彼女がアルノーツを快く思っていないことは把握していたが……想像以上に、根深いな」
シャルルは複雑そうに眉をひそめた。







