19.侍女長マリベル襲来
「俺は君を聖女と思っているよ」
夫、シャルル。
「うふふ。本当に聖女なんていたのねえ。ソニアさん、すごいわあ」
兄嫁(王妃殿下)、マリア。
「君が罪の意識を抱えているというのはシャルルからよく聞いている。……だが、我々は君は真に聖女なのだろうと考えている。君に対してなんらかの処罰を与えることはない」
義兄(国王陛下)、カイゼル。
「ど、どうして……」
ソニアは頭を抱えた。
これまでずっと、『自分は聖女ではない』という姿を見せつけてきたはずなのに。
夫を始めとしたティエラリア王家の面々は口々にソニアのことを『聖女』と扱おうとする。
「どうかなさいましたか、ソニア様」
「あっ……ご、ごめんなさい、リリアン。ちょっと考えごとを……」
「最近はよくそうして憂いておりますね。王妃殿下とのダンスレッスンでお疲れでしょうか?」
「ううーん、それも、あるような……ないような……」
ソニアはリリアンに対して言葉を濁す。
さしものソニアも、『自分は本当は聖女ではない』ということは専属侍女リリアンには打ち明けていなかった。
言えば、彼女の負担になることは想像に難くない。ソニアが罪を告白したのはシャルルたち、王家の人間たちだけだ。
(もしかしたら、シャルル様づてに話を聞いている……かもしれないけれど)
そうだとしても、自分本人が積極的に言いふらすべきではないことくらいはソニアも弁えていた。
シャルルたちはことを荒立てないように、ソニアのことを大事に扱ってくれているのだから。
(……それにしても、最近は……『聖女』扱いがすごいですが……)
改めて、ソニアは頭を抱える。
と、ここでソニアの居室にノックの音が響いた。
「……誰か来たようです」
リリアンが素早く動き、扉を開き、廊下に出ていった。
しばらく誰かと話し合う声が細々と聞こえ、次にソニアの居室の中に姿を見せたのはリリアンではなく、長身で髪をキツく束ねている中年の侍女だった。
「――失礼いたします。ソニア様。リリアンの母が急に身体を悪くしたと連絡が入りまして……今すぐリリアンを向かわせてやりたいので、恐れながら、今このときより、わたくし、侍女長マリベルが身辺のお世話をさせていただきたく存じます」
「ま、まあ!」
ソニアは思わずガタッと音を立てて椅子を立った。
侍女長の細い眉がぴくりとあがる。
「それは大変なことです。事情は承知いたしました。よろしくお願いいたします」
「……ええ。年の近いリリアンと違って、わたくしでは退屈させてしまうかもしれませんが、ソニア様のために一所懸命ご奉仕いたしますので、なんでもお申し付けくださいませ」
マリベルは弧を描くように目を細めた。
◆
(……建国祭に、あの蛮族の国の姫を、『王弟の妻』としてお披露目する気だなんて……!)
王妃殿下直々にティエラリア王族の踊りを習っていることを聞きつけたマリベルは瞬時、憤怒した。
王弟シャルルは情に厚い人間だ。それゆえに、迎え入れた敗戦国の姫を無下には扱えぬだろうとマリベルは同情していた。
だが、建国祭であえて他国の人間もいる場で改めてお披露目をする気だとは、正気の沙汰とは思えなかった。
ティエラリアはアルノーツとの戦争に勝利した。
だが、アルノーツがティエラリアから奪っていったものは多い。
平和な日常、昨日まで笑っていたはずの隣人、家族。
命までは奪われなかったとしても、戦いの中で怪我や病に陥った人たち――。
マリベルはソニアに対して微笑を絶やさないまま、歯噛みした。
マリベルの最愛の一人息子はアルノーツが仕掛けた毒矢の罠のせいで、半身の自由をなくした。
命だけは助かったことをマリベルは神に感謝し、そしてアルノーツの国を呪った。
唯一の存在である『聖女』を国に迎え入れることで和睦という結末を迎えたことに、マリベルは納得いっていなかった。
どう考えても、身勝手な侵略国のほうに都合が良すぎる。
いくら世界で唯一の『聖女』を譲ってもらうからといっても、ティエラリアは圧倒的優位に立っていた。逆にここからアルノーツに攻め込んで、アルノーツを支配することだってできたはずなのに。
多くの国民は『聖女』が来るならば、この貧しい土地が『聖女』の力でもう少し豊かになるのならば、と溜飲を下げたようだが、マリベルはとてもそんな気持ちにはなれなかった。
(大体、『聖女』なんて、胡散臭すぎるわ。どうにかこの女の尻尾を掴んで……『聖女』なんてたいそうなもんじゃない、ただの愚かな小娘なんだ、って証明して、国から追い出してやる!)
風の噂では、アルノーツの国はまだ敗戦のダメージから回復しきれていないのか、国全体が荒れているというような話を聞く。
であれば、チャンスだ。
偽りの花嫁を送ってきた国、その贖罪のための侵攻を今度はこちらから仕掛ける。
そうなってほしい、そうしてほしいと、マリベルはそう祈っていた。
(それにしても、いくら野蛮な国の生まれだからといっても、一国の姫だったはずなのに、ずいぶん不作法だこと)
ガタガタみっともない音を立てて椅子から立ち上がったり、落ち着きなくキョロキョロしたり。
マリベルはソニアに対して心底呆れた。
(王族としての教養も品性もない。そのうえ、『聖女』ですらないのなら、王弟殿下の妻には到底ふさわしくないわ)
リリアンの報告だと、近頃のシャルルは特にソニアを溺愛しているとの話だ。
信じられない。見た目だけならば、ソニアは細身の体躯で手足が長く、顔は整っていると評されるかもしれないが、王弟殿下に愛されるべき気品はない。
シャルルは自分を厳しく律する気質で、ソニアとの婚姻まで女性との浮いた話は一切聞かなかったが、初めて得た近しい女性ということで籠絡されてしまったのだろうか。
「……ソニア様。どうです、お茶のおかわりは」
「はっ、はいっ。ありがとうございます、いただきます!」
(ほら、また無駄にワタワタとする。こんな落ち着きのない王族、信じられない)
マリベルはソニアには見えない角度で口を歪める。
こんな女に奉仕などしたくないが、手を抜いた仕事をするのは流儀に反する。それに万が一、とぼけたようなこの女の本質が陰湿でないとも限らない。至らない姿を晒して後からシャルルに「侍女長はお茶の一つも満足に淹れられないのですね」などと言われたくはない。
マリベルは美しい所作で完璧にお茶を淹れてみせた。
そして、ソニアにソーサーを差し出した。
「……危ない!」
その瞬間、バリンと音が響いた。
目をむいて音の方を振り向くと、ああ窓が割れた音だと気づく。しかし、そんなことは些事であった。
「――ま、まものっ!?」
大きなクチバシを持った巨大な鳥型の魔物がそこにいた。マリベルは咄嗟に身をひき、腰をテーブルに打った。弾みでティーポットが床に落ちて割れる。
倒れ込んだマリベルは両手をかざして震えることしかできなかった。
城の中を魔物が襲ってくるなんて、いままでなかったのに。
(こ、この女が……!)
恐怖の中でマリベルの頭に過ぎったのは、ソニアである。
アルノーツの花嫁、ソニア。
彼女がこの魔物を呼んだのだと、マリベルはこの一瞬の間に決めつけた。
アルノーツとソニアへの憎しみを抱えながら強く両目を閉じるマリベル。
だが、魔物のクチバシも、鋭い爪も、マリベルに届くことはなかった。
(……?)
「あ、あの、大丈夫でしたかっ」
恐る恐る目を開けると、ソニアが眉を垂れ下げ、情けない顔をしてマリベルを覗き込んでいた。
「お、驚きましたね、まさか、部屋の中に魔物が突っ込んでくるなんて……。ティエラリアは魔物が多いと聞いてはおりましたが、みなさん、こんなふうに常に魔物との脅威と隣り合わせの生活をされてきたのですね……」
――ふざけるな。
呆然と目と口を開けていたマリベルだったが、呑気なことを言うソニアに憤りを覚えた。
(馬鹿にしないでよ、ティエラリアは、シャルル様たちフェンリルライダーや、騎士のみんなが頑張って平和を守っているのよ。魔物がこんなふうにいきなり人の居住区内にやってくるなんてことは、年に数回もないんだから……!)
ましてや、この城は特に厳重に守られている場所なのだ。
それを「ティエラリアではよくあることなのでしょう?」とのたまうとは。
マリベルはソニアのとぼけた態度を許せなかった。
「あ、あの、魔物はやっつけましたから! 大丈夫ですよ!」
「……は?」
両手に握り拳を作るソニアに対し、マリベルは露骨に歪む顔を隠せなかった。
「……やっつけた?」
「はい!」
「……あなたが……?」
窓の方を見やる。
散乱するガラスのほか、見当たるものは何もない。
まさに魔物は影も形もなくなっていた。
「……」
「ほ、本当に大丈夫ですか? ごめんなさい、私がもっと早く気づけていたら……」
「……ば、ばけもの……」
「え?」
マリベルは身じろぐ。
倒れ込む己に差し出された白い手をマリベルは叩いた。
「バケモノ! あ、あなたなんて、『聖女』じゃない……っ! 魔物を引き寄せて、やってきた魔物を、こうもあっさり……消し去って……! こんな力、『聖女』じゃない!」
マリベルは無我夢中で叫んでいた。
「そ、そうなんです! わ、私、聖女じゃないんです!!」
マリベルは再び慄いた。
(し、信じられない、この女……)
頬を赤らめ、眉を下げ、苦笑いするソニアを指差しながら、マリベルは顔を引き攣らせる。
(――なんで嬉しそうにしているの――!?)