15.目覚めの丘にて②
「――ソニア、大丈夫か」
何巡。
ソニアがあの日、その時のことを思い出し続け、何巡目のころだろうか。
――ソニアは意識を取り戻した。
落ち着いた低い声が耳に入り、顔を上げると、目の前にオリーブグリーンの澄んだ眼差しがあった。
うずくまるソニアの傍らに、膝をついてシャルルが肩を抱いてくれていた。
さらにその横にはラァラとシリウスがいて、ソニアに白い毛並みを擦り付けていた。
「あ……わ、わたし」
「悪かった。俺が軽く、君に聖女の力を使ってほしいなどと言ったから」
「い、いえ、その……」
否定しようと思い、首を振ると、それだけでもう気持ちが悪かった。咄嗟に口元を押さえた手は小刻みに震えている。
その様子を見てか、シャルルはソニアの肩を抱く力をいっそう強めた。
「……もうこんなことは言わないよ。だから、安心して」
「わ、わたし、その」
「もう思い出さなくていい、俺も、聞かないから」
「……ありがとうございます。……大丈夫です」
ソニアは笑みを浮かべた。そのほうが、少し楽になる気がしたからだ。
シャルルの眉は依然として吊り上がり、緊張感を漂わせていた。
「私が『厄災』の力を持っていることはいままでもお話してきた通りです。ですが、幼い頃、ある事件を起こすまでは父も母も呆れながらも、力が使いこなせないだけで『聖女』ではあるはずだと希望を持っていました」
言うべきだ、とソニアは思った。
自分が今、どんな記憶の中に堕ちていたのか。
未だソニアをどう扱えばいいか様子見でおらざるを得ないティエラリアの人間、シャルルには己が罪と、『自分は聖女ではない』と明確であることを告白すべきだ、と。
「しかし、家族らが失望する事件が起きました。私が癒しの力を使う練習を初めてした時、人の腕の一本を腐らせ、失わせました」
「……そうか……」
ソニアの告白に対し、返ってきたシャルルの声は小さく控えめなものだった。
「癒しの力が使えない、それどころか、人の肉を腐らせ、滅ぼさせる力だったのがわかったのです」
言いながら、ソニアは瞳を伏せた。
「……もう、十年以上前のことです。でも、私には忘れられない記憶です。何度も、何度も思い出してしまう」
「ありがとう、教えてくれて」
「いいえ。とんでもありません、私の罪の告白を聞いてくださり、ありがとうございました」
ふと気づけば、シャルルは大きな手のひらで己の口元を押さえていた。
普段の彼ならば、あまりしない仕草を怪訝に思いつつも、ソニアは「それよりも」と懐を探り、小さな丸缶を取り出した。
「シャルル様。よろしければ、こちらの軟膏を使ってください」
「えっ?」
シャルルはハッとした様子で目をパチクリとさせた。
「申し訳ありません。さきほどお話ししたとおり……私は、癒しの力を使えません。そして、癒しの力を求められると、どうしても……過去のことを思い出してしまいます。ですが、力を持たない私なりに、人の傷を癒すお手伝いができる薬の勉強をしてきておりました」
「君は。薬を作れるのか?」
「はい、妹が……。ええと、聖女は本来、その奇跡の力を以て、神殿を訪れた人々に癒しを与えます。でも、私にはそれができないので……せめて、代わりに、少しでもと」
「君の妹が全ての人を癒していたわけではないのか?」
シャルルは少し驚いたような声を上げる。
「国中の人が訪れますから……妹が全て対応することはできません。なので、軽度の症状の方は私が診させていただきました。みなさん、聖女の奇跡を受けにきたのにとお怒りになられる方もいらっしゃいましたが……」
「酷い話だな」
「いえ! ごもっともです、だって、私、みなさんの期待のするような『聖女』じゃないんですから……」
シャルルは傍目から見てわかるほど深く眉間にしわを寄せていた。
「とてもよい調合のレシピがありまして、私は要領が悪いので、その通りに作るしか能がありませんでしたが……でも、調合がいいので! とてもよく傷に効く軟膏なんですよ」
「……そうか、ありがとう」
シャルルは眉間のしわを解き、微笑む。ソニアは「では」と言いながら、缶の蓋を開け、シャルルの小さな切り傷に薬を塗った。
「……!?」
「ね、よく効くでしょう?」
ソニアは自信を持って、ニコリと笑った。
これだけは、自信があるのだ。ソニアにとっては数少ない自信。
(レシピ通りに作れば私にもよく効く軟膏は! 作れる!)
しかし、シャルルの反応はあまり芳しくなかった。
呆気に取られた顔で、すっかり傷の塞がった指先をじっと見ている。
「あ、あの、その、だ、だめでしたか……」
「……いや」
「み、見た目より傷が深かった⁉︎ まだ痛むのでしょうか、すみません、力が足りず……」
「そんなことない、きれいに治っている。……治っているから驚いているんだ」
「……?」
ソニアは首を傾げる。
「よく効く軟膏ですので……そんなに驚くことでは」
「こんな塗ってすぐ傷口が塞がる軟膏なんかない」
「えっ」
「どうなってるんだ、君の国は。なんでこれで、不思議に思わない」
「だ、だって、本当なら、聖女の……奇跡で傷は治すものですから……」
「……奇跡慣れ、か。とんでもない国だな、本当に。そのうえ、君は癒しの力を求めてやってくる人らからは、『ちゃんと聖女の奇跡で治せ』と罵声を浴びせられていた?」
「シャルル様……?」
ぶつぶつと言いながら、シャルルは濃い銀の髪をかき上げた。
「君はどうして、そんなふうになってしまったんだ」
「え?」
「どうして、君がそんなふうにならなくちゃいけなかったんだ?」
シャルルははっきりとした二重のまなこをしっかりと開きながら、ソニアにでもなく、誰かに言うかのように呟く。
ソニアはシャルルの悲しげな困惑がどうしてだか見当もつかなかった。
ただ、シャルルが今、悲しそうにしているということにだけ、胸が痛んだ。
「シャルル様、その、私は大丈夫ですよ」
「…………」
「っきゃ!?」
シャルルの大きな上背がソニアの身体を包み込んだ。上からぎゅうと抱き締められ、ソニアの視界は暗くなる。
「あっ、あの、その、シャルル……さま」
「……」
何がどうしてこうなったのか、状況を把握できていないソニアはただ困惑する。
しばらくの間、シャルルはソニアを抱き締めていた。
フェンリルのラァラとシリウスはこの光景を静かに見守っているようだった。
「俺の少し恥ずかしい話をしようか」
不意に、シャルルが呟いた。
シャルルの胸にすっぽりとおさまっていたソニアの身体は解放され、さきほどまでシャルルの身体で遮られていた外気が一斉にソニアを冷やす。
「俺はいままで女性とお付き合いしたことがない。もっと言うと、誰かのことを好きになったことがなかった」
「え、ええと」
それは恥ずかしい話なのだろうか、とソニアはよくわからなかったが、シャルルが真剣に話すので大人しく聞き入ることにした。
「俺は弟だ。下手に結婚したり、特定の女性と親しくなって、王位継承権に影響を与えることや、兄貴に妙な弱みを作ったりすることを避けたかった。俺は王に向いていないが、兄貴は間違いなく王になるべき人だったから」
「は、はい」
「俺は『王弟』という存在に徹するつもりだった。俺の婚姻の相手は、王である兄貴にとって都合のいい相手なのであると幼少の頃から心に決めていた。そして現れたのが君だ」
「て、敵国の姫の私、ですか」
「ああ。『王弟』の俺が兄貴にとって役に立てる場面がようやくきた、その相手が君だった。……俺は決めていたんだ。俺は恋をしない、けれど、いつかやってくる婚姻の相手のことを大切にしようと」
「……」
ソニアは黙ってシャルルの話を真剣に聞く。
「君のことはそのつもりだった。君がどんな人だろうと、俺の一生の相手になる人だ、大切にすると決めていた」
「は、はい。それはもう、私にはもったいないほど大事にしていただいております」
「君がそう思ってくれているならよかった」
シャルルはフ、と笑う。
「俺は君と結婚した。君を大切にすることは、君という人に出会う前から決めていたことだ。……だけど」
「はい……」
「今、俺はこう思ったんだ」
シャルルは姿勢を正し、まるでソニアに傅くようにして、ソニアの手をとった。
「俺は、一人の男としてあなたという女性を守りたい」







