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渡らずの罪

 渡らずの罪はルィヘン・シンルースの心に鋭く刺さっていた。

 彼女に突き刺さった罪は、氏族の罪、そして彼女自身の罪であり、それらが複雑に絡み合い決して抜けることのない棘となっていた。

 ロザリンド渓谷のあの古戦場がオルクセン王国の運河建設事業により水没し、消えるというニュースを聞いた時、ルィヘン・シンルースの心はその棘によって激しく痛んだ。あの地で戦ったエルフならば、その話になんの感情も抱かずにいるというのは不可能だった。あの地で戦ったことのないエルフでさえ、なにかしらの感情を掻き立てられるほどに、その土地の持つ意味は大きかったのだ。特に、エルフィンドがオルクセンに敗北した今となっては特に。



「どうしますか、シンルース殿」



 そう言ってシルヴァン運河建設工事の記事が書かれた新聞を持ってきたのは、かつての部下だった白エルフだった。

 先の戦争においてはネニング平原会戦に参加し、右足を失っている。彼女は北部氏族の出で、ルィヘン・シンルースと同類だった。ロザリンドで栄光の土を踏んだ右足は、今やドワーフの設えた一級の義足になっている。今は傷痍退役し、傷痍軍人として年金を受け取りながらも職を探しているのだ。

 そんな彼女がどうするかと聞いてくるのは、彼女がルィヘン・シンルースの秘密を知る一人だったからだ。



「今なら『悪鬼の時(ヴァララカール)』は発動できます。国民感情は今や我らの味方です」


「だとして、それでどうなる? 落ち着け、ネルラス」


「しかし……」



 なにか反論が出てこないものかと口をもごもごさせながら、ネルラスと呼ばれたエルフはテーブルの上の炭酸水を口に含んで押し黙った。

 可愛い奴だ、とルィヘン・シンルースは心底思う。昔ながらの部下は皆、可愛い奴らだ。愛い奴と言ってもいい。ルィヘン・シンルースにとって部下の兵は家族同然の存在で、北部氏族という産まれを共にする同志だった。何にも代えがたい存在であり、目に入れても痛くはないと思える存在だった。同じ天幕で眠り、同じ釜の飯を食い、同じ陣地で戦い、同じ目標のために突撃に肩を並べた仲だ。

 だからこそ、今のネルラスの姿はルィヘン・シンルースにとって鋭く痛むのだ。右足を失っただけではなく、ネルラスは心にあるなにかを失ってしまったようだった。肌は荒れ、目に隈が出来、なにかを威嚇するように肩肘を張っている。なにか物音がするたびに目がきょろきょろと動き、手が震え、暑くもなく戦時下でもないのに緊張で汗を掻く。典型的な戦争の病だ。



「戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』はエルフィンドの敗戦とモーリア突出部の喪失、そして海軍の消滅を考慮していない」


 

 白ワインを軽く転がして、ルィヘン・シンルースは静かに言った。

 ルィヘン・シンルースは愚かではないし、無能でもない。武功を上げ、能力もあり、頭の回転も速かった。政治的出自により出世が著しく遅れはしたが、その軍歴はオルクセン風に言えば〝質実剛健〟たるものだ。北部氏族には数十人しかいない海外留学組であり、陸軍大学校も出ている。軍歴の末期には作戦立案に携わる場にも加わっていたが、関わっていた戦争計画とその性格により左遷された。

 戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』は、デュートネ戦争以後に秘密裏に研究されていたエルフィンドによるオルクセン攻撃計画だ。海上優勢によりベラファス湾の支配権を確固たるものとし、艦砲射撃による徹底的な敵交通網及び都市の破壊、そしてファルマリア正面にて二重の防衛線を敷き、エイセル峠に散兵線を敷く。これらの防衛線の補給は水路と陸路によって行われ、一方でノグロストとロザリンドから陽動攻勢を行い、モーリアから騎兵隊がリヒトゥームの東西を寸断し孤立させ制圧し、リヒトゥームを橋頭保とする。

 問題はこの戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』の主目的がオルクセン王国の王都、ヴィルトシュヴァインの占領等を目的としていないことだ。あくまでこの戦争計画は、リヒトゥームとアーンバンドの占領ないし破壊によって、仮称『シルヴァン突出部』の形成とベラファス湾の完全支配を目的としたものなのだ。戦後交渉においては可能な限りクラインファスの割譲を視野としており、これによって東西においてエルフィンドによる盤石な支配体系が齎される―――はずだった。



「お前も知っているだろう、ネルラス。戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』は機密に葬られた。それに―――」



 ことり、とグラスを置き、ルィヘン・シンルースはパイプを取り出し、葉を詰めながら続ける。

 周囲のがやがやとした昼食風景が嘘偽りに思える静けさが、二人の欠け身の白エルフ、ルィヘン・シンルースとネルラスの間にはあった。

 エルフィンドは今や戦後・・にいるが、この二人だけは戦中・・に身を置いているかのようだった。



「我に最早、海上優勢を達成する水上戦力など存在しない。補給路を寸断する騎兵隊も、敵方にアンファウグリアがいる。航空偵察に加え、散兵線に投入するはずの黒エルフたちはもはや我の兵として徴用できる状態ではない。何もかもが我らの国から無くなったのだ」



 マッチを擦り、パイプに火を点け、適度に吸ってやって紫煙を燻らせ火種を育てながら、ルィヘン・シンルースは自嘲気味に笑った。



「戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』はあくまでオルクセン国境部の割譲を目的としたものであって、その全野戦軍の撃滅や全土併合などは不可能だとあの時には分かっていたんだ……。それもキャメロットが仲介役に立つことを考慮して、だ。今回、我らは不可能だと思われたことを見事にやられてしまったがな。キャメロットの顔色が変わったのが分からなかった、この国の落ち度だ」

 

「ですが、大尉……このまま、このままで良いのですか?」

 

「なあ、ネルラス。お前は勘違いをしている」


「私は……私は勘違いなどしておりません……。私はエルフィンドの、女王陛下の―――」


「しているさ。このままで良いのか、という問いと、我の戦争計画には、なんの因果関係も存在しない」



 ネルラスはその言葉を浴びせかけられ、ぐっと押し黙った。この白エルフは自分でも分かっているのだ。

 だが、分かることと理解できることとの境は時に隔絶している。理解を拒む何かが自分の中に巣食っている時、頭脳と言うやつはいつも理解することを拒みがちだ。そうして、理解出来ぬままに理解出来ぬ理由を自分で生成し、賢しげにそれを問題点だと喚き始める。そうなっては最早、論理も因果もなにもあったものではない。正しく頭脳が働いていない状態を是認し、その熱狂に酔った生物などというのは、そもそも会話などと言うものは通用しないのだ。

 ルィヘン・シンルースは知っている。すべて体験してきたことだ。己の栄光と誉を護るために耐え忍び、背中に浴びせかけられる雑言を無視し続けた。歩みを止めてはならないと自分に言い聞かせて、鉄の女のようにあり続けた。それが自分自身のためにもなり、北部氏族のためにもなると愚直に本気で信じてきたのだ。今や、その考えは変革を強いられ、そのために彼女は今の組織に属している。



 ―――とても、とてもとても、辛いことだ。



 二人の間に、沈黙と紫煙だけが漂っていった。新聞紙を捲る音と談笑の声が戻り、食器の音が穏やかに鳴る。その音こそが日常であり、この国の戦後だった。やがて二人に珈琲が運ばれてきた。ミルクはあったが砂糖は個数制限がかけられていたので、二人ともブラックのままでそれを静かに飲んだ。鼻をくすぐる純朴な香りに、香ばしい苦みと温かさが喉と舌を富ませた。顔をくすぐる湯気が乳母の温もりを思い出させた。

 珈琲のお替りを貰い、二人してしばらくパイプの煙を友としていると、ネルラスは目を伏せて静かに口を開いた。その目はもう周囲を監視するような厳しい目つきではなくなっていた。 



「………申し訳ありません、大尉。冷静さを失っていました」


「よくあることだ。戦争はいつだって、病となって心も思考もさえも侵していく。俺もそうだった。だが、復讐では過去は変えられない」


「大尉は、……随分と御変わりになられました」


「かもしれない。今やっている仕事も、考えていることも、昔の俺に話したら鼻で笑っただろう」


「国家憲兵隊予備隊はどうですか、良いところですか」


「エルフィンドであることに変わりはない。変わりつつあるエルフィンド、その中の一つに国家憲兵隊予備隊があるに過ぎない。俺は良いところだ、と思っている」


「今の階級は、少佐ですか」


「大佐だ」


「すごい。今はなにをしていらっしゃるんですか。話せる内容ならばで構いませんが……」


「そうだな。俺は今、―――」



 しばし、ルィヘン・シンルースは考えた。俺はいったい何をしているのだろうかと、自分自身に問いかけた。

 戦場で死ぬことばかりを思い描いていた俺自身が、その運命に裏切られ、友を裏切り、失意の内に国は決定的な敗戦によって永遠にその在り様を変えてしまった。何もかもが移り気な天候のように変わっていき、自分自身がそれに取り残されているかのように思えた。前へ前へ、ずっと進み続けてきた己が、ただの一度足を止めただけでそうだったのだから、また足を止めてしまったらこの世は終わってしまうともある夜に考えたこともあった。それでも、ルィヘン・シンルースは挫けなかった。新しい義手と義眼を身に着けて、まだするべきことがあると歩み続けた。

 今は、戦場で死ぬことよりも、もっとおもしろいことをやっているのだ。



「今は、平和について考えているよ」


「平和、ですか。本当に、御代りになられましたね」


「何、これも俺なりの戦いと言うものだ。善に善なる白エルフが国、平和にして栄えあるエルフィンド……我らが祖国が再びそのように呼ばれるには、長い長い年月が必要になるだろうが、俺はそれを信じている。平和のためにという言葉を愚直に信じ、時として筒を取り、時として救いを請う手を取り、時として飢える声に盆と杯を手に取り、抑圧と暴力に屈さず、慈悲と慈愛と寛容を持つ。俺はエルフィンドがそんな国になる未来を考え、信じている」


「……なると、良いですね」


「ああ、なるとも。なるともさ、ネルラス」



 パイプを深く吸って紫煙を吐き、ルィヘン・シンルースは頬を緩めながら言ったのだった。



「いつか、そんなエルフィンドになった頃には、〝野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか〟などと言われるようになってほしいものだ」



 それは傑作ですね、とネルラスは笑った。

 控えめなくつくつという笑い声が、日常の音の中に、戦後の光景の只中に埋もれていった。










 ―――










 ルィヘン・シンルースは最終的にオルクセン陸軍に移籍し、新設された五つの師団の内の一つで師団長となり、その後に階級を中将にまで進めた。

 生来の性格故にアロイジウス・シュヴェーリンの覚えも良く、ダリエンド・マルリアンとも親交を続け、退役軍人協会を気にかけ続け、生涯部下に愛された。

 戦後定期的に開かれているレーラズの森事件慰霊祭には欠かさずに出席し続けた他、白エルフの中でもっとも他種族との融和を唱える人物の一人となった。

 中でも「オルクセンとエルフィンドの血生臭い結婚によって産まれた本連邦はもっとも切実に平和を希求する」という言葉はスキャンダルとなって少将への降格処分と減給、謹慎処分となった。

 


 オルクセン王女ディネルース・アンダリエルと、エルフィンド王女にして「黄金樹の守護者」エレンミア・アグラレス両人に忠誠と献身を誓い、二度の大戦争の後の世界において国際平和維持活動に熱心に賛成の立場を取ってその責任を一身に引き受けた彼女は、その立場と発言とあまりにも前へ前へと進み過ぎる性格故に、そして戦争計画『悪鬼の時(ヴァララカール)』の発案者の一人であることもあり、エルフィンド独立運動派のテロの標的となった。

 予備役少将となった翌年の八月、エルフィンド北部のノアトゥン港からヨットで出港直後にエルフィンド独立運動派の仕掛けた爆弾が爆発しルィヘン・シンルースは死亡した。同行していた内縁の妻によれば、爆弾はエンジン部に仕掛けられていたと思われ、操船していたルィヘン・シンルースはほぼ即死だったと思われる。生前は「俺のような出涸らしに用などないだろう」と自分が標的にされることをまったく恐れていなかったために、護衛なども付けていなかった。

 死後、大将へ二階級特進。特殊部隊の育成や海外派兵、国際平和維持活動などへの貢献などから複数の勲章が送られた。



 遺言によって墓碑には『渡らずの罪はここに眠る』と刻まれた。

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[一言] めちゃくちゃ熱中して読んでしまった すごく面白かったです ありがとう
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