罪の話
ベレリアンド半島の北には、伐採する木がないというジョークがある。旅人は手斧を持って寒さを凌ごうと木を探しているうちに、まるで木のように見事に凍り付いてしまうという話だ。冬の間にそれは本物の木のようにぽつねんと雪と風にもてあそばれ、雪解けの春になってようやくその木は死体となって地面に横たわり、雪解けでぬかるんだ地面にそのまま沈み込んでいき、それはやがて白銀樹の養分となる。
とはいえ、実際には薪用にと伐採するほどないにしても木は生えている。それに、いくら木が少なくとも燃やすものはあった。泥炭だ。泥炭だけは燃やすことが出来た。左手の義手鉤で手頃な大きさの泥炭を突き刺し、それを暖炉の中に数個放り込みながら、ルィヘン・シンルースは青い瞳で壁に飾ってあるものを見上げた。暖炉の炎の乏しい明りで照らされた壁にあるのは、定命の者どもに言わせれば年代物の、しかし白エルフからすれば少し古びた程度の前装式ライフル・マスケット銃を始めとする、古びた記念品たちだった。無骨で粗雑な片刃剣はロザリンド渓谷でオークを討ち取った時の物、黒エルフの山刀は親しき友からの贈り物、ドワーフの短弓はモーリアのもの、布製や金属製の勲章は己が栄光の証、そして額に入れてある傷痍除隊証明書と氏族長の推薦書は、我が晩年のたった一つの道しるべだ。これが生まれてこのかた、左目と左手を失うまでエルフィンドに身も心も捧げてきたルィヘン・シンルースの記録たちだ。
ルィヘン・シンルースはルィヘンの名の通り青い瞳をしている。だが健在なのは右目だけで左目は革製の眼帯で覆われ、左腕も手首から先がなかった。義手として、さきほど泥炭を暖炉に放り込んだ鉤がついていた。シンルースという姓は白銀というよりは灰色の頭髪に由来しており、彼女はロザリンド渓谷の戦いの時にはすでに‶この世でもっとも怒らせてはならないエルフの一人〟と連隊中で囁かれていた。将校として任官されてからは、たたき上げの経歴を揶揄されもしたし評価されもした。
ベレリアンド半島北部の氏族の「非主流の者たち」の一人と見なされていたが、彼女はロザリンド渓谷の戦いでオークを相手に剣で戦って首を取ったという伝説があった。
戦いにおいて北部の兵は強く、粘り強い。いかに中央の連中が見下し、天が厳しく災害をもたらし、政治によって翻弄されたとしても、北部の者は何度でも立ち上がる。これまでも、幾度となくそうしてきたのだ。だからこそ、死ぬまで軍人であるはずのルィヘン・シンルースが南部国境近くで片目と片手を失う事故にあい、傷痍除隊することになった時は誰もが驚いたし、嗤いもした。欠け身になって軍人でなくなってもアレは失輝死しないのだと、それを意地汚いことだと言わんばかりに陰口をたたく者も少なくなかった。彼女はなにも言わず、この北の故郷に帰り、今に至るまで戦争とも軍隊とも無縁の生活を送って来たように見えた。
ルィヘン・シンルースはその北部の白エルフの典型的な見本だった。外見的には20半ばほどで成長が止まった、すらりとした長身の白エルフだが、肩ほどの長さでざっくばらんに切られた髪はお世辞にも綺麗とも華麗とも言えず、潮の臭いが染みつき退色しきったシャツはボタンが二つほど無くなっていた。タータンチェックの厚手のスカートに、よく手入れされた軍靴が黒光りしている。欠け身とはいえその動きは軍人特有の整ったもので、無駄がない。
「オルクセンの憲兵隊の中尉がおれに何の用だ」
ハスキーな声でルィヘンが言うと、玄関口で直立不動の態勢を取っているコボルト族は踵を正した。一年前まではベレリアンド半島では珍しかったエルフ以外の種族だ。情けない垂目と垂れ下がった頬に耳垂なので、この憲兵隊員の周囲だけになんらかの魔法かなにかがかかっていて皮膚がずり落ちているのではないかとさえ思えた。白と茶色の斑柄に黒の制服はびっくりするほど似合っていなかったが、ルィヘンは笑わなかった。軍での経験からこの憲兵隊員がどの程度の練度なのか、細かな挙動から推理してみたが、こいつはなかなかのやり手のほうだと分かった。ホルスターのボタンがかかったままなのは不用心ではなく、単に礼節の問題だろう。
「失礼いたします。単刀直入に申し上げます、ルィヘン・シンルース退役少佐。あなたにシルヴァン川北方での特殊作戦への関与があったと報告があり、本官は確認のために赴いた次第であります」
「……コボルド、オークどもはその程度の案件をおれ本人に確かめに来るほど愚鈍でも暇でもないだろう。まずは周りにいる連中も含めて、家に入ったらどうだ。込み入った要件なのだろう」
「気分を害されたならば失礼ですが、周囲の者は本官の護衛であります。もてなしの必要はございません」
「そうか。なら階級が一番下の奴を呼んで来い。暖かい茶の一杯くらいはやらんとおれの面目が立たん」
「了解しました」
それからコボルト族の憲兵中尉は一人を呼び出した。その憲兵もコボルドだった。ルィヘンは中尉に目配せして何名いるのかを確かめ、ポットからカップに茶を注ぎ、足元に転がっていた盆にそれを乗せて手渡した。
えっちらおっちらと憲兵が茶を持って出て行く。ルィヘンは扉を閉めて憲兵中尉に着座するように促すと、自分も暖炉の前の安楽椅子に腰を下ろして、溜息をついた。
「おれはよく恨まれるから密告者が誰かは聞かんし、知りたくもないが……そうか、浄化作戦は現実に遂行されたのだな?」
「ご存じでおいでかと」
「そうだな。おれは知っていた」
「しかし、あなたの部隊は北部方面の周辺警備を行っていたはずです。それなのになぜ、あなたが片目と片手を失う負傷をしたのか、我々は疑問に思ったのです。あなたの部隊はシルヴァン川流域における国境警備隊の特別軍事作戦、そのための地域封鎖。演習ついでに動員されたあなた方の大隊は、内務省管轄の封鎖地域へは立ち入りが禁止されていたはずでは?」
「それを破ったから、こんなところでおめおめと生き残っているのだ、中尉。……そうか、お前たちが知らないのなら、おれは生涯で唯一無二の友に、この首を差し出すことさえ敵わんと言うことだな」
「詳しく、お聞かせ願えますでしょうか」
カップを左手に握りしめたまま、憲兵中尉が言った。
ルィヘン・シンルースは苦笑しながら壁に立てかけられている黒エルフの山刀を見上げた。無骨で粗野で、白エルフなら忌避するところの野蛮さというものが垣間見えるらしいその山刀を。それを譲り受けた時のことを昨日のように覚えている。そして、その親愛を我が祖国が裏切り、その怒りをわが身に受けた時のことは、今でも痛みと共にルィヘン・シンルースの心を苛んでいる。
「我が友にしてダークエルフのディニエル・ギルメネルは、ロザリンド渓谷で共にオークを討ち取った戦友だ。巡り合わせというやつだ。殿にと勇戦していたオークの雄の集団を、たまたまおれの隊とディニエルの隊で挟撃した。嫌な地形に陣取っているものだから、剣を抜いて戦わざるを得なかった。おれとディニエルは隊の犠牲を最小限とするべく、首長の首を取りに行き、ディニエルが膝の皿を打ち砕き、おれが首を斬った。以来、ディニエルとは親しかった。表立って何かができる国ではないから、出来ることは限られていたが」
北方の田舎エルフと南部の黒エルフが友好を結ぶのは、まずそのきっかけがなければ起こらない。とはいえ、肌の色は違えど彼女たちの中にある武を尊ぶ精神性と郷土への愛は、邪険にするにはあまりにも芯が似すぎていた。その間に何者が横たわっていようとも、友情とは一度芽生えれば消えないものだ。ルィヘン・シンルースとディニエル・ギルメネルは手を握り、抱き合い、エルフの時間にしては束の間の友情を濃密に過ごした。
そうして、エルフにとってはなじみ深い、終わりがやってくる。シルヴァン川の畔で、友の裏切りに激怒するディニエル・ギルメネルは吠えた。あらん限りの怨恨を、呪詛を、罵倒を、ルィヘン・シンルースに叩きつけた。裏切り者の虐殺者と罵った。骨の髄まで枯れ果てるがいいと呪った。それを無感情で受け止めるには、二人が過ごした時間はあまりにも甘く、濃過ぎ、深過ぎた。両手を伸ばせばまた抱き合えるという幻想に縋りつきたかった。また二人で夜を過ごす日々に戻れるという夢物語が、頭にちらついていた。だから、脳天に振り落とされる山刀を咄嗟に避けようとしても、その動きは遅すぎた。山刀は左手首を切り裂き、切っ先が左目を引き裂いた。血と涙で歪んだ視界に、雨と泥で濡れたディニエルの顔が見えた。泣いていてほしかった。こんなことになってしまった現実に、悲しんでいてほしかった。けれども、彼女の顔は復讐の憤怒を形作っていた。泣いていたのはルィヘンの方だけだった。それでようやく、もう二度とこの友情は元には戻らないのだと確信した。なにもかもがもう手遅れで、必死であったとしてもそれが報われることなどないのだと知った。そうして、騒ぎを聞きつけた部下たちが集まってくる気配を感じ取り、ディニエル・ギルメネルは行ってしまった。
「……それ以来、おれは体よく退役させられ、この港町で監察処分だ。そのせいで、先の戦争にも行きそびれた」
「内務省の資料によれば、少佐はこの町で民警団などを組織していたと聞きますが?」
「ああ、事実だ。そいつらもみんな動員されて、その後の混乱はおれも働かなければならなかった」
「それは、あなたが民警団とは別個の、事実上の私兵である自警団を組織してそれを運用しているということですか?」
「全部、知っているのだろう? ティリオンが落ち、国も落ちたのだ。今更、何かを隠そうとしたところで意味がない」
自嘲気味に笑いながら、ルィヘン・シンルースは自分のやったことを思い出し、すべて話した。
最初にやったのは監察官だ。家ごと燃やして始末した。敗戦のどさくさに紛れて始末される前に始末してやった。次にやって来たのは兵隊崩れの下種どもで、町長を脅してこの町を牛耳ろうとしたので全員まとめて海に沈めてやった。その次は正真正銘のクズがレバーアクションの良い銃を持ってきたが、町に招き入れて酔わせてから首を跳ねた。皆、北方人を舐め腐った阿呆どもにはお似合いの死にざまだった。北方人の郷土に汚い欲を垂れ流した報いを受けたのだ。オーク相手に背を向けて同胞を食い物にする、善に善なる民とは思えぬ所業の、それが末路なのだ。
すべて、ルィヘン・シンルースは話した。自分が近代国家にあるまじき行為を行っているのだということは十分に理解していたが、北方人としての誇りがそれを肯定していた。こういった本来であれば古臭い強烈な郷土愛と武人肌は、「非主流の者たち」と嘲られる北方人たちも自覚している。世界創生のとき降星を見なかった、渡海に従わなかった、では、なぜそうしなかったのか。見ざる罪を、渡らずの罪を、どう弁明するというのか。その答えは、単純明快だ。この土地で懸命に生き、そしてこの土地を愛し、この土地こそ我らの大地だと自負していたからだ。だから、北方人たちは大昔に祖先がこの地に残った時のお話に基づいて、北部特有の慣用句を使う。
「あの岬があまりにも綺麗だったから、な」
意味合い的には「後悔はない」とでも言うべきだろうか。
北部の氏族たちは、世界創生のとき降星を見るわけでもなく、仕事や家事をすることを選んだ。大航海の船出に参加するのではなく、見送ることを選んだ。それは自らの住むこの土地を愛していたからであり、その光景やなにもかもを受け入れ、満足していたからだ。光り輝く船出を見つめ、遠く薄れていく仲間たちを見送り、北方人たちは水平線の向こうに消えた船の姿を思い浮かべながら、フィヨルドの先を見据えて同じ言葉を呟いた。
「あの岬があまりにも綺麗だったから」
同じような言い回しでは、後悔していないかと聞く場合は「岬は綺麗だったか」と言うこともある。
さすがはオルクセンというべきか、コボルドの憲兵中尉はいつの間にか空にしたカップをテーブルに置くと、暖炉の火を見つめながら静かに言った。
「しかし、その岬は本当に綺麗だったのでしょうか」
ちゃぷん、と手に持ったカップを揺らし、ゆらゆらと揺れる中身を見つめながら、ルィヘンは投げやりな口調で返した。
「よくよく見ると、苔や貝やらで酷い有様だったのさ」
でもあの時は本当に、なにもかもが綺麗に見えたのだと、ルィヘンは胸の中でそう呟いた。