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短編【春夏秋冬 季節もの】

夏が来る。

作者: 仄賀 万紘

 彼女と出会ったのは、俺が中1の時だった。

 彼女は高1だった。


 公園の木々を抜けた先にある、彼女の家の広すぎる庭に彼女は大抵いつもいて、木陰で本を読んでいた。


 艶やかな長い黒髪に色白な肌。

 長いまつげに縁取られた瞳。

 スッと伸びた鼻筋に小振りな唇。


 文句なしに彼女は綺麗だった。


 年下の俺はガキ扱いされて、上手いこと手のひらの上で転がされていたに違いない。

 けれど、もしそうであったとして、俺は腹立たしいと感じたことはなかった。


 季節が巡る中で、夏は特に彼女のことを思い起こさせる。

 まるで忘れようとすることを許さないと言わんばかりに。

 そんなことしなくても俺は忘れることなど出来はしないのに。

 彼女が俺の胸を占めてしまうから、早く夏が過ぎてほしいと思う反面、どこかこのままずっと続けばいいと思う気持ちもあった。

 俺はあと幾度の夏を過ごせば、彼女を忘れることが出来るのだろうか。




 ――2年前。


 俺は友人と公園でキャッチボールをしていた。ふざけ合っていた中で、友人が暴投してしまったので、俺はボールを追って探すと、公園に隣接する家の庭に入り込んでしまっているのを見つけた。

 公園との間には高いフェンスがあったため、よじ登るのは無理だろうと諦めて、どこか入れるところがないか辺りを見回す。


 右奥の木陰に座る人影を見つけ、俺はフェンスに沿って近づいた。椅子に腰掛けた女性は真っ白なワンピースを身に纏い、本を読んでいた。


「あの、すいません……」


 俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。


(うわ……)


 目が合った彼女はとても綺麗な女性だった。思わず言葉を失って、じっと見つめてしまう。

 彼女も俺を数秒見つめると、優しく微笑んだ。そして――。


「どうしたの? 僕」


 微笑みと同じ、優しい声音でそう言った。

 俺の身長は150cm程度で、普段から実年齢よりも年下に見られる。クラスでの背の順はいつも最前列を争っている。……不名誉なことに。彼女もそう判断したのだろう。


「ボールが入ってしまって……」


 弁明するのも面倒で、幼く見られたことに対しては触れずに俺は彼女の家の庭に転がるボールを指差した。


「あ、本当だ。ごめんなさい、気付かなかったわ」


 彼女は読みかけのページに栞を挟み、椅子から立ち上がった。


「何年生なの?」


 歩きながらフェンス越しに彼女が尋ねてくる。


「……」

「お、反抗期?」


 おそらく幼く見られていることから答えづらくて黙ってしまうと、前のめりになった彼女が顔を覗き込んできた。長い黒髪が肩からさらさらと流れ落ちていく。


「中1……です」

「あ……ごめんね。小学生かと思っちゃって」


 彼女は気まずそうに唇を内側に仕舞い込む。


「別に……ちょっと前まで小学生だったし」

「ごめんって。拗ねないで」

「拗ねてない」

「ほ、ほーら、ボールだよ~」


 彼女は拾ったボールを左右に振って見せてくる。犬か何かだとでも思っているのだろうか。


「いくぞ~」


 そう言って、勢いよく腕を下から上に振り上げた。


(……あ)


 ボールはそれなりの高さまで上がった。しかし、それは前にではなく、後方へ。暴投した友人といい勝負かもしれない。


「あれ?」


 頭上を見上げていた彼女はそのボールを目で追い、よたよたと数歩後退していく。危な気な足取りだと思って見ていたら、そのまま彼女はバランスを崩して尻餅をついた。


「っ!!」


 捲れ上がったスカートから膝が見えて、慌てて視線を反らす。遠くでポトリとボールが地面に落ちる音がした。


「いったた……」

「……大丈夫、ですか?」


 彼女の方を見ないようにしながら尋ねる。


「うん、大丈夫。ごめんね~、ノーコンだったみたい」


 バッバッと土埃を掃う音が聞こえてくる。


「なんでそっぽ向いてるの?」

「別に……」

「反抗期? 思春期? 難しいな~」


 反抗期でも思春期でも、どっちだっていい。呑気な様子からして本人は何も気付いていないのだろう。


「悪いけど、表まで回ってきてくれる? 持ってくから、そっちで待ってて」

「わかりました」


 俺は友人に報告してから向かおうと一旦戻ることにした。


「おー、見つかったかぁ?」

「……」


 俺は何も言わずにグローブを投げつけ、友人に背を向けた。

 木陰でジュースを飲んで休んでいる方が悪い。

 後ろから「なんだよー」という声が聞こえたが、無視した。




 フェンスを辿って、家の正面と思われる方へ回る。彼女の姿はまだなかった。


(でかい家だな……)


 家だけでなく、豪勢な門構えにも怯んでしまう。こんなとこで突っ立っていたら警備員でも飛んでくるんじゃないかと落ち着きなくウロウロとしてしまう。


 門はどうやって開くのだろうか。自動だろうか。

 そんなことを考えていると門の脇にある小さな扉が開いて、彼女が顔を出した。


「……」

「え、どうしてガッカリしてるの」

「別に」

「また反抗期~? ボール返してやらないぞ~」

「それは……困ります」

「あ」

「?」


 彼女は何か思いついたようで、俺を見ると笑った。


「少年にいいものをあげよう」


 得意気な顔をされるが、俺としては早いところボールを返してほしい。


「いや、いいっす」

「ドライだね~。まあいいからついてきなって」

「え?」


 伸びてきた手に腕を掴まれる。日焼けした自身の麦茶色の肌に浮く、ひんやりとした彼女の青白い肌に「あ」と思った時には、門の内側に引きずり込まれていた。

 後ろでカチャンと独りでに閉まる扉の音を聞きながら、俺は手を引かれるまま彼女についていく。日焼けで熱を持った肌には、彼女のひんやりと冷たい手は心地よかった。


「……いいもんってなんすか」

「高級ジェラートだよ。貰い物だけど」

「食います」


 高級という響きに、それこそ食い気味に答えると、彼女は吹き出した。


「あっはは……現金だねぇ、君。いいよ、涼んでいきな~」


 屋敷の中に入ると、そこは無駄に天井の高い空間だった。


(俺の家の玄関いくつ分だ……?)


 さして広くはない、人ふたり並べる程度の自宅玄関を思い浮かべて、すぐに止めた。靴を脱がない様式らしく、土足でいいのだと頭ではわかっていても足元がそわそわとして落ち着かなかった。


「どうぞ、入って?」


 通されたのはリビングらしき場所だった。高そうな揃いのソファに机、調度品の数々。


(高そうなもんしかない……)


 居心地の悪い空間に、促されたソファへは尻を半分程度しか乗せられなかった。背筋も勝手に伸びてしまう。お盆を手にした彼女が戻ってくる。


「あれ? なんか緊張してる?」

「いや……広いリビングっすね」

「リビングは別にあって、ここは応接だよ」

「応接……」


 ということはこれよりもリビングは広いということだろうか。


「そっちに移動する?」

「……ここで大丈夫です」


 ただでさえ落ち着かないのに、移動なんてしたら余計に落ち着かなくなるのは目に見えている。俺は出されたガラスの容器をそっと手に取った。細かなデザインが施され、こちらもいかにも高そうである。スプーンを出来る限り容器に当てないようにジェラートを掬って、一口。


「うっま」


 あまりの美味しさにもう一口、二口とかきこむ。視線を感じてハッと顔を上げると、にこにこと笑う顔があった。見られていたことが気恥ずかしくて、口をキュッとつぐんで視線を反らす。


「かわいいねぇ。でも溶けちゃうよ? あ。アーンしてあげよっか?」

「自分で食べます!」


 底から溶け始めたジェラートを再び食べ始めると、彼女も一緒に食べ始めた。姿勢良く、ゆったりとした所作でスプーンを口に運ぶ様は上品だ。


「ごめんね。ずっと話相手がいなくて退屈してたから、つい嬉しくって」

「……そっすか」

「君、今夏休みよね? 部活とかはないの?」

「部活は大抵午前だけやって終わります」

「何部なの? 運動部?」

「バスケです」

「バスケかぁ~。運動部憧れるなぁ……私、運動はこれっきしだから」


 先程の暴投と転倒を思い出して納得する。つい笑ってしまうと、彼女は「ちょっと!」と言いながらも笑っていた。




 彼女は「よかったら、また話相手になってよ」と門まで見送ってくれた。別れた俺は友人の下まで戻る。


「あ! やっと戻ってきた。もう帰ろうかと思ってたところだぞ。どこ行ってたんだよ」

「隣の家でアイス食ってた」

「はあ? なんで俺も呼んでくれねぇんだよ」

「知るかよ。ボールもらうだけのつもりだったけど、なんか食ってけって言うから……。つーか、お前だってボール探しもせずにジュース飲んでただろ」

「う……だって喉渇いてたんだよ」


 友人が帰り支度をしてくれていたことには礼を言って、自転車を引きながら歩く。


「隣の家って、あのでっかいお屋敷か?」

「うん」

「へぇ~、あんなところに住めるなんてスゲーよなー。どんな人が住んでたんだ?」

「……おばあさん」


 もし本人に聞かれていたら怒られそうだが、なんとなく素直に教えるが癪で、俺は嘘をついた。




 その後、週の半分程度、彼女と顔を合わせるようになった。

 フェンス越しに少しだけ会話する日もあれば、家でお菓子を食べさせてもらったり、勉強を見てもらう日もあった。おかげで夏休みの宿題は順調に進んだ。


 彼女はあの広い屋敷に祖父と二人暮らしだという。通いのハウスキーパーと、臥せっている祖父のかかりつけ医が毎日出入りしているとも教えてくれた。ハウスキーパーの方は何度か顔を合わせたことがある。彼女が生まれるよりも前から勤めているらしく、テキパキと無駄のない仕事ぶりに、これがベテランか……と思った。


 いつも施しを受けてばかりなので、たまには自分からも何か手土産を持っていった方がいいだろうと思い、道中洋菓子店に立ち寄った。

 普段駄菓子を食べてばかりだから、彼女の家で食べるような洋菓子を……と思ったが、思った以上に種類があり、おまけに高い。


(クッキーが一枚で100円もするのか)


 店内を何周も回る中で、ふとショーケースの一角が目に入った。自転車で持っていくのは難しいと選択肢から外れていたため、ケーキの入ったショーケースは気にしていなかった。目についたのはケーキの隣に色とりどりに並ぶ、クリームがサンドされた丸いもの。近寄ってパネルを見ると、マカロンと書かれていた。カラフルで小さめだから、いくつか買っていけるかもしれないと思ったが、値段を見て一瞬硬直する。


(たっ……けぇ~)


『各250円』と書かれたパネルに項垂れる。その額なら駄菓子が相当買える。


「……」


 所持金は700円。あと予備で持ってきたお年玉5000円。

 一口で食べてしまえそうな小ささのマカロン。値段を知らなかったら絶対に一口で食べている。

 値段を知っているからちびちび食べる俺と、普段からゆっくり食べる彼女の姿を思い浮かべた。

 意を決して顔を上げると、ショーケースに組んだ腕を乗せてもたれかかる男性店員がいた。


「!」

「お、決まった? 」

「……はい」

「長いこと悩んでたねぇ」


 クスクスと笑われ、見られていたのだと今更思い知る。


「マ、カロンをください。ピンクと黄色と緑の……」

「はい、ピンク、黄色、緑ね」


 店員はショーケースを開けて、マカロンを取り出していく。


「……誰かにあげるの?」

「へ?」

「お母さんとか?」

「違います……」


 彼女との関係を何と言っていいかわからず言葉に詰まる。

 友達? 知り合い?


「……何人で食べるの?」

「? ふたりです」

「ふたりねー。じゃあ、3つで750円になります」


 俺がお年玉の袋から五千円札を出すと、また笑われた。


「はい、お待たせしました。どうぞ」


 紙袋を受け取り、何気なく中を覗くと、購入した3つのマカロン以外にさらに3つマカロンが入っていた。

 驚いて顔を上げると、店員はニッと笑った。


「試作品だからサービス。美味しかったらまた買いに来てよ」

「ありがとうございます」


 隣に男性が並んだので、お礼もそこそこに店の出入口に向かう。


「注文いいですか」

「はい。承ります」

「マカロン。全種類2つずつお願いします」


 店の扉を開けた際に男性の注文が聞こえて、思わず振り返る。男性の肩越しに店員が手を挙げて見送ってくれた。


(すげぇ。全種類買うとか……大人買いってやつか……)


 自転車の前かごに紙袋を入れて、ペダルを踏み込もうとしたが、力を入れかけてやめる。


「……」


 紙袋を手首にかけ、蹴らないように注意しながら自転車を漕ぎ始めた。


 彼女の家に着くと、見慣れない車が停まっていた。車に詳しくない俺が見てもわかるような高級車だ。

 誰か先客か、彼女の祖父の見舞いだろうか。


 インターホンに触れる寸前、玄関が開いて長身の男性が出てくる。目が合ってジッと見つめられたかと思うと、背を向けて家の中に戻っていった。その後またすぐに扉が開いて、今度は彼女がひょっこり顔を出した。俺を見つけるとにっこり微笑んだ。


 家の中に入ると、先程の男性が玄関に向かって歩いてくるところだった。皺ひとつないシャツに臙脂色のネクタイ、黒のベストとスラックスでジャケットは腕に抱えている。磨かれた革靴はコツコツと床を鳴らしている。髪はしっかりとワックスで整えられ、如何にも仕事が出来そうに見えた。


「あれ、もう帰るの?」


 彼女は男性へ親し気に話しかける。


「ああ。仕事の合間に寄っただけからな」


 男性が横を通り過ぎる間際、俺の顔から足元まで見下ろしていく。彼女は男性の後を追って、玄関まで向かう。長身の二人が並ぶ姿は絵になった。


「遅くなる前に家に帰してやれよ」


 彼女にそう言って、男性はエンジン音を鳴らして去っていった。


「今の人って……彼氏?」


 親密そうな二人の様子に尋ねると、彼女は目を大きく見開いた。


利史としふみくん!? 違う違う!」


 彼女が首を横に振ると、動きに合わせて髪が揺れる。


「従兄妹なの。時々こうして様子を見に来てくれてて」

「そう、なんだ」


 何故かホッとしている自分に首を傾げていると、彼女は「あ!」と声を上げる。


「来てくれてちょうど良かった! こっちに来て」


 彼女に連れられて行くと、そこはリビングだった。透明なガラステーブルの前に座って待っているように言われる。以前通された応接室よりも広かったが、何度か屋敷を訪れるうちにスケールの大きさに慣れたのか、さほど驚かなかった。


「お待たせ~。はい、紅茶ね」

「ありがとうございます」


 空いた座席に置いた紙袋を一瞥する。彼女が向かいの席に座ったら渡そうと、彼女がサーブしてくれるのを大人しく待つ。羽毛で肌を撫でられたようにそわそわと落ち着かない。

 彼女が自身のカップを置き、あとは座るだけといったところで「ふふ」と笑った。


「もうちょっと待ってて。すぐ戻るわ」


 落ち着きがないことがバレたのだろうか。俺は恥ずかしさから何も言えずに、奥に消えていくスカートの裾を見送った。


 彼女はすぐに戻ってきた。満面の笑みを浮かべて。けれど、俺は彼女の手元を見て、顔が強張るのを感じた。


「じゃじゃーん!」


 彼女の手元にはカラフルな山――ピラミッド状に積まれたマカロンがあった。


「……」


 ケーキ屋で見かけた男性と、彼女の従兄妹の姿が重なる。


(マカロン大人買いの人だったのか……)


 スーツのジャケットを脱いでいたからすぐには気が付かなかった。


「さっきのね、利史くんが買ってきてくれたんだ。一緒に食べよ」

「……うん」


 そっと荷物を置いた椅子を机の下に押し込む。しかし、ガラス製のテーブルのせいではっきりと透けて見えてしまっている。もう少し奥に進められれば、テーブル中央に敷かれたレースクロスの死角に入りそうなのに。


「なんか元気なくな~い?」


 テーブルに皿を置いた彼女が前のめりに顔を覗き込んでくる。そのまま彼女の視線がテーブルの下に隠した紙袋へ向かう。


 ――しまった。


 そう思った頃には時すでに遅く、彼女が口を開いた。


「君もプルミエ・ラムールに行ったの?」

「っ……」


 上手い言い訳が思い浮かばず、口ごもってしまう。何食わぬ顔で『行った』と口にするだけで良かっただろうに、変な反応をしてしまったせいで彼女が首を傾げている。


「その……いつも貰ってばかりだから、と思って……」


 こうなっては変に言い訳をしても仕方ないだろうと思い、正直に白状した。なんとも格好がつかないし、情けない。本来ならもっとスマートに渡したかったのに。まさか彼女の従兄妹が同じタイミングで買ってくるだなんて、どうやって想像できようか。


 気まずさから彼女の顔が見られない。目の前の山盛りマカロンと、紙袋の中にある手のひらサイズの子袋では比べ物にならない。


「なにそれ」

「……」

「すごく嬉しいんだけど」

「え……?」


 驚いて顔を上げると、彼女は言葉通り嬉しそうに微笑んでいた。その顔を見て、俺はまた言葉に詰まる。


「ね。何買ってきてくれたの?」


 また少し彼女は前のめりに迫ってくる。近づいてきた顔から逃げるように、俺は椅子から立ち上がって紙袋を手に取った。そして、彼女の隣まで行き、紙袋ごと彼女の眼前に差し出した。何か言わねばとは思ったが、上手く声が出なくて無言でしか差し出せなかった。


「ありがとう」


 彼女は受け取って紙袋の中を覗く。そして、一瞬固まった。当然の反応だ。


「もしかして、急に元気なくなったのって……」

「……」


 小さく頷き返す。


「……ねぇ。これ一緒に食べようよ」


 彼女が紙袋からマカロンの入った小袋を手に取る。


「利史くんには悪いけど、私こっちの君が買ってきてくれた方を食べたいな」

「え……でも……」


 ちらりと机上のマカロンを見る。開封されて皿に並べられているから、あちらから食べた方がいいのではないだろうか。


「じゃあ、君の食べてから、利史くんの食べよ? もともと利史くんのは食べきれる量じゃないから、どのみち残っちゃうと思うから気にしないで」

「……わかった」


 彼女の細い指先が小袋のリボンを解く。小袋を回して「どれにしようかな~」と楽しそうに選んでいる。多少気を使わせてしまった気はするが、喜んでくれているようでホッとする。


「ピンクと黄色と緑は売られているものだったんですけど、残りの3つは試作品だって言ってました」

「え、そうなの!? すごくレアじゃない?」


 彼女は驚いた表情を浮かべ、手元のマカロンを凝視する。急に食い入るような目つきに変わったものだから、思わず笑ってしまう。


「うーん……どれも気になる……」

「全部食べていいですよ」

「え、でも……」

「俺はこっちの食べますから」


 山盛りマカロンを指差す。


「そう? なんか悪いなぁ……」

「もともと貴女のために買ってきたものだし」

「……」

「?」


 途切れた会話に彼女を見ると、何とも言えない複雑な表情をしていた。どうしたというのか。


「いやー……将来が怖いなー」

「どういう意味ですか?」

「さあ?」


 彼女がマカロンを食べ始めたので、それ以上は教えてもらえなかった。

 正直どういう意味なのか気になったが、彼女があまりにも美味しそうに、嬉しそうに食べているものだから、いいかと思うことにした。





(この時間なら庭の方にいるかな……)


 俺はそう考えて、公園側から庭に向かう。

 木々を抜けた先、人影が見えて足を止める。目に入った光景に一瞬世界の音が止んだ。


 背筋を伝った汗は暑さのせいだろうか。陽光から身を隠した木陰に居ても、纏わりつくような暑さが拭えない。耳をつんざくような蝉の鳴き声がまた余計に暑く感じる。つい先程までそうであったのに、今は体の芯が妙に冷えているように感じる。


 視線の先には寄り添う男女。彼女とその従兄妹だ。彼女は従兄妹の胸に顔を寄せ、男性は抱き寄せるように彼女の頭に手を添えていた。

 美しい庭の一画で、まるでドラマや映画に出てきそうな光景だった。


 息を呑んで目を逸らせずにいると、小さく彼女の嗚咽が聞こえてきた。

 どこか立ち入れない空気に俺はたじろいで、逃げるようにその場を後にした。


 ――どうして泣いていたのか。


 胸に焼き付いた光景が頭から離れない。


 それからしばらく、夏休みが終わるまで彼女の家に行くことができなかった。





 夏が過ぎ、新学期が始まった頃。そろそろ顔を出そうかと彼女の家に向かうと、インターホンを鳴らしても誰も出なかった。

 留守だろうかと公園から庭の方へ向かうが、庭にも彼女の姿はなかった。彼女がいつも本を読んでいたガーデンテーブルのセットは落ち葉が薄っすらと積もっていた。しばらく手入れされず、また使用されていないことがわかる。


 彼女も新学期が始まり、忙しいのかもしれない。そう思い、時間帯や日を変えて屋敷を訪れてみたが、インターホンの音が虚しく響くだけで、庭のガーデンテーブルのセットに積もる落ち葉の量も増えていた。


 これが2年前の顛末。よく言われる『ひと夏の思い出』というやつだ。

 屋敷を尋ねるのは1ヶ月を過ぎる頃には諦めた。

 忘れられることはできず、毎年夏の訪れと共に苦い思い出が到来した。

 あの時、変な劣等感なんて抱かずに会いに行っていれば――。そんなたらればを繰り返しては後悔の味に唇を噛む。


 あとから知った話だが、彼女の祖父が亡くなったため彼女は親戚に引き取られることになり引っ越ししたらしい。彼女の家に勤めていたハウスキーパーと市内のショッピングモールで偶然会った時に聞いた。

「そうですか。ありがとうございます」とだけ言って別れた。それしか言えなかった。

 もしかしたら、あの日彼女が従兄妹に身を寄せて泣いていたのは、祖父が亡くなったからだったのかもしれない。





 俺はこの春、高校生になる。隣町の高校への進学が決まっている。意図したわけではないが、彼女の家からそう離れた場所ではない。


(また来てしまった……)


 俺は彼女の屋敷の前にいた。門のすぐ内側で来訪者を出迎えるように桜が満開に咲いていた。

 年に一度、夏になると訪れていた。何をするでもなく、ただぼんやりと眺めて時間を潰し、そのうち帰るのだ。

 夏以外の季節にここへ来るのは初めてだった。だからこの木が桜だということも初めて知った。


(いつまで捕らわれているつもりか)


 自分自身に呆れる。

 2年前以降一度も会っていないし、連絡も取り合っていない。

 けれど、俺はどこかで彼女が帰ってくるかもしれないと期待している。

 そんな自分にまた嫌気がさす。


(……帰ろう)


 屋敷に背を向けて歩きだそうとした時。

 カシャンという音の後、キィという音がした。

 ふわっと頬を撫でた風に何気なく振り返った。

 独りでに門の扉が俺を誘うように微かに開いた。


 その誘いに引き寄せられるように俺は気付けば門に手をかけていた。

 不法侵入だ、とかそんなことは頭になかった。

 扉に吸い込まれるようにして敷地に足を踏み入れた俺はそのまま奥に進んでいった。


 歩みを進めると。


「っ……!」


(なん、で……)


 俺は目に入った光景に目を見張った。

 門の奥に待ち焦がれてやまなかった彼女の姿があったのだ。

 足に根でも生えたのか俺は動けなかった。

 もしかしたら夢をみてるんじゃないかと思った。

 出会ったあの日と同じ真っ白なワンピースで。

 ふいにこちらを見た彼女は一瞬目を見張った後、ゆっくりと微笑んだ。

 2年ぶりに見るはずの笑顔を懐かしく感じる一方で、つい昨日のことのようにも思えた。


「会えるような気がしてたら、本当に会えた」


 そう言って俺の方へ歩いてくる彼女を信じられない思いで見つめる。

 桜が舞っている。まるで再会した彼女に喜びまとわりつくように。


「なあに? 人を幽霊でも見たかのような顔して。ちゃんと足ついてるわ」


 彼女はワンピースの裾を持ち上げて、すらりと伸びた足を覗かせた。


「それとも、私のこと忘れちゃった……?」


 裾を持ち上げていた手を滑らせるように下ろした彼女は少し目を伏せて、寂しげに笑う。

 伏せた睫毛は相変わらず長くて、肌は雪のように白い。

 なんで、とか色々な感情が俺の中から溢れかえりそうだった。

 彼女を見下ろす自分に、この人こんなに小さかったっけ?と不躾な視線を注いでしまう。


「……おかえり」


 色々聞きたいことも、言いたいこともある。

 けれど、まずはこの言葉がすっと出てきた。

 彼女は伏せていた目を上げると、嬉しそうに微笑んで。


「ただいま」


 俺は走ってもいないのに速まっていく心臓を彼女に悟られぬよう抑えた。

 改めて彼女を正面から見据える。

 記憶の中の彼女よりも実物の方がやはり綺麗な気がした。


「……背伸びたわね」

「ああ、うん。20センチくらい。まだ少しは伸びてる」

「そう……声も随分低くなっちゃって」


 ふふっと笑ったかと思うと。


「かっこよくなった」

「!?」


 予想していなかった言葉に俺は固まる。

 なぜこんなにも彼女に言われるだけで胸が高まるのか。

 それは俺が……。


「そっちこそ……」


 ――さらに綺麗になった。

 

そう言いかけて、俺は口をつぐんだ。


「なに? 言ってくれないの?」


 一歩俺に近づいてきて、顔を覗き込んでくる彼女は質が悪いと思う。

 頬に集まりかけた熱を逃がすべく、俺は話題を変えた。


「今日はどうして?」

「あ、逃げた」

「……」

「まあ、いいわよ。私ね、こっちの大学に進学したから帰ってくることにしたの」

「!」


 嬉しいという感情が表に出そうになってしまい、俺はきゅっと口を一文字に結んだ。




 あの夏の日々から2年。夏が訪れれば丸3年。

 もうすぐ俺は出会った頃の彼女と同じ年齢になる。

 彼女との歳の差を埋めることはできないけれど、彼女の時を辿る様で楽しくもある。

 当時の彼女はどんな気持ちだったんだろう。

 そう考えると胸が温かくなる。


 彼女が笑い、つられて俺も笑う。少しだけ泣きそうなのを堪えて。



 ああ、もうすぐあの待ち遠しい――。





 夏が来る。






 ――了――


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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