誓いの花畑
おんぼろバイクを数日ぺぺぺと走らせてやってきたのは、何やら甘い香りが漂う丘に辿り着く手前。
目的地が近いだけあって気が急くが、おんぼろバイクは呑気にぺぺぺと音を出すだけでスピードは出せない。
バイクの操縦主、似合わない金髪の被り物に柔らかい顔つきの少年トオルと、トオルの背中にしがみつく亜麻色のあどけなさを残している少女ソラは、この丘に来ることを前々から楽しみにしていた。
それも、数日前に長老から教えてもらった最高の景色が見られる丘。そこにやっとたどり着く。
離れた所からでもわかる甘い花の蜜の匂い。
二人が乗るバイクは角度のある急な上り坂でスピードが落ちてしまい、むしろ走った方が早いと判断したソラは後部座席から飛び降りて、丘へと向かう。
「あ、ソラ! 危ないだろ!」
「ごめーん! 待ちきれないんだもん」
反省する様子の見られない態度のソラは、バイクとの距離をグングン離していき、遂に丘へとたどり着いた。
「わあ!!」
ソラの目の前に広がるは、赤青黄緑紫と、一輪一輪がそれはもう色鮮やかな花弁を広げて歓迎した。丘一面に広がっていて、そこはまさに桃源郷だった。
坂の下からでも視界に入るほどの大木、その周囲を囲う花畑の丘にソラは踏み入れた。
トオルは坂道でスピードの出ないバイクに乗るのを諦めて、必死な形相で重いバイクを押して上ってきているが、花畑に魅入られたソラにはトオルの姿が見えていない。
丘の端の方には色褪せ看板が立っていて、今にも崩れ落ちそうな看板には、わずかながら読み取れる程度で次のように書かれていた。
『空が花色に染まる丘』
それを見たソラは首を傾げる。
「空が染まるの? ここに花畑はあるのにどうやったら空が染まるの?」
「おーい! ソラ~」
四苦八苦しながら坂を上っていたトオルが丘の入り口にようやくたどり着く。バイクを入り口に停めて、疲労の溜まった肩をぐるぐる回している。
海からだいぶ離れ、潮の薄れた風がソラの長い亜麻色を靡かせる。まるで花畑の妖精のようにソラは花畑を舞うように手を左右に広げてくるくる回る。
トオルはそんなソラの様子に頬が緩む。可愛らしいソラに追いつくために早歩きで向かう。
二人は合流してから自然に手を繋ぎ、花を一つひとつ愛でるように歩いた。
途中、蜂にびびるトオルにソラが笑いながら対処したり、トオルが肩車をして花畑を高い位置から見せてみたりと、二人のデートは邪魔の入らない素晴らしいものだった。
「おお!」
「すごーい!」
崖端に辿り着く前に、柵で囲われて道はそこで途切れているが、その奥には天使が住まう楽園のような、色鮮やかな花たちが一輪一輪主張するように凛と咲き誇っていた。
その花畑に足を踏み入れることはできないが、柵の内側から見ているだけで二人は十分だった。
誰もが納得する最高の場所。トオルにとってもここは死に場所として申し分は無いと思うほど、この花畑に魅入っていた。
だが、それはソラとのお別れということでもある。トオルは背中を伝う冷や汗に、決断すべきだと急かされていた。
トオルの様子がおかしいことに気付いたソラは、トオルの考えていることに気付いてしまった。そして恐る恐る話しかけるソラは緊張で声が震えた。
「トオルはこの場所をどう思った?」
「悪くないと思っている……けど、ソラ、ちょっとそこを見てみて」
トオルは大木の根元を指さした。
「どれ……あ、それは?」
「どうやら先客がいたみたいだ」
トオルが指さした先には墓標があった。トオルの膝辺りまでしかない小さな墓標で、大木の足元に隠れるように存在していた。
十字架の形をした墓標は花畑を慈しむように立っており、そばには鍵のかけられていない小さな箱があった。
ソラが手を組んで祈りを捧げた後、一声かけてから箱を手に取り、蓋を開ける。
中にあったのは風化したメモ用紙。赤茶けて文字が読みにくくなっていた。目を凝らし、ソラは書いてあった文字を読みあげる。
「『我、花と共に眠る。我を見つけし者、残春の候に咲き誇ることを祈る』だって……あ、この字、あそこの看板と同じ字だ!」
「そうなのか? 僕には分からないけど、それにしても残春の候ってちょうど今だよね?」
「うん、だけど何があるのかは分からないし、だからといって墓荒らしはしたくないし」
二人は謎解きのような文章に首を傾げる。墓標を詳しく見てみたが、これといったヒントは見当たらず、メモ用紙を箱に入れて元に戻した。
二人は墓標の見えない方、通ってきた道を眺めるように大木の根元に腰かける。今日も朝早くからバイクに乗って移動していたこともあって、二人は疲れていた。
しばらく葉擦れの音を聞きながら木陰で休んでいると、ソラがウトウトし始める。
「少し、お昼寝していこうか?」
「……うん」
ソラはトオルの右肩に小さな頭をコテンと乗せて、穏やかな寝息を立てて眠ってしまった。
身長差があってほぼ右腕に寄りかかっている状態ではあるが、トオルは自身の態勢が崩れない様に大木に背中を合わせて、しばらくそよ風に揺れる花畑を眺める。
すぐに眠気はやってくるだろうとそのままぼうっと眺め続ける。
春は終わりが近く、厚手のパーカーが鬱陶しく思えるほどには暑くなってきていた。
さぁっとそよ風が二人の顔を撫でる。そっと髪を揺らし、ソラの亜麻色の髪がトオルの頬をくすぐる。花に負けない甘い香りがトオルに届いた。
「眠れないじゃないか……」
ソラの甘い香りに目が冴えてしまったトオルは、ソラの寝顔を見つめて頭を優しく撫でる。
気持ちよさそうにトオルの愛撫を受け入れるソラはまるで顎を撫でられる猫の如く喉をころころ鳴らす。
「ん……くぅ」
「……可愛いな」
自分にはもったいないと思いつつも、トオルは絶対に手放さないと誓う。
昔、両親も仲間もいなくなって孤独に生きることが確定した時、トオルはその場で心臓にナイフを突き立てようとしたこともあった。
仲間を守れず、トオルは自分だけ生き残ったことに今でも後悔することがある。
お前だけでも楽しい人生を送れという仲間の遺言に従うふりをして、トオルは死に場所を探していた。感情を持たず、世界でたった一人の旅は、希望の見いだせない苦行でしかなかった。
数年旅を続け人生で初めて見る海に、トオルは引き波で自身ごと連れて行ってくれと願ったことがあった。
仲間の遺品と共に死ぬには絶好の場所だと海岸線を数日、優柔不断に彷徨っていた。そして、たまたま見つけた灯台にいたのが今、トオルの隣で穏やかに寝息をたてているソラだった。
あの場にソラがいなければ数日後にトオルは入水していただろう。実はあの時、トオルはかなり精神的に参った状態だった。
「なんでソラの横に立ったんだろう……わかんないな」
あの時のことを思い出してトオルは頭をかく。たとえ理由が分からなくても今、トオルが守るべき存在が隣にいる。
あの時とは違う。今度は守り切ってみせるとトオルはソラのおでこに口づけをする。だが、その顔が少し歪んでいるのが気になった。
「……死なないで? お願い……トオル」
「ソラ?」
ソラの寝言。トオルが己の過去に耽っている間にソラの寝顔はなんだか苦しそうになっていた。
ソラはトオルの右腕をずっと掴んでいた。ソラが寝ている間にトオルが逃げ出してしまわないように。
ソラの気付かないところで死んでしまわないように。
ソラの腕を掴む力が徐々に強くなる。痛みを伴わない優しい力だが、それでもソラの寝言が心からの願いだということはトオルの心に届いた。
届いたからこそトオルは覚悟を決め、ソラの頬に手を優しく当ててソラの耳元で囁く。
「……僕は死なないよ。だから安心しておやすみ」
「ん……よかった……」
ソラの寝顔から歪みが消え、安堵したものに変わり再び規則正しい寝息をたて始めた。その様子を見て安心したトオルにも睡魔が襲ってくる。
「この後も運転があるし、寝ておくか……ふあ~あ」
大きなあくび一つ。ソラを支えるだけの体勢からほんの少し変え、ソラに軽く体重を預ける。
トオルはソラの体温を先ほどよりも確かに感じながら短い夢へと落ちていった。
「……ふわあ、あれ、今何時だ?」
先に目を覚ましたトオルは時間を確認しようとするが、普段ポケットに入れて持ち歩いている懐中時計をバイクに置いてきてしまい確認することは叶わなかった。
ソラは未だに気持ちよさそうに寝ているが、そろそろ起こそうと軽く肩をぽんぽんと叩く。
「……ん? あ、トオル、おはよう」
「ああ、おはよう、よく眠れた?」
二人は寝ている間に無意識で手を絡めて繋いでいた。
腕を掴んでいたはずのソラにとっては不思議なことだったが、これはこれでいいと納得した。
「うん、よく分からないけど、安心して眠れたよ。トオルの肩はいい枕」
「ははは、届いてないけどな、よく眠れたなら枕になった甲斐があったよ」
未だ寝ぼけ眼のソラは目を擦りながらトオルに聞く。
「……それで、トオル。どうするの?」
「どうするって?」
「ここって、トオルにとって最高の場所?」
心配な顔をするソラを見て、トオルはまだ死なないと伝えていないことに気付く。先ほどはソラを安心させるためのトオル自身への覚悟。ならば、次に伝えることはトオルにとっての何だろうか。
トオルは右手だけは繋いだまま、ソラの腰に手を添えて共に立ちあがる。
先ほどはすんなりと言葉にできたトオルだが、面と向かい合って切り出そうとすると羞恥心があった。
「あー、えーと、ソラ……僕は死なないとこにしたんだ」
「よかった……じゃあ、ここじゃ物足りなかったの?」
「そうじゃないんだ。えぇと――」
トオル自身に対する覚悟は先ほど済ませた。ならば、次に口にするのはソラに対する覚悟。トオルが今までの生き方を変える決意表明。
「――僕はソラのために生きたいんだ。今までは僕のためにソラがついてきてくれたけど、僕がソラの目的のために一緒に旅をしたい。だから、僕は死なない。ソラを残して絶対に死なないと約束する」
「トオル!」
ソラがトオルに抱き着く。ソラはトオルが死なないと宣言したことよりも、ソラのために最後まで一緒にいてくれることに涙が止まらなかった。
トオルはソラの腰に手を回し、背中を優しく撫でる。なんとなくだったトオルが死ぬまでの仮初夫婦はここで永遠のものとなった。
「寿命は僕の方が圧倒的に短いから、そこはどうしようもないけど、せめて、僕の寿命が尽きるまでソラを守り続けるよ。ソラの旦那として、最後までそばに居続けるよ」
「嬉しい……いつか見捨てられると思っていたから……死に場所探してさっさといなくなっちゃうのが怖かった。また、一人になるのが怖かった。だから嬉しいよ、トオル」
お互いに見つめ合い、今後も二人でいることを誓い合う。
咲き誇る花たちが証人であり、そよ風に揺れる花弁はこすれ合いまるで拍手のような音色を奏でていた。
そして、二人は顔を近づけて深いキスをする。
お互いがお互いを離さない長いキス。時間の長さが二人の絆をより強固にしていった。
ソラが得意な強化魔法でもできない二人だけの魔法。それはお互いの息が続く限り続いた。
唇を離すと、二人とも顔がりんごのように真っ赤だった。ソラは目がとろんとしていて、トオルを見つめ続ける。
このタイミングを見計らってか、どこからともなく一陣の風が吹き荒れる。突然の暴風に二人は顔を隠した。風はすぐに静まり手をどかすと、目の前の花畑にほんのわずかな違和感を覚える。
「あれ、トオル? 花畑ってこんなにもすっきりしていたっけ?」
「いや、花の数が減った? だけど、今の風で花が千切れ飛ぶようなことは……」
「あ、トオル! あれ見て!」
その場を離れ、後ろを向いていたソラは柵に近づいてトオルを急かす。何事かと追いかけるトオルの目に飛び込んできたのは、雲一つない天色の空一面を覆い尽くすほどの花弁が優雅に舞っていた。
この丘に咲く花は今の時期がピーク。もう少しすれば完全に枯れてしまう花がほとんど。
咲き誇る力を失った花が健気に咲いている花と花の間に花弁を落とし、今のような強烈な風が来るのを今か今かと待ち望んでいた。稀にやってくる強烈な風は落ちた花弁を空へと連れ去り、空で舞踏会を開いた。
ソラとトオルが花の数が減ったと思い込んだのもこれが原因だった。
ソラは自らも踊りたくなるような光景を見て、看板とメモの言葉の意味を理解する。
「空が花色に染まるってこういうことだったんだね」
「ああ、残春だから見れる光景か、墓標の人もこれを見たんだね。僕たちは運がよかった」
二人の誓いを祝福するように花弁は天色の空を踏み、風が治まるまで踊り続けた。
トオルはソラの肩を引き寄せ、ソラもトオルの胸に身を任せる。
大木の下、共に生きていくことを誓い合った二人は、花弁の舞踏会が終わるまでずっと身を寄せ合い続けた。