世界の歌姫1
空は分厚い雲に覆われ、とぐろを巻くように足元を進むつむじ風は小さな男児の戯れのように無邪気だった。
昼間だというのに陽が射さずどことなく路上は暗い。雨こそ降らないが主婦が洗濯物を取り込むには十分な天気だ。
路上はコンクリートでしっかり整備され、住宅街に並ぶ木々にも手が加えてある。学校帰りの学生、夕食の買い物に向かう主婦。早帰りの社会人もちらほら。
住人は絶えず街を行き来する。かなりの人が出歩いているがこれでも少ない部類に入る。
この国はこの程度に収まらない。住宅街から観光客溢れる中心街に視点を変えれば、ここが全く別の国として勘違いする人は少なからずいるだろう。
――王都。
神が石碑を落とし、世界の中心として認められた国。終末を迎えてなお陰りを見せない。ここで揃わないものは無いと謳われ、どんなに遠い国からでも商人はいずれこの国にやってくる。
商人でない人はただの観光として毎日のようにどこかで開かれるイベントに参加したり、たまには豪華な食事をしたり、カップルなんかは誰もいない隠れスポットで愛の告白なんかが有名だった。
そして商人であれ、観光客であれ、はたまた職人であれ、王都に来て一度は必ず目にするのが石碑。
世界の中心である王都のさらに中心。ここは広場になっている最も有名な観光名所であり、石碑を見た者は感情が左右される。
石碑が写すもの……それは人口の推移。種族ごとに分かれた推移は正確な数字を現す。
過去の戦争において絶滅した種族は少なくない。絶滅せずとも数を減らした種族は数知れず、石碑を見て数字が増えていれば仲間と抱き合い、減っていれば仲間を思って涙を流すものもいる。
上の方に書かれていれば人口が多く、下にいくほど人口が減っていく。空を見上げるか地を見つめるかは人口の多さで別れてくる。
そして、地を見るためにこの石碑の元へ向かう一組の若い夫婦がいた。
似合わない金髪の被り物にゴーグルを額に付けた面の柔らかい少年トオルと、陽に照らされてきらきらと輝く川のような長い亜麻色の髪の少女ソラ。
トオルはバイクを手で押し、座席にはソラがトオルの腕をつかみながら座っている。
重量のあるバイクだが、押してみるとそこまで重さを感じない不思議な機体。ソラが座っていても平地なら難なく押すことができる。
二人がくぐる国の玄関は常にオープンにされている。衛兵が数人立っているだけでいつでも入出国出来るようになっていた。
トオルのバイクを押す手の平は汗だくで、前日から重苦しい顔つきでソラを心配させていた。
トオルはとにかく緊張していた。王都に近づくにつれ石碑を見ることが怖くなり、前日はソラに抱き着かなければ眠ることすら出来なかった。
ソラは国に入るとバイクを降りトオルの隣を歩く。トオルのシャツの裾を掴み、心配そうに顔を見上げるが身長が低くて、ちゃんと頭を撫でることができない。隣に寄り添うだけがソラに出来る精一杯の心配だった。
声を張り上げる出店やイベントのマイク越しの声を無視し、二人は真っすぐ石碑へと向かった。
どこか空回りの会話を繰り返すトオルにいつも通りを演じていれば、目の前にはいつの間にか石碑が二人を見下ろすように存在していた。
「これが石碑?」
「そうだよ。一番上にエルフって書いてあるだろ? 隣に書いてある数字もとんでもなく多い。下に行けば行くほど数字は小さくなって……」
視線は徐々に下へ向かっていく。一つずつ、呼吸を意識しながら時間を使う。やがて、視線は足元を見るように下へ向き……。
「ハーフエルフは……残り五人……残酷な真実だね」
「ああ、だから真実の石碑なんだ……」
ハーフエルフの文字に視線を向け、すぐ下に書いてある人族の数を意図的に見ない。
だが、イヤでも視界に入る残酷な数字を受け入れるためにトオルは視線をもう少し下へ向けた。
『人族 2』
「そうか……僕は一人じゃなかったのか」
安堵で肩の力が抜けたトオル。
石碑の横幅を大きく余らせたわずかな字数と共に表された真実。以前、ソラが言っていたことが正しかった。
トオルのかつての仲間「オリ」は人族ではなくドワーフである。そのことに気付けたのはソラがドワーフの特徴を知っていたから。
「僕は一人じゃない。そうか……また同胞と会えるのか。今、どこにいるだろうか?」
トオルの目が震えている。視線が定まらず、何かに摂り憑かれたようにぶつぶつとつぶやいていた。
「ねえ、トオル? ……トオル!」
「え? あ……ごめん、どうしたの?」
「なんか、今のトオル怖かったよ。本当はお仲間が見つかって嬉しいんだよね?」
トオルはもう一度石碑に目をやり、確かに数字が2と書いてあるのを確認する。
厳重な柵で石碑に触れることはできないが、そこには嘘偽りなく求めた数字が書かれていた。
「ああ、いつか会うことが叶うなら、心いくまで話したい。ご老人でも僕よりもっと下の子どもでもいい。……会いたい」
トオルが本当に求めていたのは最高の死に場所なんかじゃない。いないはずの同胞だったのかもしれない。そのことに気付いたソラはトオルのシャツを強く握り、ぽつぽつと涙を流した。
「どうしたの? ハーフエルフの人数が少なくて悲しいのかい?」
「うーん、わかんないよ。なんで涙が流れるのかな……私でもわかんないよ」
理由の分からない涙はソラの頬をつぅっと流れ落ちる。コンクリートでポツンとはじけ、染みとなって消える。
広場の騒がしさは変わらず、ハトは集団で空へはばたく。
二人の様相は後からやってきたイベントスタッフの宣伝によってかき消され、目元を拭くソラがそちらを見た。
「あれ、なんだろう? ずいぶん人が集まってるね」
「ちょっと行ってみようか」
人だかりが少なくなってきた頃合いを見計らって集まりの中心を覗き込む。イベントスタッフが何やらチラシを配っているようで、ずいぶんと人気があるようだ。
「世界の歌姫、『ミチル』のライブは二日後です! 立見席もございますので、どうぞ世界最高峰の歌声をお聞きください!」
スタッフから手渡されたチラシをソラと共に覗き込む。そこにはマイク片手に微笑む、トオルと同い年くらいの美少女が写っていた。
「へー、歌手のライブだってさ。最先端のスクリーン? で何か所も映すから僕たちでも楽しめるみたいだよ」
「スクリーンがよくわからないけど、チラシを見ると、いろんなところにライブの映像を映せるのかな? 丁度いいし見に行きたいね」
「せっかく王都に来たことだし行くか。…………え?」
「どうしたのトオル? ……あ」
突然動きが固まったトオルの視線の先、チラシの右下に歌手のプロフィールが載せられている。
『ミチル』という名前に生年月日と歌手としての経歴。そして最後には本人からのコメント――
『今回でライブは記念すべき十回目となりました! おめでたいですね。十回目ということでそろそろ私の声がもう一人の人族の方に届いているといいのですが、そう簡単にはいきませんね。それでも私は全力で歌い続けますから、みなさんも付いてきてください!』
たしかに書いてある。『もう一人の人族』
トオルはこの言葉の意味が理解できず手を震わせる。ただ、人族と書かれていることに思考が奪われ、他のことが何も考えられなかった。
先に回復したソラがトオルからチラシを優しく引きはがし、今度は経歴の方へと目を走らせた。
『世界に二人しかいない人族の一人。もう一人の人族を探すために歌手をはじめ、今では世界の歌姫として王都に君臨する――』
チラシに移る少女は黒髪黒目。これだけならドワーフと見間違うこともあるが、身長や髪の量などドワーフの特徴と一致しないところはいくつもあった。
「トオル、やっぱりこの人……」
「そうか、向こうは僕のことを探してくれていたんだな。それも何年もかけて。……よかった……本当によかった」
トオルの喜び方には何か特別な意味があるような、砂漠に落としたビーズを奇跡的に見つけた老人のように重い喜び方だった。
石碑に書かれた2の数字を見てから、もしかしたらトオルはその人を探しにどこかへ消えてしまうのではないかとソラを不安にさせていた。
突然老けたように肩を落として喜ぶトオルにソラは何も言えなかった。何か言うことが怖かった。
重い空気を嫌い、無理やりでも明るくしようと二人は泊まる場所を探しながら別の話題で笑うことを心がけた。トオルはバイクを押しながら、ソラに心配させてしまったことに気付き、何とか元気づけようと話かけるが、果たしてそれに意味があったのかどうか……。
「トオル、ここは?」
「もともと人族が住処にしていた区域だ。王都にいる間はどこかの家を借りよう」
無人となって久しい薄暗い区域。野良猫の根城となり、リーダーらしき黒猫がソラを睨む。
ソラは一匹に睨まれているだけなのに複数の目に見られているように感じた。恐怖に陥ったソラはトオルの腰にしがみつき、見た目相応の少女らしく、小幅で石畳の道を歩いた。
区画に入ってから三十分ほど練り歩き、トオルが足を止めた前にあるのはいたって普通の家屋。
他の街のようなレンガや木の家ではなくコンクリートでできた灰色の四角い家。
木々に囲まれた自然の中で過ごしてきたソラにとって、家と認識し辛い変わった形だが、トオルからしたらこれが人族の家であり、思い出を刺激してくれる懐かしい形だった。
経年劣化で風化が激しいこの区画で、形をきれいに保っていたのはここだけだった。
間違い探しのように二つ並ぶ家の内、トオルは右の家を選んだ。
「鍵はかかってない。ソラ、この家を借りようと思うけどいいかな?」
「いいけど、これが家なんだね。私の住んでた家と全く違うから驚いたよ」
「まあ、この形を好んだのは人族だけかな? これでも地震に強いし防火にもなっている。合理的な家なんだよ。見た目に風情はないけどね」
「たしかに。もっと色とか塗って鮮やかにしたら気分も晴れそうなのになぁ」
ソラはきょろきょろと他の崩れた家を見ては残念そうな顔をする。生きている街灯もわずかにしか残っていないこの区画で灰色だけが残っている。これでは元気も出ない。
バイクを雑草が生い茂る庭に停め、金髪の被り物とゴーグルをカバンに入れてから家に足を踏み入れる。外側のコンクリートと、部分的に木製のフローリングが二人を出迎えた。
玄関には窓が付いていて、曇り空でなければもっと明るい陽光が玄関を照らしていただろう。
トオルは玄関でブーツを脱ぎ、段差に足をかけたその時――
「……あれ?」
……違和感がある。トオルがその正体を探っていると答えは向こうから姿を現した。
スッスッと音を抑えたすり足で誰かが近づいて来る。奥の暗闇からひょっこり顔を出したのは――
「いらっしゃい。驚いた、まさか向こうから来てくれるなんて……」
「『ミチル』……。え? なんでここに?」
チラシで見たもう一人の人族ミチルがそこに立っていた。
肩に触れるくらいの長さの、人族特有の夜空のように吸い込まれそうな黒髪。気が付けば魅入ってしまう宝石のように澄んだ黒目。ソラはチラシでは気にしていなかったが、トオルが女性に生まれていたのならミチルのような見た目になっていたかもと思うほどに二人はどこか似ていた。
突然雲が晴れ間を作り、差し込まれた陽光で現実に引き戻されたトオルがその場から見える限りに家中を見渡す。
「埃がない。家具も古くない……もしかして、ここは君の家だった?」
トオルの問いかけに先ほどから驚いていたミチルも現実に引き戻される。慌てた様子で来客用のスリッパを用意し、トオルの問いかけに応える。
「うん、ここはわたしの家で間違いないよ。細かいことは落ち着いてから話そう。お客を玄関に立たせたままじゃ、どうも落ち着かない」
「ああ、入れてくれるならありがたいよ」
スリッパを履き、すたすたとミチルと共に奥へと向かうトオル。人族の文化に慣れていないソラは分からずもトオルの真似をしてブーツを脱ぎ、落ち着かない様子でスリッパを履いて二人を追いかけた。
「粗茶ですが」
「ありがとう」
短い会話が紡がれ、人族はお茶が好きなのかテーブルには三人分の湯呑が置かれた。静かにソファへ腰を落ち着かせた三人は無言で湯呑に手を伸ばす。ソラはまだそわそわと落ち着かない様子で二人を交互に見ながらお茶を啜り、静寂が続くほど心配になっていった。
「家自体は古いから汚らしさは残っちゃうの。いくら掃除してもぬぐい切れないからそこは勘弁ね」
「いや、勝手にお邪魔しているのはこっちだから気にしなくていいよ。話を聞いたら出て行くし」
知らなかったとはいえ勝手に家に入ったことを謝罪し、トオルが頭を下げると、ミチルは立ち上がって腰に手を当てた。
「まあ、とりあえず自己紹介から。わたしはミチル。さっきわたしの名前を呼んでいたから知っていると思うけど、王都で歌手として活動している」
「僕はトオル。とある目的のために旅をしている。君の活躍はすごいけど、いままでそれに気づかなくて悪かった」
「いやいや、こうしてお仲間と会えたんだから、こちらとして嬉しい限りだよ。それで、そっちのお嬢さんは……」
「わ、私は……ソラ。トオルの妻です」
ミチルは先ほどトオルを見たときと同じくらいに目を見開いて驚く。続いてトオルを見て、目で「本当に?」と聞く。
「ああ。ほら……これが証拠だ」
トオルが促し、二人で結婚指輪をミチルに見せる。二人の左手の薬指には七色に輝く鉱石が埋め込まれた指輪が嵌められている。
「本当だ……疑ってごめんなさい。ちなみに年齢を教えて貰っても?」
「うん、私の年は――」
出会ってから驚きっぱなしのミチルはまたしても驚きに目を見開く。何か考え込むような仕草を見せてはソラの全身を見る。
「ソラちゃんは私より年上だったのね。なんか偉そうにしてごめんなさい。それとトオルのことをそういう趣味の人かなって疑って……あれ? 疑いは晴れてないのかな?」
「おい、ソラの見た目で僕を判断するな」
「ははは、ごめんよ。ちゃんと分かってるって」
重苦しい空気はどこへやら。気の合った二人が楽しそうに会話する。目の前の湯呑から湯気が消えていくのにも気づかずに二人は話を続ける。
「そうだ。泊まるところがないならうちに泊まっていくといいよ。ここなら来客用の部屋もあるし、しばらくなら問題ないよ」
「それは迷惑にならないかい? 空いているなら隣の家でもいいし、他だって形の保っている家はあるだろう?」
「いや、他にはないよ。住めるような家はここと隣だけ。しかも隣は私の練習場だから住めるような状態ではないよ」
それからこの区画の状態を聞き、他に行く当てはないと判断したトオルはミチルの提案に甘えることにした。
客間を案内してもらい、そこに荷物を片付ける。そしてリビングに戻ろうとするトオルにソラは声をかけた。
「トオル……眠い」
「人が多かったし、歩き疲れちゃったか。布団敷いとくから着替える? 夕飯はどうする?」
「ご飯はいい。明日まで寝ると思う」
「うん。ゆっくり寝て疲れをとらないとね」
布団を敷いたトオルはソラが寝る準備をするのを待ち、電気を消した。「おやすみ、ソラ」と出て行く前に一言声をかけ、客間は静寂に包まれた。
「どうしてなのかなぁ。トオルの願いが叶って嬉しいはずなのに……寂しいよぅ」
今も一人置いていかれたような寂しさがソラのこころをざわつかせる。リビングから微かに聞こえるトオルとミチルの楽し気な声が遥か遠くから聞こえてくるようで、目の前の扉を開いた先に、誰もいないんじゃないかと不安になる。
布団を被るように顔を覆った。外側の音が遮断され、感情だけがそこに籠った。
だから“ソラは知らない”。
トオルとミチルはソラのいない間にどんな話をしたのか、翌朝、トオルの顔から重りが消えたように明るくなっていた理由も知らない。
ただ、独り。ソラがいなくてもトオルは……。
本人の意思とは裏腹に、枕は涙でしっとりと濡れていた。