第1話 空虚と陽だまり
「……」
「…………」
「………………ぅ」
夢も見ていない。急に意識がこの世界へ産み落とされたみたいに、唐突に目が覚めた。まだ眠いから瞼は意地でも開けないけど。
頭はまだしっかりとは働かない。胸側から伝わる少々の冷たさと、背中側から伝わる暖かさを感じ、得られる情報に満足する。
…でもあったまってない胸側の方に温もりが欲しくなって、本能に任せて寝返りを打った。
ゴロン。
すると、手や首筋にチクチクするような、擽られる感覚。今寝ている場所に何か特別肌に触るものがある。
寝ぼけながら手探りでそれが何か調べてみる。
ワサワサ。
ぶちっ
「…んぁ?」
掴めそうだったから思わずグッと掴んだら、動くまいとする抵抗があっさり手元から失われた。なんか引っこ抜いたっぽい。
掴んだモノごと拳を顔元まで引き寄せる。重々しくて瞼が開け難かったが、手の中の興味の方が優勢だった。ゆっくり微睡む目を開けていく。
「……なんだ、ただの草か…」
手に握っていたのは、細長い雑草数本。それだけだった。
顔を横へ向けると、今自分が草っ原で寝転がっているのが分かった。若々しいリーフ・グリーンの芝生が雄壮に生え盛っている。伸び伸びと生命力を宿らせている一本一本が、揃って真っ直ぐ空に向かって立ち尽くす。
視界に映るもう半分は、鮮やかに透き通る水色。顔を上げれば画の全てがスカイ・ブルーに染まりきる。ずっと空を見つめ続けると吸い込まれてしまいそうなほどに、奥の奥まで色が行き渡っている。雲一つ無い快晴は一切の淀みを見せない。
暖かく穏やかな風が靡く。さらさらと芝生に音を与えながら吹き抜けていく風はおよそ春〜初夏の雰囲気を醸し出す。起き抜けの身体を優しく撫でていき、堪らなく心地良さを植え付けられる。
その心地良さが、すぅっと気を遠くさせる。
気の向くままに、また微睡に溶け込んでゆく。
…
……
…………暫く、寝転がったままジーっと過ごしていた。はたまた二度寝というべきか。
再び目が覚めた時、その目に真っ直ぐ映るのは相変わらずの青空だった。雲は一つもない。どれほどの時間が経過しているのだろうか。
「…そういえば、ここはどこだ…?」
この場所について興味が向いた。ゆっくりと上体を起こして、改めて自分を囲んでいる景色を見回す。正面、左、正面、右。満遍なく見回す。
地平線と平行して二七〇度いっぱいに目を動かすが、期待とは異なってただ一つしか分からなかった。
…何も、ない。
ただただ同じ色、同じ背丈の芝生がどこまでもどこまでも広がっている。淡い水色の空との境界線まで、見える所までずぅっと。岩の一つも木の一本もまるで見当たらない。なだらかなリーフ・グリーンの大地が悠然とあるだけだ。
空も、真上に見えていた景色が大地すれすれまでぐるっと同じように傲然と浮かんでいる。雲はやっぱりないが、もう一つ気になったのは光差す太陽がどこにも見当たらなかった。確かに陽の光と温もりを肌に感じているのに。この明るさと暖かさと与えているのは一体何なのか、噛み合わない事象に疑問を感じずにはいられなかった。空はスカイ・ブルーの一色しか存在しない。
「…あ、起きたのぉっ?」
唯一視認出来ていなかった背後から、女の子の長閑な声が聞こえた。そこに誰かがいるとは思っていなかったから予想外だったが、口調が穏やかだったからかびっくりすることはなかった。その穏やかさに乗せられるように、まるでとても気の許している友達に声かけられた時みたいに、ゆっくりと身体を半分捻り、後ろを見遣る。座っているので、右足を折り畳み右手を後ろにつく、リラックスした体勢で。
…振り返って見遣ると、あまりのインパクトに硬直してしまった。
目に留まったのが、やたらとでかいフクロウだった。
ずんぐりむっくり。ベージュ色のお腹の体毛と茶色い褐色の羽毛に身を包ませたモコモコの姿。そのフクロウがじっと見ている。
その傍に声の正体であろう女の子がこちらの様子を観察しながら佇んでいた。
それは和装と洋装を合わせたような印象の格好。橙色の唐衣風の羽織りを襷掛けで長袖を絞り、懐はカシュクールブラウスと似た仕様になってて打ち合わせをリボンで縛る。ボトムスはネイビーのサルエルパンツっぽいものでゆったりながら身動きの取り易そうなスタイル。
…第一印象。多分同じ年齢くらいの、活発そうで、でも落ち着いててそうで、優しそうで…
「ねぇ、どこから来たのぉ? どうやってここにぃ? なんで寝てた…かは聞かなくても分かるかぁ。ここあったかいもんねぇ」
黒髪のポニーテールを揺らしながらトテトテ歩み寄って来て、すぐ手の届く距離まで近付いて来るとその場で屈んで目線を同じ高さに合わせてきて、柔らかくニッコリ微笑んだ。瑠璃色の瞳が興味の輝きを灯してこちらをまじまじと観察する。
…可愛い。
「ねぇ、名前なんて言うのぉ?」彼女は好奇心を隠さずにはいられず、思うままに訊く。
「…えと、ソラ…」
素直に受け答える。一瞬、俺の名前何だっけ…と自分の名前を咄嗟に思い出せず焦った。
「シドぉ♪」
すると合言葉に応じるみたいに彼女は笑って答える。子供のようなあどけない声と表情は実に楽しそうだが、なんか勘違いしている。
「…違う、『ソラ』だよ、音符じゃない」
「ああ、良いお天気だよねぇ〜」
「うおい、確かに不自然なほど澄み渡る青空だけど、俺は決してその事が言いたいんじゃない。俺の名前が『ソラ』なんだって」
「ああ、そうなのねぇ。シドはどうしてここで寝てたのぉ? というよりなんでここに居るのぉ?」
「わざとやってんだなお前…」
『シド』呼びされた事に引っ掛かって、ソラは質問そっちのけで質問返しをしてしまう。
「あれ、お気に召さなぃ? ソラシドって呼ぶ方が良ぃ?」
「何で実名で呼ぶ選択を取らねぇんだ!?」
「ねぇねぇソラシドぉ」
「そして馴染むの早いな! 聞いた意味ねぇし!」
「ソラシドはここに何の用事があってここにいるのぉ?」
「なんでって……ええと…?」
彼女が繰り返し訪ねて来る同じ質問への答えをうっすら考え続けていたのだが、なぜだろう。ちっとも心当たりがない。思い出そうとしてるのに、思い出す対象となるものがまるでない。
ーーここに来るまで何してたっけ。どうやってここへ来たのか。何でこんなところで寝ていた。…そもそも、此処はどこ?
「…答えられないことなのぉ?」
「いや、思い出せない…」
「…もしかして、もう認知症ぉ? まだ全然若そうなのにぃ」
「ちげぇよ、ボケてんじゃねぇ! そんなんじゃなくて…」
「もしかして純粋に、記憶がない?」
ニヤついてた顔が急に素朴な疑問をぶつけんとばかりの澄まし顔に切り替わる。…百面相。
「…多分…なんにも憶えてねぇかな…」
本当に一時的にただ忘れてるだけか、単に憶えてるけど思い出せてないだけなのか、それとも記憶喪失レベルなのか。
「う〜ん…どう思ぅ、クーちゃん?」
困ったような浮かない顔を浮かべそう言うと、彼女は後ろに控えているフクロウに視線を投げ掛ける。
まさかこのフクロウ、喋るのか…? なんて有り得ない想像をしたが、「クゥゥ」と気の抜けた小さな鳴き声だけ聞こえた。どうやらこのフクロウが異常なのは体長だけのようである。体長だけでも充分問題だけど。
「うん、じゃぁ…ねぇソラシドぉ、これからどうするのぉ?」
「え、すげぇ、なに今フクロウと会話したのか??」
「うんっ。何となく言ってる事分かるんだぁ、すごいでしょぉ」
彼女は誇らしそうに、そしてとても嬉しそうにドヤ立ちしている。是非ともそれを言って欲しかったと言わんばかりの彼女の様子は、そのフクロウとの付き合いの長さや仲の良さを全身で物語っている。
「何それ、超能力かよ…」
「そんな特別な事じゃないと思うけどねぇっ? …じゃぁなぁくぅてぇっ! どうするのぉこれからぁ?」
話が脱線することに焦れたのか、子供が駄々をこねるみたいに彼女は声を強調させてソラに詰め寄る。膨れっ面になっても彼女の顔は可愛いまんまで、詰め寄られたソラは思わずドギマギしてしまう。
「ちょ、あの、近いっ…」
「ああごめん〜」
ソラの言動を受けて彼女は申し訳なさそうに一歩だけ下がる。怒り気っぽかった割にはあっさり聞いてくれる辺り、素直で良い子なんだろうなぁ。
「…どうするか、と言われてもなぁ…」
『……』
…?
「…どうしたのぉ、ソラシドぉ?」
眉を下げ悩ましい表情をしていたソラが急に考えるのを放棄し遠くなった目つきに変わり、彼女は気になってしまう。
「…今なんか、聞こえなかった?」
「えぇ?」
ソラにそう言われて彼女も耳に意識を集中させるが、暖かな微風に揺られサラサラと小気味良い擦れ音を立てる芝生の音がする限りである。耳を澄ましながら辺りを一瞥してみても、やっぱり目新しいものなんてどこにも無かった。
「…なんにも聞こえないよぉ? 気のせいじゃなぃ?」
「……いや、誰か呼んでる…」
「え、声がするの?」
緩く間延びしていた彼女の語尾が、この時初めて緊張を帯びた。『誰か』と聞いて、彼女は警戒心を抱く。
「…お前は誰だ…何で俺を呼んでいる…?」
「…ソラ? 貴方、誰と話しているの…?」
ソラは真っ直ぐに何処かを凝視しているように見えるが、彼女がそれを目で追ってみても何かを見つける事は出来ない。ソラが幻覚に憑かれている風にしか思えないが、その心配は無いことを彼女は知っている。だからこそ、ソラが『誰か』と話している言動に疑う余地は無く、しかし彼女自身はそれが何なのか把握出来ない現状に、動揺させられてしまう。まるで手出しの仕様が無い。
すると、ずっと足を動かすことの無かったソラが突然歩き始める。懸命に気配を感じ取りながら一歩一歩探るように足を動かすソラを、彼女は何も言わずただ観察していた。
「…彼方だ」
そう言ってソラは真っ直ぐ、地平線の先を人差し指で差し示す。視線は指した方向から一切ブレないが、その言葉は独り言でも『誰か』に向けているわけでも無いことを彼女は雰囲気で察する。
「…彼方に、その相手がいるのね?」
「あぁ」そう言って、ソラは指した方へ一歩前進する。
「信じて良いの?」彼女は進もうとするソラを言葉で制す。案の定ソラは進みかけた足をピタリと止めた。
「…それは、俺が幻聴でも聞いてるんじゃないかってこと?」
「違う違う、ソラの事を言ってるんじゃなくて、その相手だよ。呼ばれてるから行くのは危ないんじゃない? もし相手が害を為すつもりだったらどうするの?」
「……」その場でソラは逡巡する。
「…今の俺は名前しか憶えていない空っぽの人間なんだ。行く当ても帰る当ても無い、此処が何処かも分からねぇしどうすべきかも分からねぇ。そんな状態の俺をピンポイントでお呼びだってんなら、どのみち避けられないんじゃねぇかな。少なくとも向こうは俺を知ってるかもしれねぇし。鬼でも蛇でも、呼び出しに応じなきゃ俺も進まねぇよ、多分な」
ソラは彼女に向かって観念した笑みを投げ掛ける。最悪死んでも仕方ねぇよ、とでも言ってそうで、彼女にはその笑った顔が痛ましく感じてしまった。
「…分かった、じゃあ此方も付いてったげる」
「コナタ…?」
「あぁ、此方って一人称ね。私のこと」
「え、何で…?」
「良いの良いの、別に取り急ぎやることがあるわけじゃないし。貴方が会おうとしてるのはどんな相手なのかなって興味あるから付いてくの」
「いや、危ねぇかもしれねぇってお前が言ったんじゃん…一人で良いって」
「もぉ強がんなくて良いってぇ、ほらこんなに手を強く握っちゃってぇ」
無意識だったが、いつの間にかソラは血色が変わるほどに自身の握り拳にやたらと力を入れてしまっていた。彼女はそのソラの拳を手に取ると、ゆっくり握り締めた指を開かせて、握手するようにぎゅっと柔らかく包む。優しい彼女の手の温もりが手からソラに伝わり、強張っていたソラの体の紐をちょっとずつ溶かしていった。
そのまま、彼女はソラが指していた方向へ歩き出す。繋いだ手を離すことなく、ソラをフワッと引っ張って導いた。そして温かく笑いかける。
「ほら、行こぉ? 大丈夫、きっと良いことが待ってるよぉっ」
軽快に前を歩く彼女は、まるでこの世界の太陽だと、ソラは思った。
「じゃあね、クーちゃん。よろしくぅ〜」
彼女は振り返りフクロウに向けて空いた片方の手を振り仰ぐと、バサァッと畳んでいた翼を広げ、あっという間に遠い大空の中へと飛び去って行った。