40
木に背中を預けて腕組みすると、ニコラスはふうっと大きく息を吐いた。
一時はどうなることかと思ったが、何とか自分の想いを彼女に伝えることもできたし、彼女の気持ちがまだ自分にあることも知った(拒絶されなかったから、そう解釈してもいいだろう)。
だからニコラスの胸には確かに喜びがあったが、実はそれ以上に安堵の気持ちが勝っていた。
ラザールとシルヴィが、ニコラスがエルヴィーネ姫を好きだと勘違いしていたのは青天の霹靂だったが、その誤解も無事に解くことができた。
けれど今回ニコラスが勇気を出してナルフィに来なかったなら、彼女は誤った認識を抱き続けていただろう。そんな状態では、たとえ彼女がローゲに上京したとしても、自分には会いにきてくれなかったに違いない。
ナルフィに来てよかった……!
ニコラスは自分の選択に、改めてほっと胸を撫で下ろした。
ぼんやりと目の前の池を見ながらそよ風を感じていたニコラスだったが、視界の隅にシルヴィの姿をとらえた。
シルヴィはゆっくりと自分に向かって歩いてくる。
そんな彼女を目にしたら、ニコラスの体が自然と動いた。彼女が自分のところに来るのをただ待っているなんてできなかった。
自分も彼女に近付きたい。早く自分たちの間に存在する距離を縮めたかった。だって自分は彼女のことをこんなにも好きなのだ。
一秒でも早く彼女に近付くために大股で安定したニコラスの足取りとは対照的に、シルヴィの足の運びは小さくふらふらしていた。そんなどこか頼りない彼女を、ニコラスは抱きしめたいと思った。
シルヴィをまっすぐに見つめていたニコラスだったが、シルヴィのほうは彼の視線から逃げるように顔をうつむかせた。
ようやくシルヴィの目の前に到着すると、ニコラスはまず彼女の頬に両手を伸ばし、そのまま上を向かせた。せっかく互いの想いが通じ合ったのだから、自分も彼女の顔を見たかったし、彼女にも自分を見てほしかった。
シルヴィは彼と目が合うと、恥ずかしいのだろうか、ぎゅっと目を閉じてしまった。いつもは白い頬が淡いピンク色に色づいていて、そんな彼女の様子をニコラスはたまらなくいとおしいと思った。
ニコラスは吸い寄せられるように身を屈めてシルヴィにくちづけた。その柔らかくて繊細な感触に、ニコラスの胸が歓喜一色に染め上げられる。
彼は屈めていた上半身を元に戻し、シルヴィを抱きしめた。彼女の体に回したニコラスの両腕に自然と力がこもった。
世界で一番愛しい人が自分の腕の中にいる。その喜びをニコラスはかみしめた。
彼は喜び一辺倒だったのだが、腕の中のシルヴィが鼻をすする音が聞こえてきて我に返った。シルヴィが震えていることにも気づき、彼は慌てて腕の力を緩めた。
ニコラスは恋人の顔を覗き込んだ。
彼女はニコラスの胸に顔をうずめて泣いていた。
「シルヴィ!? 何で泣いてるんだ!?」
ぎょっとしたニコラスが声をかけたところ、シルヴィは泣いていることをごまかすためなのか、何度も何度も瞬きを繰り返し、慌てふためいた様子で涙で濡れた頬と目を手でこすった。
「泣いてないっ……!!」
勢いよくそう言ったきり口を真一文字に結び、シルヴィは体をくるりと反転させてニコラスに背を向けた。その後も必死に手を動かして涙を拭き、一段と大きな音を立てて再度鼻をすすった。
明らかに泣いているのにそれを頑なに認めようとしないシルヴィは、まるで悪戯が見つかったにもかかわらず言い逃れようと悪足掻きする子供のようだった。これだけ証拠がそろっているのに否定し続けるシルヴィのその強情さが何だか彼女らしくて、思わず笑いが込み上げてきた。
彼女のこんなところさえかわいいと思える自分は、もしかしたらどこかおかしいのかもしれない。
「意地っ張り」
ニコラスはとうとう笑いをこらえることができなかった。
「……どうせ、意地っ張りよ……」
拗ねたような口調も、どうにも愛らしい。
やはり自分はどこかおかしくなってしまったようだ。
でも、それでもいい。
たとえ自分が本当に狂ってしまったのだとしても、ニコラスは素直にそう思った。彼女に対して抱くこのいとおしいという感情は、まぎれもない自分の心からの本当の気持ちだからだ。今自分が感じているこの幸せで穏やかな気持ちに浸れるのなら、自分が狂ったことを認めることなどたいした問題ではなかった。
「ああ、そうだな」
ニコラスはシルヴィの震えている両肩にそっと触れてから、彼女の体を包み込むように抱きしめた。
「でも、そういうところがかわいい」
ニコラスの言葉が思いがけないものだったのだろうか、シルヴィは驚きに目を大きく見開いてばっと振り返った。シルヴィの肩先ほどの長さの髪が彼女の動きに合わせて勢いよく舞った。
「えっ………?」
一瞬遅れてシルヴィの頬が赤く染まった。
どうやら自分の言葉も気持ちも彼女にちゃんと伝わったらしい。そう悟ったニコラスの胸が安堵と喜びでいっぱいになった。思わず頬がゆるんでしまうのを彼は感じた。
ニコラスは花の蜜に引き寄せられてしまう蝶のようにシルヴィのくちびるに自分のくちびるを重ねた。そうせずにはいられなかった。