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それを音で知ったニコラスは、肩口で留めていたピンをはずしてマントを脱ぎ、腕を後ろに伸ばしてそれをシルヴィに渡そうとした。
「必要ないわ。自分のがあるもの」
シルヴィはニコラスのマントを受け取ってくれなかった。
仕方なく彼はシルヴィに差し出したマントと腕を引っ込めた。行き場のないマントはそのまま左のひじにひっかけることにした。
きっと彼女は布を体に巻きつけているのだろう、衣擦れの音が聞こえてきた。
「で、話って何?」
「……振り返っても大丈夫か?」
ニコラスが許可を求めると、シルヴィは素っ気なく
「どうぞ」
とだけ答えた。
ニコラスはゆっくりと振り返った。
シルヴィは彼女の赤いマントを体にきつく巻きつけていたが、白い肩や腕はあらわになっており、彼女の肩より少しだけ長い髪からはとめどなく水のしずくがぽたぽたと落ちている。
彼女の肌をすうっと滑り落ちていく水滴に目を奪われていると、話し始めないニコラスに対して業を煮やしたシルヴィが
「それで?」
と話すように促した。
ニコラスははっと我に返り、マントがずり落ちないように胸の下で腕を組んだシルヴィと目を合わせた。
「……何で最近士官学校のほうに顔を出さないんだ?」
ニコラスの問いに、今までどこか堂々としていたシルヴィは急に顔をうつむかせた。
「何でって……。特に理由は……」
まるで別人のように、弱々しく歯切れ悪く答えるシルヴィ。
「ローゲには来るのに」
ぼそっとニコラスが呟くと、シルヴィはがばっと顔を上げた。
「あれはっ!!」
ところが、彼女はまたすぐに顔をうつむかせ、決まり悪そうに
「ただ単に友達に呼ばれただけよ……」
と釈明した。
うつむいた彼女の表情はニコラスには見えなかった。
しかし代わりに濡れた赤い髪と太陽の下でよりいっそう白く輝く彼女の肌が目に入る。
加えて、憎からず想っている目の前の少女が今身につけているのはマントと下着だけだ。
彼女と話さなければならないはずなのに、ニコラスの意識はどうしても視覚から入ってくる情報へ向かってしまい、彼は話すことさえ忘れ、うつむいたままのシルヴィに思わず見とれてしまった。
「………………………………………」
「………………………………………」
シルヴィも黙ったままだったから、沈黙が続いた。
野鳥がピピピ……と鳴いて、ニコラスはようやく我に返った。
「いろいろ心配するだろうが、いきなり姿を見せなくなったら。体調でも悪いのか、とか………」
ニコラスが沈黙を破って急に話し始めたからだろうか、シルヴィはびくっと肩を震わせ、小さな声で
「…………………悪かったわ」
と呟いた。
「その……前に変なことを言っちゃったから気まずかったの。ごめんなさい」
てっきりいつもの勝気な感じであれこれ言い返してくるだろうと予想していたニコラスは、しおらしい態度のシルヴィに度肝を抜かれた。
ニコラスは固まったまま、何の反応もできなかった。
「……………………」
再び黙ってしまったニコラスに、シルヴィが探るように訊く。
「……で、話って、それだけ?」
恐る恐るといった様子で自分を見上げたシルヴィは、ニコラスと目が合うとさっと再びうつむいた。一瞬だけ見えた彼女の目には明らかに不安と困惑が浮かんでいた。
常でない様子のシルヴィに、ニコラスも戸惑う。
「え!? あ……、いや……」
彼女もいつもと違うが、自分もそうだった。頭も口も体も別人の体を借りてきたようにうまく働いてくれない。彼女と話すためにわざわざナルフィまで来たというのに、意識があちこちに向いてしまって集中できない。自分が何を言いたいのか、どう話し始めていいのか、よく分からなくなってしまう。
「わざわざ文句を言うためにナルフィまで来たの?」
シルヴィはふっと笑いながら顔を隠すようにニコラスに背を向けた。
その細い肩が震えているのにニコラスは気づく。
シルヴィは泣いているのだ。ニコラスは直感的にそれを悟った。
何か言わなければ……!! だけど、何と言えばいい? どうすればいいんだ!?
考えれば考えるほどニコラスの頭は真っ白になってしまう。
ふいに彼女の体にまとわりついていた赤いマントが重力に引かれてゆっくりと地面へと落下した。
それと同時にシルヴィの体が動いた。
まるでニコラスから逃げるように、彼女は足音を立てずに前進した。
シルヴィが再び池に入ろうとしていると気づいたニコラスの体が自然に動く。
だめだ!! 行くな、シルヴィ!!
彼女が自分から離れるのを許してしまったら、きっと彼女の心も今よりもずっと遠くへ行ってしまう。
なぜだかニコラスはそう思った。
彼女を逃してはいけない。そんな衝動に突き動かされ、ニコラスはシルヴィの細くて頼りない手首をつかみ、引き寄せた。
彼は自分のほうに勢いよく飛び込んできたシルヴィの体に腕を回し、彼女を閉じ込めるように抱きしめた。