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池の周辺の木に馬が繋がれているのを発見したニコラスは、自分が乗っている馬から下り、その手綱を隣の木にくくりつけた。
あたりを見渡したところ、彼が今立っている位置のほぼ対岸に当たる場所で人の頭部が目に入った。髪の色がラザールと同じ燃えるような赤だったので、ニコラスはそれがシルヴィに違いないと思った。
彼女の姿を認めるとすぐに、ニコラスは池と陸との境界線沿いを歩き始めた。
シルヴィとの距離が近くなるにしたがって、ニコラスの目に映る彼女の姿ははっきりとした鮮やかなものになっていく。
彼女は草に覆われた柔らかい地面にひじをのせ、頬杖をついた姿勢で目を伏せていた。肩甲骨のあたりから下は池に浸かっている。
物思いにふけっているのだろうか、それともうたた寝でもしているのだろうか、ニコラスが近付きつつあることにはまだ気づいていないようだ。
剣の相手をする時にはいつも頭の高い位置で結われていた彼女のまっすぐな髪が肩先までしかなかったから、ニコラスは息を呑んだ。
シルヴィ……、髪を切ったのか!?
故郷スコルでも、留学先のティティスでも、髪の短い女性を彼は見たことがなかった。女性の髪は長いものだとばかり思っていたから、シルヴィの短い髪にニコラスは衝撃を受けたのだった。
シルヴィと剣を交える時、一つにまとめられた彼女の長い髪は彼女の動きに合わせて生き物のように跳ねたり弾んだりした。勢いよく宙を舞った彼女の髪がまるでくすぐるように彼の体を撫でたこともあった。
彼女の髪の柔らかい感触を思い出すと、ニコラスの胸がふいに苦しくなる。ついこの間のことなのに、時間を共有できていたことが妙に懐かしかった。けれど、シルヴィに避けられているらしい事実を思い出し、彼は絶望にも似た感情に打ちのめされそうになった。
剣を持ちながら踊るように軽やかに動くシルヴィの姿を、自分はもう目にすることは許されないのだろうか。
さまざまな感情に胸をうずかせながら、ニコラスは一歩一歩シルヴィに近付いていった。
時折野生の鳥の鳴き声と羽音が聞こえてくる以外は他に音もなく、太陽の光と青い空、緑色の大地と澄んだ池が楽園のような穏やかな雰囲気を作り出していた。
身動きしない彼女の白い肌と燃え上がるような情熱の色をした髪や長いまつ毛が太陽の光に照らされている。それはまるで物語の挿絵のように、とても幻想的な光景だった。彼女の腕のあちこちについた傷やあざだけが不釣合いで、何だか痛々しくて、ニコラスは無意識のうちに顔をしかめた。
久しぶりに会う彼女に早く自分に気づいてほしい。だが、この平和な光景をずっと見ていたい。
二つの相反する気持ちの間で揺れながら、ニコラスはあえて足音を立てた。
それに気づいたシルヴィははっと目を開けた。
「ニコラス………王子」
シルヴィはニコラスから逃げるように腕を伸ばして岸辺を押し、勢いをつけて後ずさった。彼女の体の首から下全部が水の中に沈んだ。
シルヴィがニコラスから遠ざかったことにより、今まで角度的に見えなかった水の中の彼女の体が目に入った。
澄んだ池の水は彼女の体を見えにくくするのに何の役にも立たなかった。
シルヴィは白いビスチェと同じ色の下着を身につけていただけだったから、ニコラスはそれに気づくや否や
「馬鹿かっ!! 何て格好してるんだ!?」
と声を荒らげ、慌ててシルヴィと池に背を向けた。
「別に裸で泳いでるわけじゃないわ」
聞こえてきたシルヴィの声は明らかにとげを含んでいた。
確かに約束を取りつけることもなしに彼女の個人的な時間を邪魔しているのは自分だ。
しかしニコラスとてただ遊びにきたわけではない。彼女と真剣に話をしたいと思っている。
彼女が水から上がる気配も音もしなかったので、ニコラスはシルヴィに背を向けたまま叫ぶ。
「とにかく!! 話があるから水から上がってくれ!!」
そう頼んだニコラスに対し、シルヴィは不機嫌そうに
「話ならこのままでもいいでしょ?」
と答えた。
「真剣な話なんだ」
低めの声で訴えたニコラスに、シルヴィはようやく
「………分かったわよ」
と言ってくれた。
そして彼女はじゃばじゃばという水音とともに水から上がった。