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会場である伯爵家のパーティーの間の入り口で客人を出迎えている伯爵夫妻と娘のペリーナに、ニコラスとタラバルドン夫人は挨拶した。
それが終わって中に入り、ニコラスが何気なくあたりを見渡すと、きれいに結われた赤い色の髪が視界に入った。背格好もシルヴィのそれと非常によく似ていた。
シルヴィ!? まさか……!?
最初は自分の願望のあまり彼女の幻影を見たのかとニコラスは我が目を疑った。
ところが、何度瞬きを繰り返しても、その姿は消えなかった。
茶色の前髪を後ろへと撫でつけた若い男と親しげに話しているシルヴィの後ろ姿に、ニコラスの胸に暗い感情の炎が灯る。
同時に誰かに後ろから殴られたようなショックを覚えた。
今まで彼女はローゲに来る時には自分に知らせてくれた。
それなのに、シルヴィはこうしてローゲに来ているにもかかわらず、今回は自分に何の連絡もよこさなかった。
自分はあの一件以来、こんなにも心をかき乱されているというのに。こんなにも彼女を恋しく想っているのに。こんなにも彼女のことが気になって仕方なかったというのに。
「夫人、知り合いを見つけたので、少しその知り合いに挨拶をしにいっても構いませんか?」
ニコラスはずきずきとうずく胸の痛みに気づかないふりをしながら、横にいたタラバルドン夫人に許可を求めた。
「ええ、もちろんですわ」
タラバルドン夫人が快諾したため、ニコラスは夫人をともなって、ゆっくりと、しかし確実にシルヴィとの距離を縮めた。
シルヴィから二、三歩ほど離れた場所まで来ると、彼女と茶色い髪の男のやりとりが聞こえてきた。
「馬車のところまで送ってやるよ」
「いいわよ、大丈夫」
はきはきとしたその口調。きっぱりと言い切ったその声。
どうにも懐かしい。
そしてシルヴィは男のひじのあたりへと手を伸ばした。
我知らず、ニコラスは彼女の名を呼んでいた。
「シルヴィ大公女」
ばっと振り返ったシルヴィは、驚きのせいなのだろう、目を大きく見開いていた。
幽霊にでも遭遇したような顔で彼女は自分を見ている。
「ニコラス……王子」
彼女に自分の名を呼んでほしい。そう思っていたのに、今の彼女の声は明らかに緊張しており、今までのような自分に対する打ち解けた気安さがどこにも存在しなかった。
シルヴィは心細そうに一緒にいた男の服をきゅっとつかんだ。
「ニコラス王子、こちらのかわいらしいお嬢さんはどなたですの?」
おっとりと尋ねるタラバルドン夫人のはんなりした声でニコラスは我に返った。
「あ……、ああ、こちらはナルフィ大公のご息女、シルヴィ大公女です。彼女は私の友人であるラザール大公子の妹君です」
「まぁ」
タラバルドン夫人はシルヴィに自己紹介をしようと口を開きかけたが、その前にニコラスが割り込む。シルヴィの横にいる茶髪の男が一体誰なのか、知りたくてたまらなかった。
「シルヴィ、こちらはタラバルドン夫人だ。そちらは?」
ニコラスはちらりと茶色い髪の男に目をやった後、すぐに視線をシルヴィへと戻した。
だが、彼女は顔をうつむかせたままだった。
「ハティ大公家のジョルジュです」
ジョルジュはシルヴィを待つことなくニコラスとタラバルドン夫人に名乗った。
「わたくしはベレニス・タラバルドンと申しますの」
タラバルドン夫人も会話に加わる。
「ええ、存じてますよ。あなたは有名な方ですから」
「まぁ、どんなふうに有名なのかしら?」
「もちろんその美しさでですよ」
「ありがとうございます。お上手ですこと」
「いえいえ、本当のことです」
タラバルドン夫人とジョルジュが会話している間、本当はシルヴィに話しかけたいのに、ニコラスの体は動かなかった。
一方のシルヴィもうつむいたままだった。だからニコラスとしても余計に彼女に話しかけづらかった。
「タラバルドン夫人、シルヴィ嬢が帰ると言うので、私は彼女を馬車まで送ってきます。その後に踊っていただけませんか?」
「もちろんですわ。楽しみにお待ちしております」
「では、またのちほど」
ジョルジュは慇懃にタラバルドン夫人に一礼してから、ニコラスに向き直った。
「ニコラス王子、失礼しますよ」
ニコラスに声をかけた後で、ジョルジュは
「シルヴィ、行くぞ」
とシルヴィの肩を抱き、このパーティーの間から出ていった。
シルヴィに話しかける時の彼の口調も、気安く彼女に触れるその態度も、彼がシルヴィと親しいことを示している。
シルヴィはジョルジュと深い仲なのだろうか。その可能性がないわけではない。ニコラスとシルヴィは恋人関係にあるわけではないし、彼女が本当にジョルジュと付き合っていたとしてもニコラスには異を唱える権利はない。
けれど、ニコラスの胸はどうにもざわついた。このほの暗い感情が嫉妬だということをニコラス自身も理解していたが、どうにも制御できなかった。