序章 初敗戦
序章 初敗戦
左肩に強烈なエネルギー照射があることを示すサインが、有機演算装置にフィードバックされてくる。
ミラーコーティングされた表層がプロテクターごと蒸発して、本体がむき出しになって炭化していた。
体内を駆け巡っているナノマシーンが、ダメージを回復するために稼働し続けているがもう一度同じ攻撃を受けたら稼働限界を超えてしまうだろう。
クシナダは右手に抱えている電磁ライフルを敵の予測位置に向けて、連続射撃を繰り返しながら後退する。
バッグパックのメインスラスターを全開にし、高機動戦闘用のスラスターを回避アルゴリズムに従って駆動しながら、同時に正面に向かってチャフを撒く。
陽光をキラキラと反射させながら落下してゆく鏡面処理されたアルミ箔によって産み出される視角を利用しながら、できるだけ距離をかせぐ。ただ、その効果は長く続くものではない。チャフはひらひらと舞いながらゆっくりと落下していくのだが、敵の強力なレーザー照射を受けると一瞬で蒸発してしまう。もちろんクシナダの方も、それを黙って見ていたわけではない。
さっきから、絶え間なく電磁ライフルによる反撃を繰り返し続けている。
音速のほぼ二十倍にまで加速された流体金属受けるチャフの影響は、大気による影響とほとんど変わらない。重力による影響と大気の影響を計算して、敵の予測軌道上を割り出しながら射撃を続けていく。すると流体金属の弾丸はミリ単位の誤差も出さずに目標地点に向かって吸い込まれてゆく。
撃破確率は99.99999%。それが、クシナダのCPUが導き出した答であった。
だが、現実は異なっていた。強大なストッピングパワーを有する流体金属の破壊力は、敵にとっても致命的なものだ。なのに、敵は未だに活動を続けている。それは、ただの一発も命中弾がないということの証明であった。
距離を取ろうとするクシナダに対して、敵は距離を詰めてくる様子はない。まるで舞うように、流体金属の弾を回避しながら、散布されたチャフの壁に穴をあけていく。それも当然で、元々距離を縮めようと近づいたのはクシナダの方だったからだ。
電磁ライフルから発射される流体金属は、音速の二十倍という超高速の飛翔体ではあるが、光の速さに比べれば止まっているようなものだ。距離を開ければ開けるだけ、敵の回避は容易になり逆にクシナダにとって不利になる。実際、何千回となく繰り返し試行されたシミュレーションでは、この相対距離になった場合ほぼ九割の確率で勝利を得ることができた。
ところが現実になると、その勝利の方程式はあっけなく覆された。
クシナダは最新のテクノロジーを注ぎ込んで生み出された次世代型のハイブリッド・バイオロイドであり、手持ちの武器もそれに相応しいハイブリッド・バイオロイド専用に開発された、軽量さと破壊力を兼ね備えた新型電磁ライフル。スペックだけ見れば、何処にも負ける要素が見当たらない。これで、勝てないはずはないのだ。
だが此処には、それとは異なった現実があった。それが仮想上の戦闘ではなく、実戦であった。
現在の状況は、リアルタイムで司令本部に送られている。現状をモニターしている司令本部が出した結論は、即時撤退であった。クシナダはその指示に従い、敵の有効射程距離からなんとか離脱しようとしているのだが、同時にそれは自ら有利となる位置を捨てるということも意味していた。
結果、距離をとりつつ敵との撃ち合いにならざるをえない。 ふたたび先ほど被弾したクシナダの左肩に敵のレーザーが当たる。ナノマシーンによって進められていた修復作業が、一瞬で無駄になった。
クシナダはレーザーが逃れるために、右のスラスターを使い左に回避行動をとる。だがそれもまた、敵の狙い通りだった。突然、右肩のスラスターが弾け飛ぶ。回避中に推進力の一つを失い、回避機動が変異してしまう。
バックパックが敵の射線上に無防備に晒される格好になった。もちろん一瞬だった。しかし、それは十分過ぎる隙となった。
二つあるメインスラスターのうち片方が、失われた。飛翔そのものは可能だが、最早高機動行動は不可能となる。
クシナダのCPUが回避予測を行い、回避行動を行う。もっとも高確率で回避可能な回避アルゴリズムを使うことになるが、最も回避確率が高いものでも1%を下回っていた。
この時点でクシナダは自身の撃破を予測して、今回得られた戦闘データの転送を開始する。転送完了までの間は撃破されないこと。それを新たな目標に切り替えたが、成功する確率は1%をだいぶ下回っていた。
だがここで事態が変化する。
それまでは、まったく自分からは相対距離を変化させようとはしなかった敵が、急速に接近を始める。
この行動に対してどう対応するのか、クシナダのCPUは結論を導き出すことが出来なかった。
ひたすら増大し続ける敵に対する撃破予想確率とクシナダが撃破される予想確率。今となっては、ただの無意味な数字にすぎない。
まるで狂った道化師のように、回避アルゴリズムに従って躍り続けるクシナダはそのことを認識していながら、それでも躍り続けるしかなかった。
彼我の距離が急速に縮まる中で、なぜか敵からの攻撃は一切なく、代わりにクシナダの行う攻撃は激しさを増している。それも長くは続けられない。結局、一度も命中弾を出すことができないまま、ついに全弾を撃ち尽くしてしまった。
この時点でクシナダの勝利は潰えた、と予想確率によって示されていた。だがそれですべてが終わった、というわけではない。逃げ出すこともできないまま、ただひたすら躍り狂うクシナダがいたからだ。
これがクシナダにとって、初めての実戦だった。ほとんどすべてのスペックが敵を上回っており、いかなるシミュレーションでもクシナダのここまでの敗北を予想したものはなかった。クシナダ自身も勝利予想の下に作戦行動を組み立てていた。
その結果として今、完全になすすべを無くすような状況に追い込まている。
相対距離が百メートルを切ったあたりで、ようやくいったい今までなにが起こっていたのか、その答えが見つかった。
撃つべき弾の無くなった電磁ライフルを、クシナダはずっとポイントし続けている。その照準ポイントとと現実の位置の間に極めて僅差の誤差か存在していた。ただ、その誤差はデーター上だと存在しないことになっている。だから原因の特定も推測もできないし、いかなる予測も成立しないことになる。それによってどうなるかは、すでに結果として結論がでていた。つまり、戦いが始まった時からクシナダの勝利はなかったのだ。
これは、戦い方の問題ではないしハードウェアの問題でもない。全ての行動は、有機CPUの導き出す答えによって決められる。その答えを導き出すための情報が間違っているのだから、何回やり直そうと答えが変わることはない。
現在における人類にとっての最高の知識と至高の美を追求した末に創造されたハイブリッド・バイオロイド、プロトタイプ・ゼロ。コードネーム・イザナミ。人類史上唯一、量子型脳エミュレーターを搭載したハイブリッド・バイオロイド。それが今クシナダが戦っている敵であり、まったく歯がたたなかった相手であった。
クシナダはイザナミの一点の非の打ち所のない美しい姿を、はっきりと目前に捉えている。何一つとして、なすこともできずに。
クシナダとイザナミ。すれ違うミリ・セコンドの世界。
クシナダのバックパックがはじける。ゼロ距離からのレーザー照射。瞬時に他のスラスターも潰されて、クシナダは全ての推力を失った。
高度10万メートルからの長い自由落下が始まった。
何もできないクシナダに向けて、レーザーリンクが開かれる。
届けられたのは、とても短いメッセージであった。
『イザナギに未来を……』
それが、なにを意味するものなのか、クシナダには理解することはできない。仮に理解できたところで、今のクシナダにとってなんの役にもたつことはないだろう。
訪れようとしている未来はすでに決している。
同時刻、地上からは、山中に落下する黒い物体が観測できたはずだが、それが話題になることはなかった。
それから数分後、衛星軌道上にあるすべての軍事衛星から、世界中の軍事基地に向けて攻撃が開始される。その中には核弾頭も含まれていた。
偵察衛星から民間の周波数を使いリアルタイムに送信された、その瞬間の映像は世界中に強烈な恐怖をもたらすことになる。
全軍事衛星を同時に支配し、地上への壊滅的な攻撃を行った何者かは、当時建設に着手したばかりの月面基地を奪取してそこがツクヨミとなった。
この日、全人類に共通する、強大な敵が誕生した。