竜のゆくところ 〜精霊の分け前〜
子どもたちが、坂を駆け下りていく。
海から吹き上げる風は冷たく、丘の低い草を波のように揺らしていた。坂の下には小さな港があり、その向こうの海は白く霞んでいる。
潮の匂いに、泥炭の煙が混じっていた。
雲はゆっくりと海の上を流れていく。
竜のゆくところ
~精霊の分け前~
「ジャックだ!」
弟の声に振り向くと、港へ入ってくる艀が見えた。
俺たちは坂道を駆け下りた。
海竜に曳かれた低い艀には、大麦の袋や木箱が積まれている。その向こうから、見慣れた角が覗いた。
「ジャック! お出迎えだぞ!」
海竜が笑うように声を上げた。
「お前たちはいつも元気だな」
艀が岸につくのも待ちきれず、俺たちは桟橋の先まで走った。
ジャックは大麦の袋の間から顔を出し、俺を見るなり鼻先を差し入れた。身体がふわりと浮く。
「去年より重くなったな」
「背が伸びたんだよ!」
足をばたつかせる俺の横で、弟が自分もやれと騒いでいた。
ジャックがうちへ来るようになったのは、曾祖父さんが酒を造り始めた頃からだという。
最初に揃えたのは、三つの小さな中古樽だったそうだ。その樽と、最初の大麦を運ぶために、港の配送所が手配したのがジャックだった。
それだけのことだったらしい。
ところが翌年も、その次の年もジャックが来た。いつからか、その年最初の大麦を運んでくるのはジャックの仕事になっていた。
港の配送所で荷が分けられ、大麦を背に載せたジャックと一緒に坂を上る。
海から離れるにつれて、潮の匂いに湿った麦と泥炭の煙が混じっていった。
蒸留所では、親父たちが朝から動いていた。
荷を下ろしたあと、ジャックは貯蔵庫までついてきた。
親父は樽の栓を抜き、細い棒を差し込んだ。引き抜いて、濡れた位置を確かめる。
「……今年はよく減ったな」
ジャックが樽へ目をやる。
「減るものなのか」
「精霊の分け前だ」
「精霊?」
親父は栓を戻した。
「樽の中で、酒が育つのを見てくれてる」
それから、樽の胴を軽く叩いた。
「減った分は、その礼だ」
ジャックはしばらく樽を眺めていた。
「そういうものなんだな」
「こいつ、ミラは昔からよく飲む」
うちでは、樽には一つ一つ名前がついていた。中に宿る精霊の名前だという。
同じ日に仕込んだ酒でも、樽が違えば減り方も、出来上がる味も少しずつ違う。親父たちは、それも精霊の気分だと言っていた。
俺にはまだ、その違いが分からなかった。
何度も秋が来た。
ジャックは変わらなかった。
海竜に曳かれた艀から降り、その年最初の大麦を運んでくる。いつの間にか俺たちは、港へ駆けていくより、荷を下ろす方が忙しくなっていた。
俺は親父のそばで仕込みを手伝うようになった。
床に広げた麦を返し、発酵槽を覗き、蒸留器の前に立つ。
親父はあまり教えなかった。
代わりに、ときどき二つの杯を持ってきた。
「飲んでみろ」
色はほとんど変わらない。
口に含むと、片方はすっと消えた。もう片方は、鼻の奥にいつまでも匂いが残った。
親父は何も言わない。俺が首を傾げれば、その日はそれで終わった。
しばらくすると、また二つの杯が出てくる。
何度繰り返したか覚えていない。それでも、いつからか親父が蒸留器の前で待っている理由が、少しずつ分かるようになった。
流れ落ちる酒の匂いを確かめ、俺が栓に手を掛ける。親父は隣に立っていた。
止められなければ、そのまま動かした。
そうやって仕事が増えていった。
親父の背中は、近くなったぶんだけ遠く見えた。
弟は弟で、よく蒸留所には顔を出した。
ただ、酒を口にするより先に瓶をひっくり返して底を見たり、貼ってある紙を眺めたりしていた。
港へ行けば配送所の荷札を覗き、島に来た行商人を捕まえて、向こうの町では何が売れているのか聞いていることもあった。
ある晩、食卓で弟が、もっと外へ酒を出せると言った。
親父は杯を置いた。
「今の仕込みを増やす気はない」
「今すぐ増やせって言ってるんじゃない」
弟はパンをちぎったまま、親父を見ていた。
「売れる先があるなら、その分を今から考えとけばいいだろ」
親父はしばらく黙っていた。
「酒は、急いでも育たん」
「だから今から考えるんだろ」
その夜は、どちらも引かなかった。
翌朝、弟は荷物をまとめた。
母さんは止めなかった。俺も止めなかった。
港まで送ると、弟は荷物を船へ載せてから、しばらく海を見ていた。
「兄貴」
「俺は、間違ってないと思ってる」
「俺も、お前が間違ってるとは思ってないよ」
弟は少し驚いた顔をした。
親父も、弟も、間違っていないんだと思う。
やがて船が岸を離れた。
弟は手を上げ、俺も上げた。
船はゆっくり海峡へ出ていった。
それから弟の手紙は、俺のところへ届くようになった。
町の酒屋で見た瓶や値段、土地によって好まれる酒が違うことなど、外で知ったことが細かな字で何枚も書かれていた。
手紙を重ねるうちに、知らない町の名前も増えていった。
最後には、いつも母さんは元気か、と書いてあった。
ある日届いたものには、遠い国で戦争が始まったらしいとあった。
人間だ魔族だなんて言っているが、結局は資源の取り合いだ。そのせいで、竜運の荷も少し遅れるようになったらしい。
手紙が届いていることは、親父にも伝えてあった。
母さんには、そのたび読んでもらった。
ある朝、仕込みに使う道具を並べていると、親父が古い帳面を持ってきた。
何年も親父が使ってきたものだった。麦の量や発酵の日数、その日の気温まで、細かな字で書き込まれている。
親父はそれを俺の前に置いた。
「今年から、仕込みはお前が見ろ」
手を止めて親父を見ると、もう別の道具を確かめていた。
その日から、親父がいつも立っていた場所に俺が立った。
最初の麦を乾かす日、泥炭をいつもより少しだけ減らした。
火の前にいた職人が俺を見る。
俺はそのままでいいと頷いた。
親父も気づいていたはずだが、何も言わなかった。
蒸留が終わり、酒を樽へ移す頃になると、その年に新しく仕入れた樽を見に行った。
どれも一度使われたものだったが、その中に葡萄酒を入れていた樽が一本あった。
栓を抜くと、木の匂いの奥に、まだわずかに甘い香りが残っている。
「これにする」
親父は樽を一度見ただけだった。
酒が入ると、樽は滑車で持ち上げられ、棚の上段へ収まった。
職人が、樽に掛ける木札を差し出した。
「名前は?」
俺は樽を見上げた。
「アイリス」
木札にそう書いて、樽へ掛けた。
最初の仕込みを終えた夜、弟に手紙を書いた。
今年から仕込みを任されることになったことと、親父がまだ隣で見ていることを書いた。あとは、いつもの近況を少しだけ添えた。
ほどなくして、弟から返事が届いた。
今度、島へ帰ること。町で一緒になった嫁さんを連れてくること。
母さんには、その手紙をそのまま読んでもらった。
親父には、その日の夕食で弟が帰ってくることだけ伝えた。母さんはもう何度か読んだ手紙を、食卓の脇に置いていた。
親父は少しだけ手を止めたが、何も言わず、そのまま食事を続けた。
船が着く頃には、風が少し強くなっていた。
弟は嫁さんと一緒に降りてきた。
荷物を受け取り、三人で坂を上った。港を離れるにつれて潮の匂いが薄れ、湿った草と泥炭の煙が混じってくる。
弟は何度か辺りを見回していた。
丘を上りきると、蒸留所の屋根と、煙突から流れる煙が見えた。
「兄貴、仕込み任されたんだってな」
「ああ」
しばらく歩いてから、弟が言った。
「兄貴、俺にも手伝わせてくれ」
俺は弟の方を見た。
「うちの酒は、世界一なんだ」
胸の奥が熱くなった。
親父も、弟も、間違っていない。
そう思った俺自身が、間違っていなかったことを確信した。
少しだけ息を整えてから、俺は言った。
「……親父には、自分で言うんだぞ」
蒸留所の入口には、母さんが立っていた。
その少し脇で、親父は樽の箍を確かめている。
俺たちが近づいても、すぐには顔を上げなかった。
弟は親父の前で足を止めた。
「親父。俺に、うちの酒を売らせてくれ」
そう言って、頭を下げた。
嫁さんも、その隣で続いて頭を下げる。
俺は二人の横まで歩いていき、そのまま親父との間に立った。
「親父。こいつに任せてやってくれ」
親父は少し驚いた顔をした。
俺の方を見て、それから弟を見る。
やがて背を向け、少しだけ天を仰いだ。
「……好きにしろ」
俺は、この場面をどこかで見たことがあるような感覚を覚えた。
母さんは、泣きながら笑っていた。
その夜、ささやかながら家族だけで弟の結婚を祝うことになった。
親父は棚の奥から一本の瓶を出した。何の酒かは言わなかったが、母さんは瓶を見るなり笑った。
弟の嫁さんの分も含めて、五つの杯が並んだ。
親父はいつもよりよく杯を空けていた。
どうやら、ずいぶん機嫌がいいらしい。
「お前たちの曾祖父さんが酒を造り始めた頃にな」
珍しく、親父の方から昔の話を始めた。
「その頃、爺さん……ウィリアムは、まだ二つだった。兄のジョージおじさんが八つだ」
親父は杯を傾けた。
「最初に買ったのは、三つの小さな樽だった」
一つ目は、何年か寝かせてから開けた。
ジョージおじさんが酒を飲める年になると、二つ目を開けた。
ウィリアム爺さんが酒を飲める年になると、三つ目を開けた。
「それからだ。うちで、あの二つの年数を残すようになったのは」
その夜は、いつもより遅くまで灯りが消えなかった。
翌朝、弟はもう帳場にいた。
昨夜あれだけ飲んでいたはずなのに、机の上には出荷の記録や注文票が広げられている。
親父は何も言わず、古い帳簿を一冊、その脇に置いた。
弟はしばらくページをめくり、それから黙って続きを読み始めた。
嫁さんは母さんと一緒に朝の片付けをしていた。最初のうちは家のことを手伝っていたが、弟が持ち帰る紙が増えるにつれて、帳場に座る時間も長くなった。
いつの間にか、帳簿のことは弟より嫁さんに聞いた方が早くなっていた。
弟夫婦はやがて、港の近くに家を建てた。蒸留所から歩いて通える距離だった。
弟は港と蒸留所を行き来し、嫁さんは帳場に座る。二人が戻ってきてから、外へ出ていく酒は少しずつ増えていった。
その頃から、蒸留所を訪ねてくる者も増えた。
「ここで働かせてほしい」
そう言って、昔からいる職人たちに混じって仕事を覚える若いのが、一人、また一人と増えていった。
弟が戻って一年ほど経った頃、俺が仕込みを任されて最初に造った酒も、一年を迎えた。
貯蔵庫で樽から少しだけ抜き、親父と弟にも渡した。
親父はいつものように、まず匂いを確かめた。
弟は杯を鼻先へ寄せて、しばらく黙っている。
「うーん……煙……蜂蜜みたいな甘さ。干した果物……葡萄だな。それから木と、少し胡椒」
親父が顔を上げた。
「なんだそれ」
弟は杯を揺らした。
「売り文句だよ」
俺は吹き出した。
親父は珍しく笑った。
飲み終えてから、三人で棚の上段を見上げた。
「十七年後が楽しみだな」
親父が言った。
薄暗い貯蔵庫には、木と酒の匂いがこもっていた。
十七年後なんて、まだずっと先のことに思えた。
弟も何も言わなかった。
しばらく三人で、同じ樽を見上げていた。
少しして、弟が何枚かの紙を持ってきた。
「瓶に貼る銘札も、新しくしようと思ってね」
机の上に並べると、どれもモルデンの名が入っていたが、字の形も飾りも少しずつ違っていた。
「兄貴、どれがいい」
順に見てみたものの、俺にはよく分からない。
「……分からん」
「だと思った」
親父も横から覗き込み、しばらく黙って見比べてから、一枚を指差した。
弟はその紙を手に取った。
「これ? 飾り気がないな」
少し離して、もう一度眺める。
「まあ、うちの酒には合ってるかもね」
俺は笑いながら言った。
「後は中身で見せろってことか」
親父は振り返らなかった。
樽の方へ戻りながら、背中越しに片手だけ上げた。
それから少しして、俺も所帯を持った。
嫁さんは酒造りのことには詳しくなかったが、忙しい時期には母さんと一緒に食事を用意したり、職人たちの分まで湯を沸かしたりしてくれた。
先に、弟の家に子どもが生まれた。
何年かすると、うちにも子どもが生まれた。
その年の秋、ジャックが大麦を運んできた日に、俺は子どもを抱いて港まで迎えに行った。
ジャックは鼻先を寄せ、しばらく子どもの匂いを嗅いでいた。
「小さいな」
俺は子どもを抱いたまま、ジャックを見上げた。
昔は、あの鼻先に持ち上げられていた。
秋になるとジャックが大麦を運び、冬には蒸留所から湯気が上がった。春には新しい樽が貯蔵庫へ収まり、夏になれば道具を直し、天気のいい日には泥炭を切った。
港へ送る荷には知らない町の名が増え、手狭になった貯蔵庫の隣には、もう一棟が建った。
昔からいる職人に混じって仕事を覚えていた若いのが、いつの間にか新しく入った者へ手順を教えるようになっていた。
親父は仕込みに口を出すことこそなくなったが、蒸留所から離れたわけではなかった。樽の箍を締めたり、道具を直したり、朝からどこかで手を動かしていた。
やがて、俺が仕込みを任された最初の年の酒が十二年を迎えた。
十二年で出すと決めていた樽を開け、瓶に詰めた。
しばらくして、弟が帳場から顔を出した。
「評判いいぞ」
次の出荷では、見慣れない町へ向かう荷がまた増えていた。
酒は、そのあとも島の外へ出ていった。
弟が持ち帰る注文は増え、帳簿には知らない町の名前が並ぶようになった。港では、うちの荷を待つ竜運の荷車を見かけることも珍しくなくなった。
子どもたちも大きくなった。
昔、俺たちがジャックを迎えに走った坂を、今度はあいつらが駆け下りていく。
ジャックは、そのたび同じ顔でこちらを見ていた。
ある秋、親父が仕込みを見ていた最後の年の酒が、十八年を迎えた。
ちょうどその日、ジャックが今年最初の大麦を運んできた。
貯蔵庫では、瓶に詰める前の樽出しが始まっていた。栓を抜き、最初に少しだけ取った酒の香りを確かめる。
外では、荷を下ろし終えたジャックを子どもたちが囲んでいた。
昔の俺たちと同じように、角に触ろうとしたり、鼻先を撫でたりしている。
俺はその様子をしばらく見てから、なんとなく声をかけた。
「ジャック。飲んでみないか?」
ジャックは子どもたちの向こうから顔を上げた。
「ほう? 酒はあまり飲んだことはないが、面白い。いただこう」
俺は樽出しに使っていた浅い器へ、少しだけ酒を注いだ。
「これは、親父が仕込みを見ていた最後の年の酒なんだ。十八年になる」
ジャックは器へ鼻先を近づけ、しばらく香りを確かめた。
それから、舌先で少しだけ舐める。
「たった十八年で、これほどの味わいになるのか」
その言葉を聞いた途端、泥炭の煙の向こうに、湿った大麦の匂いが重なった。
港から吹いてくる冷たい風。坂道を駆け下りたこと。鼻先で持ち上げられて、弟が横で騒いでいたこと。
あの頃と同じ匂いだった。
顔を上げると、子どもたちがジャックのそばにいた。
親父の髪には白いものが増え、弟には家族がいて、俺にも家族がいる。蒸留所では、昔はいなかった職人たちが働いている。
十八年。
ジャックには、たった十八年なのだろう。
「……長いんだよ」
声が少しだけ掠れた。
「人間の十八年は、長いんだ」
子どもたちの方を見ないように、俺は少しだけ背を向けた。
ジャックはしばらく俺を見ていた。
「そういうものなんだな」
それから、器の中に残った酒へ目を落とした。
「では、大事に飲まねばな」
俺は目元を拭った。
「……ありがとう、ジャック」
帰り際、ジャックは一度こちらを振り返った。
「次は、お前の十八年を楽しみにしている」
そう言って、いつものように坂を下りていった。
次の秋、俺が仕込みを任された最初の年の酒が、十八年を迎えた。
開けるのは、ジャックが今年最初の大麦を運んでくる日にしようと決めていた。
朝から家族が集まっていた。
海から上がってくる風は冷たく、丘の低い草を波のように揺らしていた。港の向こうは白く霞み、蒸留所の煙突から上がった煙が、風に押されて横へ流れていく。
親父も、母さんもいた。弟夫婦も、子どもたちもいる。
うちの子は、朝から何度も港の方を気にしていた。
やがて、坂の下から声がした。
「ジャックが来た!」
うちの子が駆け出した。
弟の子も、そのあとを少しゆっくり、笑いながらついていった。
二人の背中が、風に揺れる草の向こうへ小さくなっていった。
潮の匂いに、泥炭の煙が混じっていた。
俺はその背中を見送ってから、貯蔵庫へ戻った。
薄暗い棚の中に、十八年前に書いた名前が残っている。
アイリス。
俺はその樽に手を置いた。
最初の一杯は、あいつに飲んでもらうんだ。
これは、俺たち家族を見守ってくれる、竜への分け前。




