梨畑から
飯泉の梨畑から、人が消えた。
初めは、どこぞへ出掛けたものと思っていた。
勝三郎も、その妻も、爺様もいない。仁吉の姿もなかった。
だが、家財は残っている。
いつものように使われた膳に、農具、籠。庭先には梨の木まで、昨日と変わらぬ姿で立っている。
人だけがいない。
時節が時節である。
関白殿下の軍勢が東国へ下るという話は、もはや噂では済まされなかった。北条は小田原へ人を集め、兵糧を蓄え、城のみならず領内の諸家へ軍役を命じている。
勝三郎が仕える花蓑家も北条方であった。
大身ではない。小田原近郊に所領を持つ、小さな家である。
勝三郎の家もまた、花蓑家に仕える小身の被官。飯泉に僅かな田畑を持ち、その一角では代々梨の木に手を掛けてきた。
普段は土にまみれて暮らしていようとも、主家から呼ばれれば槍を取らねばならぬ。
千景は、それを誰より知っていた。
否。それどころではない。
この戦が来ることを、勝三郎より遥か以前から知っていたのである。
千景は網一色の生まれだった。
その家の祖を辿れば、相模で北条に仕えた風魔の流れへ行き着く。ただし、千景の家は既に風魔の組には属していない。
袂を分かったのは祖父の代。甲斐や駿河へ探索に出された男が現地で独自の伝手を築き、ついには元の組へ戻らなかったのだという。
以来、その家は小田原に根を残しながらも、北条直属の忍びではなくなった。
父の代を経て、千景は織田に仕えた。
甲斐、越後、相模。
武田、上杉、北条。
東国諸家の動向を探る仕事を幾つも担い、織田の天下が崩れた後は、そのまま羽柴秀吉の下へ移る。今ではすっかり豊臣方の人間である。
表向きに担うのは算用の役目だった。
帳面を読み、算盤を弾き、蔵入地の収支を確かめる。米や銭の出入りを調べ、検地や収納のため諸国へ赴くこともあった。
それ自体に偽りはない。
しかし、本当の役目はそれだけではなかった。
人を見、道を見、城を見、兵を見る。
誰が誰に不満を持ち、誰が誰へ書状を送り、どこへ兵糧が運ばれ、どこの守りが薄いのか。必要なものはすべて目に収めた。
時には盗み、欺き、人を寝返らせる。
必要とあらば、殺すこともある。
豊臣と北条の間がいずれ戦になることも、千景は早くから承知していた。そのために何度も小田原へ戻っている。
故郷へ帰ることと、敵地へ潜ること。
千景にとって、その二つは同じ意味を持った。
網一色の道も、酒匂川も、飯泉の畑も、幼い頃から知っている。勝三郎の家へ顔を出すこともあった。
「喜平、また戻ったのか」
「仕事じゃ」
「お前はいつも仕事だな」
「其方はいつも梨じゃな」
「梨は逃げんからな」
「仕事も逃げてくれれば楽なのじゃが」
そんな話をした。
勝三郎は、千景が織田に仕え、その後豊臣方へ移ったことは知っていた。だが何をしているかまでは知らず、算用の役目だと思っている。
千景も、それ以上は話さなかった。
話せるはずもなかった。
戦が来ると分かっている。
勝三郎の家にも軍役が掛かるだろう。
それでも、
――逃げろ。
とは言えない。
豊臣方の内情を敵方へ漏らすことになる。
そして勝三郎も、
――助けてくれ。
とは言わなかった。
それは花蓑家を、ひいては北条を裏切ることになる。
幼い頃から知っている。互いの家へ勝手に上がるほどの仲だったというのに、肝心なことだけは話せなかった。
そうして、ある日。
勝三郎一家は消えた。
千景は死に物狂いで探した。
花蓑家の軍勢に加わったか。小田原へ入ったのか。どこぞの支城へ送られたか。それとも戦になる前に逃げたのか。
己の持つ伝手を使い、北条方の動向を探り、かつて同じ流れにあった風魔筋へさえ、それとなく手を伸ばす。
それでも見つからない。
やがて小田原城は開き、北条の世は終わった。花蓑家もまた旧領を失う。
勝三郎一家の消息だけが、ついぞ掴めぬまま残った。
*
翌年。
大坂へ戻っていた千景は、城内の一角を歩いていた。
豊臣の大坂は広い。
御殿もあれば、詰所も蔵もある。家臣らの屋敷まで含めて一つの城と思えば、千景自身ですら時折うんざりするほどだった。
算用のことで呼ばれ、幾つもの帳面を抱えて歩いていた時である。
脇の一室から少年が出てきた。
まだ小柄で、元服して間もないのだろう。傍らに置かれ、今にも倒れそうになっていた屏風を直すと、そのまま部屋へ戻ろうとする。
千景は、その横顔を見た。
「……仁吉?」
少年が振り返る。
千景の足が止まった。
間違いない。
髪形も、着物も違う。
それでも、幼い頃から見てきた顔を見違えるはずがなかった。
「仁吉ではござらんか……?」
「……おじ様?」
気付けば、少年の前まで歩み寄っていた。
「なにゆえ斯様なところにおるのだ? 其方の家は花蓑に仕えておったであろう。ここは大坂ぞ。関白殿下のお膝元ぞ?」
仁吉は一瞬、困ったような顔をした。
それから、教えられたことを間違えぬよう、一つ一つ確かめながら答える。
「父上様と母上様、そして御爺様から、わたしは御婆様のご実家である佐野家の養子となりました」
「……佐野家へ?」
「はい。佐野の家は既に関白殿下にお仕えしておりますゆえ」
そこで少し言葉に詰まった。
「皆は……皆は、花蓑の殿様と共に北条様へ御奉公する故、私は佐野へ行くようにと……」
「…………」
「決して悪い事にはならぬ。そして、これから仕える方々を恨んではならぬ。佐野の者として精進するよう言いつけられたのです……」
千景には返す言葉がなかった。
分かってしまったのだ。
勝三郎も、その妻も、爺様も。
最初から、自分たちだけで行くつもりだった。
仁吉だけを切り離し、祖母方の佐野家へ養子に出して、急ぎ元服までさせた。
花蓑家に仕える勝三郎の倅ではなく、豊臣方へ帰属した佐野家の者として生きられるように。
自分たちは北条方として戦う。
だが息子にまで、その忠義を背負わせる必要はない。
そう決めたのだろう。
(……あやつ)
千景は奥歯を噛んだ。
(最初から帰る気がなかったのか)
相談してくれれば。
違う道もあった。
もっと早く逃がすことも、花蓑家から離れる道を探すことも、己の伝手を使って家族ごとどこぞへ匿うことも。
千景には、本当にその力があった。
だが勝三郎は言わなかった。
言えるはずもない。
豊臣方の千景に助けを求めることは、主家を売ることになる。
そして千景もまた、言わなかった。
豊臣の忍びが北条方の男へ戦の内情を漏らすことなど、出来ようはずもなかった。
なんとも歯痒いことよな。
「ご覧下さい」
仁吉の声に、千景は我に返った。
「そのおかげで、このような良い部屋を頂けたのです」
嬉しそうに示された部屋を見回す。
良い部屋。
戦支度に追われていた頃の飯泉の家と比べれば、確かにそう見えるのだろう。
千景の目には、佐野家の若い者へ与えられた、ごく普通の一室にしか映らなかった。
「そなた……」
言いかけて、やめる。
「いや……いや、なるほどな」
代わりに笑った。
「其方が急に行方が分からなくなったかと思い、心配で随分探していたのだ。……ここに居て良かった」
嘘ではない。
探していたのは一家全員ではあったけれど。
ここに居て良かった。
生きていて良かった。
仁吉も少しだけ笑った。
「ぼく……えと、私もおじ様に会えてうれしゅうございます。ここでは見知った方に会えると思ってはおりませんでしたので……」
「よい、よい。私の方こそまたここに来よう。次は土産も持参するでな? 驚かせてすまなんだ」
「本当ですか!? 楽しみにしておりますね」
「ああ。今は役目の途中ゆえもう出るが、またな。仁吉」
「あ……」
少年が背筋を伸ばす。
「今は名を、佐野仁右衛門と申します」
「そうか……」
その名を胸の中で一度繰り返した。
「では仁右衛門殿、またな」
「はい、また……」
*
それから千景は、折を見て仁右衛門を訪ねるようになった。
飯泉へ戻そうとは考えなかった。
勝三郎たちが命懸けで作った、佐野仁右衛門という生きる道である。己の寂しさで壊してよいものではない。
ただ、顔を見に行く。
食えているか。
眠れているか。
佐野家で粗略に扱われてはいないか。
時折、菓子や果物も持っていった。
仁右衛門は何も知らない。
千景を、昔から近在に住んでいた、豊臣家で算用をしているおじ様だと思っている。
それでよかった。
「おじ様」
「なんじゃ」
「おじ様と同じ仕事が出来るよう、最近はしまっていたそろばんを引っ張り出して、算学をやりなおしておるのです。ふふ」
「なんと!」
千景は思わず笑った。
「其方は確かに勉強上手ではあったが……待っておる。しかし根を詰めるなよ。時間はあるゆえな」
「はい!」
時間はある。
そう口にするたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
勝三郎たちにはなかったもの。
だが、仁右衛門にはある。
急いで大人にならずともよい。急いで佐野家へ恩を返さずともよい。
髪を改め、名を変えたからといって、翌朝から大人になるわけではないのだから。
周囲は皆、彼を佐野仁右衛門と呼んだ。千景もそう呼ぶ。
ただ、二人きりになると時折口を滑らせた。
「儂にはいつまでたっても仁吉なのよ。何回元服したとてな」
「ええ……?」
「なんじゃ、その顔は」
「いえ……おじ様は普段、仁右衛門殿と呼んでくださるではありませんか」
「名はな。其方がそう名乗ったゆえ、そう呼んでおる」
「では仁吉ではないでしょう」
「それとこれとは別よ」
「別なのですか……?」
「別じゃ」
仁右衛門には、最後までよく分からなかった。
*
美濃へ行けと命が下った。
表向きは、蔵入地の算用と収納を確かめるため。
嘘ではない。
嘘ではないが、それだけでもない。
千景にとって、美濃は珍しい土地ではなかった。
(美濃土産なあ……来すぎて何がいいかも分からなんだ……)
そんなことで悩む程度には、何度も赴いている。
出立の前、仁右衛門のところへ寄った。
「仁右衛門殿、おるか」
「おじ様!」
机には算盤と帳面が広げられている。
「今日はな、少々暇乞いに参った」
「おいとま?」
「ああ。役目で美濃まで行くことになった」
「美濃……遠いのですか?」
「まあ、近くはないな」
「どれくらいでお戻りに?」
千景は一瞬だけ黙った。
算用だけならば、おおよその日取りは分かる。
もう一つの役目には、帰りの日など決まっていない。
「さてな。ひと月か、ふた月か。もう少しかかるやもしれぬ」
「そんなに……」
肩を落とす仁右衛門を見て、千景はようやく気付いた。
この子にとって、親しい者が遠くへ行くということは、ただの留守ではないのだ。
「仁右衛門」
「はい」
「戻る」
少年が顔を上げた。
「……はい」
「ゆえに、其方はここで待っておれ。戻ったら、また土産を持ってくる」
「美濃のお土産ですか?」
「そうなるな」
「何があるのでしょう」
「さて。行ってから探す」
「ふふ。楽しみにしております」
ようやく笑った。
「それから算学はほどほどにな」
「はい!」
部屋を出ようとした背中へ声が飛ぶ。
「おじ様!」
「ん?」
「……お気をつけて。いってらっしゃいませ」
「ああ」
千景は笑った。
「行って参る。仁右衛門殿」
少年は知らない。
おじ様が算盤と帳面のほかに、刀を携えて美濃へ向かうことを。
*
千景が仁右衛門を可愛がっていることは、いつしか周囲にも知られていた。
年若い仁右衛門をあまりに頻繁に訪ねるものだから、千景が個人的に殊更目を掛けているのだと見る者もいる。
中には、二人の間柄を衆道のそれと見る者さえあった。
千景は気付いていたが、特に正さなかった。その方が都合がよい。
小田原北条方として戦った家の生き残りを、豊臣家の忍びが庇護している。
そんな事情を探られるくらいなら、千景が個人的に気に入っている若者だと思われていた方が、よほど楽だった。
(なんで未来の宝に手を出すんじゃい)
内心では呆れていたが。
(確かに妻子はおらんがな)
弱点とならぬよう婚姻せなんだ。
忍びの家に生まれ、祖父は北条を離れ、父は他家へ仕えた。己は織田へ仕え、その織田が瓦解すれば今度は豊臣へ移った。
血が繋がっていても、主が違えば敵になる。同じ風魔の流れにあった者と、小田原で互いを探り合ったことすらある。
忍びの家が続くということが、必ずしも幸せなことだとは思えなかった。
だから妻子を持たない。
守る者を作らない。
捕らえられて困る者を作らない。
そうして生きてきたはずだった。
(しかしまあ……)
算盤を弾く仁右衛門を見る。
(まさに仁吉がそれになってしもうたか……)
会わなくなれば弱点でなくなるというものでもない。
ならば仕方がない。
守ればよい。
もっとも、上役にはとうに知られていた。
「佐野仁右衛門という童がおるそうだな」
「…………おりますな」
「花蓑の被官、勝三郎の倅。祖母方の佐野へ養子入りした」
「左様で」
「お前とは古い馴染みだとか」
「近在で育ちましたゆえ」
「ずいぶん探したそうだな」
「……お耳が早い」
「お前のことだからな」
千景は誤魔化さなかった。
「はい。探しました」
「何故だ」
「生きておるか確かめたかった。それだけにございます」
上役はしばらく千景を見ていたが、
「……そうか」
とだけ答えた。
後日、不意に言われた。
「お前にも、ようやく出来たか」
「何がでございます」
「弱みよ」
千景は苦笑した。
「……弱みとならぬよう生きてきたつもりでございましたがな」
「つもり、か」
「ええ。どうやら仁吉がそれになってしもうたようで」
「ならば守れ」
それ以上、上役は何も言わなかった。
*
時代が動く。
太閤が薨じ、その二年後には関ヶ原で天下を二分する戦が起こった。やがて徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。
主は変わり、国も変わる。
昨日まで味方だった者が敵となり、敵だった者と同じ席に着く。
千景にとっては、今に始まったことでもない。
それでも人は飯を食う。
米は運ばれ、銭は動き、帳面は残る。
仁右衛門はよく働いた。
算学を覚え、帳面を任され、いつしか後進へ仕事を教えるまでになる。
久方ぶりに顔を見せた千景は、廊下の向こうで若者へ教える仁右衛門を見つけた。
「ここは合うておる。だが、この数字を先にこちらへ移してから算盤を入れた方が間違いが少ない」
「はい、佐野様」
「急がずともよい。まず確かめよ。時間はあるゆえな」
千景の足が止まった。
(……ああ)
昔、自分が仁吉へ言った言葉だった。
背が伸び、声も低くなった。
「ぼく……えと、私」
そう言い直していた子が、今では何の迷いもなく私と言う。
佐野仁右衛門という名も、とうにこの男のものになっている。
(立派になったものよ)
その瞬間、飯泉の梨畑が浮かんだ。
勝三郎。
その妻。
爺様。
(……見せてやりたかったなあ)
「……おじ様?」
気付かれた。
「ん?」
「いつからそこに?」
「今し方よ」
「嘘をおっしゃい。ずっとこちらを見ておられたでしょう」
「……はは。見つかったか」
近付いてきた男を改めて見上げる。
「大きゅうなったな、仁吉」
「…………おじ様」
「なんじゃ」
「私はもう三十を越えております」
「知っておるわ」
「いつまでそれを仰るおつもりです」
「儂が死ぬまでよ」
仁右衛門は呆れた顔をし、千景は笑った。
*
さらに幾年か過ぎた頃。
「仁右衛門殿、飯泉に参るぞ」
「……え」
「墓参りじゃ」
仁右衛門は、誰の墓かとは聞かなかった。
北条が滅びて、既に二十年近い。
今ならばよい。
二人で相模へ戻った。
千景にとっては、生まれ故郷への帰還でもある。網一色を通り、酒匂川を越えて飯泉へ向かう。
「おじ様」
「なんじゃ」
「この辺りはお詳しいですね」
「生まれ育った土地じゃからな」
「それは存じておりますが……」
「なんじゃ」
「道を一本も迷われぬので」
「……昔から歩き回る仕事をしておったのでな」
「算用のお役目で?」
「…………まあ、そのようなものじゃ」
飯泉の景色も随分と変わっていた。
昔の梨の木は、もうない。
「……何もありませんね」
「そうじゃな」
「私……もっと広かったように覚えております」
「童の頃は何でも大きゅう見えるものよ」
「……あそこに、大きな梨の木がありました」
「あったな。其方、登って叱られておった」
「覚えておられるのですか」
「儂を誰だと思うておる」
「算用のおじ様でしょう」
「…………そうじゃな」
墓前で仁右衛門は長く手を合わせた。
「……おじ様」
「なんじゃ」
「父上たちは……私を捨てたのでは、ありませんよね」
「阿呆」
「……はい」
「捨てる子のために、あれほど手を尽くす親がどこにおる」
仁右衛門は俯いた。
「其方を生かしたかったのよ」
「……左様でございましたか」
「うむ」
「…………私は、生きました」
「知っておる」
「父上、母上、爺様が望んだほどの者になれたでしょうか」
「それは知らん。儂はあやつらではないからな」
少し間を置いてから、
「ただ、儂はよう生きたと思うぞ。仁吉」
と千景は言った。
仁右衛門は、しばらく墓前から動かなかった。
千景も急かさない。
急ぐ必要など、もうどこにもなかった。
*
仁右衛門が妻を娶ると、千景は大いに喜んだ。
相手の家について妙に詳しかったものの、仁右衛門は、おじ様は仕事柄顔が広いのだろうと考えていた。
妻の方は、夫の言う「算用のおじ様」に少々疑問を抱いたらしい。
妙に顔が利く。
名のある武将が向こうから声を掛けてくる。
豊臣の世が傾き始めても、徳川方にまで知己がいる。
かと思えば、時折ふらりと遠国へ出て、何月も戻らない。
「あなた、おじ様は本当に算用のお役目なのですか」
「何を申す。昔からそうだぞ」
「……左様で」
やがて、子が生まれた。
「おじ様、抱いてやってください」
「いや、儂は――」
「ほら」
「待て待て待て、首が据わっておらんではないか!」
戦場を潜り、敵地へ忍び、刀を向けられても眉一つ動かさなかった男が狼狽する。
おっかなびっくり赤子を受け取った。
「……これでよいのか?」
「はい。お上手ですよ、おじ様」
「まことか……?」
小さな顔。
小さな手。
柔らかな頬。
「…………」
「おじ様?」
ぽたりと涙が落ちた。
「……良かった」
「え?」
「良かった……良かった……」
一度溢れれば、もう止まらなかった。
「勝三郎の孫だ……」
腕の中にある命を見つめる。
「命だ……」
飯泉の家はなくなった。
勝三郎も、その妻も、爺様もいない。
仁吉だけが残ったのだと、ずっと思っていた。
違った。
残った命から、また新しい命が生まれた。
「……勝三郎に、見せてやりたかった……」
「おじ様」
「はあ……これで心残りは無くなった」
「そんなおじ様、縁起でもない」
「いやいや、すごい事だ……」
「ですがおじ様には残念ですが、心残りを一つ増やしてしまうことがありまして」
千景は鼻を啜った。
「なん……なんだと???」
「この子の名前、おじ様から拝借しました」
「は?」
「名を喜平。おじ様の幼名ですな」
「!?」
千景は仁右衛門を凝視した。
「そなた、儂の幼名よう知っとったな……?」
「当たり前です。父上様は家ではずっとおじ様の事をこう呼んでおりましたゆえ」
「……勝三郎が、」
「はい」
「儂がおらぬところでもか」
「いつも。母上様に、今はその名ではございませんよ、と笑われても」
喜平。
勝三郎は、ずっとそう呼んでいた。
自分が仁吉を何歳になっても仁吉と思うように。
「……そうか」
千景は腕の中の赤子を見た。
「喜平……」
小さな手が指を握る。
「おい」
思わず笑った。
「……おいおい。離さぬか」
「気に入られたようですな、おじ様」
「まったく……」
そう言いながら、振りほどきはしなかった。
「これでは、まだ死ねんなあ」
「ええ」
「困ったものよ」
「困りましたな、おじ様」
「……友の孫、友の子じゃ。儂が面倒見ずとも良かろうが、何かあれば儂に言え」
仁右衛門が顔を上げる。
「名をやったのだ、約束してくれ。困った時は必ず力を貸す」
「おじ様……」
「金でも仕事でも家のことでもよい。儂に出来ぬなら、出来る者を探す」
千景の声が低くなる。
「だから一人で決めるな。一人で抱えるな」
勝三郎。
何故、言ってくれなかった。
その後悔だけは、今も消えない。
「努努忘れるでないぞ……」
「はい」
「儂はお前達が思うより、ちょっと良い所の役なのだ」
「……算用の?」
「うむ」
「おじ様。以前、算用のお役目に上も下もないと仰っておりませんでしたか」
「…………」
「ちょっと良い所とは?」
「色々あるのじゃ」
「どなたの下に?」
「細かいことを聞くでない」
「おじ様?」
「よいから約束せい!」
「ふふ。承知いたしました」
「本当じゃな」
「はい。困った時は必ずおじ様に相談いたします」
「うむ」
それでよい。
知らぬうちに大事な者が消えるのは、もう二度と御免だった。
*
千景に妻子はいなかった。
己でそう決めたことである。
風魔の流れから分かれた家は北条を離れ、やがて千景は織田に仕えた。その織田が崩れれば豊臣へ移り、同じ血筋の者と敵味方に分かれたことさえある。
家を続ければ、いつかまた同じことが繰り返されるのかもしれない。
忍びの家に生まれたというだけで、子や孫にまで同じ業を背負わせる。
千景は、それを望まなかった。
「お前、後継を置かぬのか」
晩年、古い上役に問われた。
「要りませぬな」
「家が絶えるぞ」
「絶えますな」
「惜しくはないのか」
「さて。儂の家が続いたところで、儂が見るわけでもなし」
「佐野には継がせぬのか」
千景は笑った。
「仁吉は勝三郎の倅です」
答えに迷いはない。
「佐野へやったのも、あやつらが仁吉を生かすために選んだこと。それを今更、儂の都合で動かしてどうします」
「では、お前が残すものは何もないな」
「いや」
少し考える。
「……喜平がおります」
それで十分だった。
己の家は己で終わればよい。
風魔より伝わった技も、父から教わった忍びの術も、織田と豊臣のために磨いてきたものも、誰かへ継がせるつもりはない。
騙し、盗み、陥れ、時には殺した。
戦とは、表で槍を合わせる者だけが汚れるものではない。千景の手とて、随分と汚れている。
そんなものまで仁吉や喜平へ残す必要はなかった。
業は己と共に墓へ入る。
ただ一つ。
己の家で代々用いてきた紋の入った、小さな根付だけを喜平へ残した。
家を継げという意味ではない。
忍びになれという意味でもない。
この世に一人、千景という男がいた。
その男が仁吉を大切に思い、その子の誕生を喜んだ。
いつか、それだけ分かればよかった。
*
千景は、豊臣の世の終わりを見ることなく死んだ。
喜平を抱いてから、そう長くはなかった。
仁右衛門は泣き、遺された小さな喜平の手を握った。
その後、世は再び戦へ向かう。
大坂冬の陣。
そして夏の陣。
大坂城は落ち、豊臣家は滅んだ。
千景が生涯の後半を仕えた世もまた、千景を追うように終わってゆく。
風魔より分かれ、織田に仕え、豊臣に仕えた一つの忍びの家も、ここで歴史の表から姿を消した。
*
ところが。
千景が死んでから、仁右衛門一家には奇妙なことが増えた。
やたらと名のある武将や、その重臣から声が掛かるのである。
「佐野仁右衛門殿にございますな」
「……はい」
「我が殿がお会いになりたいとのこと」
「…………私に?」
「左様」
「同姓同名では?」
「御父君は勝三郎殿。御子息は喜平殿と承っております」
「……間違いなく私ですな」
何をした。
己か。
喜平か。
いや。
(おじ様か!?)
恐る恐る出向けば、
「おお。そなたが仁吉か」
「…………は?」
何故この御方が仁吉を知っている。
「あやつから随分聞いておった。美濃へやった折にも、帰りの土産は何がよいと思う、と悩んでおってな」
「…………」
「算学をやり直しておるから書物がよいか、いや根を詰めるから駄目だ、と」
「………………」
(おじ様ァ……!)
別の者には、
「幼い頃は梨を抱えて転んでも離さなんだそうだな!」
と笑われた。
「……誰から」
「無論、あやつよ」
仁右衛門は頭を抱えた。
そして、さらに恐ろしい話まで聞こえてくる。
「あやつには甲斐で世話になった」
「儂は小田原の折に助けられた」
「あの男が知らせを寄越さねば、兵を失うところだった」
「関ヶ原の前にも、妙なところから文が来てな」
「敵味方を越えて、妙に知己の多い男だった」
「昔は織田におったそうだぞ」
聞けば聞くほど、仁右衛門の中で何かがおかしくなっていった。
豊臣家はもうない。
なのに何故、徳川方にまでおじ様を知る者がいる。
何故、甲斐の話が出る。
何故、小田原の戦の話が出る。
とうとう尋ねた。
「失礼ながら……おじ様は、いったい何のお役目だったのでございましょう」
「…………聞いておらんのか?」
「算用の役と」
沈黙。
やがて誰かが吹き出した。
「ぶはっ」
それを皮切りに笑いが広がる。
「笑い事ではございませぬ!! 私は何十年そう聞いて生きて参ったのですぞ!!」
それでも、誰も詳しくは教えてくれなかった。
「まあ、知らずともよい」
「何故です」
「本人が話さなんだのであろう?」
「はい」
「ならば、あやつはお前に知られたくなかったのだ」
老人は懐かしそうに笑った。
「よく働いた男だった。それだけ覚えておけばよい」
「…………」
「そなたが知っておる千景が、そなたにとっての千景でよい」
後日、仁右衛門は墓前で散々文句を言った。
「おじ様。何が『ちょっと良い所の役』ですか」
当然、返事はない。
*
やがて喜平も元服の時を迎えた。
仁右衛門は息子へ、ある名を与える。
亡きおじ様が生前に名乗った、その名を。
佐野喜平。
改め、
佐野千景。
「父上」
「なんじゃ」
「何故、この名なのです」
「お前を抱いて、あれほど泣いた男の名だ」
「……あのおじ様の?」
「ああ」
「私はほとんど覚えておりませぬ」
「それでよい」
「よいのですか」
「よいのだ」
仁右衛門は笑った。
「あの人も、きっとそう申す」
忍びの家を継がせたわけではない。
風魔の流れも、佐野千景には何の意味も持たなかった。
ただ、幼い頃から持たされていた根付には見慣れぬ紋が刻まれている。
父に尋ねても、
「おじ様の家のものだ」
としか教えられなかった。
それでよかった。
*
やがて佐野千景が婚姻することとなった。
その折である。
一通、二通ではなかった。
父・仁右衛門すら面識の薄い家から、祝いの書状が届いた。
旧豊臣方の家。
今は徳川に仕える家。
かつて北条に仕え、後に徳川へ召し抱えられた家。
関ヶ原では千景と敵味方に分かれたはずの者。
そのいずれからも、
――千景の名を継いだと聞いた。
――目出度く思う。
――夫婦睦まじく、家を盛り立てよ。
――困った折には遠慮なく申せ。
そんな言葉が届く。
「…………」
「…………」
父子で黙り込んだ。
「父上」
「なんじゃ」
「おじ様は、何をなさった方なのですか」
「私に聞くな……」
「算用のお役目では?」
「私もそう聞いて育ったのだ……」
「本当に?」
「本当にだ!」
死してなお、おじ様の残した縁は大きすぎた。
*
佐野千景は親によく似て、よく働く男になった。
よく学び、よく笑い、妻を娶って子を育てる。
時折、身に覚えのないところから助けの手が伸びた。
窮すれば、何故か話を聞いてくれる者がいる。
初対面の老臣が名を聞くなり、懐かしそうに目を細めることもあった。
「千景というのか」
「はい」
「……そうか。よい名だ」
理由を尋ねても、多くは語られない。
「昔、世話になった者がおってな」
「その名は粗末にするなよ」
「困ったことがあれば申せ」
己の生涯に差し伸べられる数多の手が、かつて一人の男が長い年月をかけて結んだ縁の続きであることを、佐野千景が知ることはなかった。
初代千景は相模に生まれ、戦国の世を生きた。
祖を辿れば風魔へ行き着く家の生まれでありながら北条には仕えず、織田へ出て、織田が滅びれば豊臣へ移る。そうして故郷へ戻った頃には、幼馴染も、同じ流れを汲む者たちも戦場の向こう側にいた。
人に知られぬ仕事を幾つも果たし、己の家を残すことなく死んだ男である。
二代目千景は、その業を知らない。
知らぬままでよかったのだろう。
刀より算盤を使うことの方が多く、人を欺くより人と話す。遠国へ赴く時にも、帰れぬ覚悟など必要としない。
妻を娶り、子を育て、多くの者に助けられ、やがて己も誰かへ手を差し伸べるようになってゆく。
その名に何が託されたのか、すべてを知る日は来ない。
それでも構わない。
初代千景が墓へ持っていったものを、二代目が背負う必要などなかったのだから。
忍びの家は絶えた。
風魔から伝わった技も、その家とともに消えてゆく。
北条も、織田も、豊臣も、既にない。
かつて人々を敵と味方に分けたものの多くが、時の向こうへ去っていった。
けれど、人から人へ渡されたものまで、そこで絶えるわけではない。
勝三郎が仁吉へ渡した命。
仁吉が喜平へ繋いだ命。
そして千景が、生涯をかけて結んだ縁。
名を受け継いだ者が、そのすべてを知ることはないだろう。
誰かに助けられた理由を知らぬまま、その厚意を受け取ることもある。
そしていつか、自らも別の誰かへ手を差し伸べる。
そうして結ばれた縁は、初めに誰が手を差し伸べたのかさえ分からなくなるほど遠い先まで、形を変えながら続いてゆくのかもしれない。
千景という名さえ、いつか忘れられる日が来るだろう。
それでもよかった。
残す必要のないものは、あの男がすべて持っていった。
残ったものは、もはや誰か一人のものではない。
飯泉の梨畑も、勝三郎の家も、とうにない。
けれど、あの日そこから送り出された子供は生きた。
佐野仁右衛門として妻を娶り、子を育て、受け取った命を次へ渡した。
そして時折、とうにいなくなった男のことを思い出したという。
何十年経とうが、自分を仁吉と呼んだ男のことを。
あの日。
飯泉の梨畑から、たった一人送り出された仁吉は。
もう、どこにもいなかった。




