第九章:メタバースに漂う「ナポレオンの幽霊」 —— 現代シリコンバレーの管理者
現代。アメリカ、シリコンバレー。 世界最大のテック企業「ゼノ・システムズ」の、冷却ファンが唸りを上げる巨大なサーバーファームの深奥。そこで、全地球規模の仮想現実プロジェクトが、不気味な胎動を始めていた。 彼らは、CERNが解析した「辞書の完全なデジタル・クローン」を、自社の開発する次世代メタバースの核として組み込んでいたのだ。
「言葉が現実を再定義する時代が、今再び、デジタルの力で蘇る」 若きCEO、アーサー・キングは、最新鋭のVRゴーグルを装着しながら、冷酷な勝利者の笑みを浮かべた。 メタバースの中では、ユーザーは自由に辞書のデータを呼び出し、自らのパラメータを書き換えることができる。そこは、かつて朱元璋が夢見た「飢えも苦痛もない理想郷」であり、ナポレオンが体現した「不可能なき全能の支配」が、全ての個人に平等に与えられるはずの世界だった。
しかし、その仮想空間の最下層、ゴミデータが溜まるメモリの隅に、奇妙なアノマリー(異常)が漂っていた。 古書修復家であり、同時に凄腕のプログラマーとしてゼノ・システムズに雇われた主人公のカイは、コードの余白に、歴史上の英雄たちの「残留思念」がデジタル・ゴーストとして棲みついているのを発見する。
「……君も、この汚れたページをめくりに来たのか?」 仮想空間の闇の中から、一九世紀の軍服を纏ったアバターが、カイの前に現れた。その顔はナポレオンそのものだったが、その声は数億の演算処理を重ね合わせたような、震える重層音だった。 「私は『不可能』という不純物を消した。だが、消した瞬間に、勝利の味も、努力の輝きも、全てが消え去ってしまったのだ。限界がない世界では、達成という概念すらデータ上の単なるフラグに過ぎない。君たちの作るこの世界は、私がかつて味わった虚無の拡大版だ」
カイは、ナポレオンの影の背後に、さらに巨大な黄金の龍の影を見た。朱元璋だ。 彼は荘厳な法衣を纏いながらも、その目は深い絶望の虚無に沈んでいた。 「言葉から『苦しみ』を消せば、人はもはや、自分が『生きている』という実感を維持できぬようになる……。このメタバースこそが、我々が最後に辿り着いた、最も贅沢で最も広大な『魂の牢獄』なのだ」
カイは、辞書のデータがもはや仮想世界に留まらず、現実の世界のインフラにまで干渉し、破壊し始めていることに気づく。仮想現実と現実の境界が融解し、世界は再び「言語プロトコルの不一致」による、バベルの崩壊以来の最大規模のシステムクラッシュへと、一気に加速していた。




